Chapter 1
坊や、私は今お前を見るお母さまの側にそい寝して居るお前を見る何と云うこましゃくれた相だ何と云う不思議な生物だそれが十ヵ月前に生れたあのみにくかった肉塊か母の胎内から外にとび出してさながら世の中を馬鹿にしたように一しゃくりくしゃみしてさて初めてオギャアと泣き出したあの肉塊かああお前は実に、私の驚異だ
まだお前のお誕生が来ないのにお前はもう立派な人間だ人並みにお前は悲しみを知って居る、人並みにお前は寂しさを知って居るそしてまた喜びを、怒りを、嘆きを、厳粛を、滑稽を、遊戯を、飢えを、満腹を、お前はもう大人の言葉をききわけるお父さまがしかるとお前は泣くお母さまが愛想の言葉をかけるとお前は喜ぶお前はまたお前自身の言葉をもって居る、機嫌のいい時にはアップアップと云い要求するときには泣き悲しい時にも泣き、怒るときにも泣く、泣くことがお前の言葉だだがお父さまにはその泣き方でお前の心がわかる、
お前は恐ろしい観察者だたった一つのマッチ函でもお前はそれをあだには持たぬ幾度も幾度もお前はそれを持ちかえて見る、先ずその赤い絵のついて居るところを、それからその反対の側を、それからその横側を、それからそのたて側をそして何時の間にかお前はその内容をひき出してたのしむで居る。どんな科学者もお前程には精密な研究をしないだろう
お前はもうあの紙鳶を覚えて居るお祖父さまから贈って下さったあのお前の好きな紙鳶を「坊や、紙鳶は」お母さまがたずねるとお前はきょろきょろとあたりをみまわしてそしてついにそれを見つける、お前はまた電燈を覚えた、時間をも、小母さまをも、せつやをも、お父さまをも、お母さまをもそしてトウトウの鳴きごえをも兵隊さんのカッパカッパをも
おお、坊や智恵づくにつれてお前も益々かわゆくなるお父さまの胸には愛情が春の陽のようにふくらむで来る、親の愛だ、お父さま自身にもわからぬ愛だ、お前は此の愛をむさぼる、飽くことも知らず此の愛を吸うそしてお父さまも愛の報酬を――歓喜――をうけるだが坊や、ゆるしてお呉れお父さまは時々さびしくなるのだお前を見て居るとさびしくなるのだお前は成長するお父さまは衰える自分の仕事の半分もしないうちにお父さまはもうお前のために働かねばならぬまるで、お前を育てることが唯一の使命ででもあるようにああお父さまは、いや人間は生命の子を産むためにのみつくられたのだ生活のアルファよりオメガまで一切はまた生命のためだ自分のために生きる寸毫の特権もない生命の与えて呉れた自分と云うものはああはかない精神の蜃気楼に過ぎない自分と云う意識があるのに自分に許される何物もないそしてみんな子孫を残しては死ぬのだお前もまた同じように。愛慾のさびしさよ理智のかなしさよ
だが坊や、それでもなお私はお前に感謝するややともすれば浮かれ勝ちな私の心はお前を見ることによって引きしめられるそして影のような自分から解き放ってくれるそして常住の都に住まわせてくれる
さびしさとよろこびと失望と希望と無力と発憤とそれ等はお前の私への贈物だそれによって私は生のあじわいを知る
お前についての私の心づかいは大きいけれど今は云うまいただ私はお前をほめるそしてお前に感謝する
おお、お前は少し眼がさめた様だ夢を見たのか足が冷めたいのかお腹がすいたのかクスックスッとお前は云うおや、お母さまが夢中でお前をあやして居る……坊やはいい児だ、ねんねしな 坊のお守は……何処へい……もうお母さまのお歌の声もわからぬ思えば不思議な事だまだ人生のほんの子供であるお母さまがそんなにしてまでお前をいたわって居る不思議な力だお母さまやお父さまとはかかわりのない、何かほかのものだと思われる力だお前はその力にまもられて居るお前はその愛にそだてられて居るお前はいま何も知らないけれどやがて凡てがわかるだろう
お前は驚異だお前は歓喜だお前は寂寥だそしてお前は真理だ私はお前をほむ、お前をたたえる。(『民衆』一九一八年二月号に発表)
●図書カード