Chapter 1 of 5

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安藤昌益

狩野亨吉

一 安藤昌益と其著書自然眞營道

今から二百年前、安藤昌益なる人があつて、萬物悉く相對的に成立する事實を根本の理由とし、苟くも絶對性を帶びたる獨尊不易の教法及び政法は皆之を否定し、依て此等の法に由る現在の世の中即ち法世を、自然の道に由る世の中即ち自然世に向はしむるため、其中間道程として民族的農本組織を建設し、此組織を萬國に普及せしむることに由つて、全人類社會の改造を達成せしめようとしたのである。當時の學者が三教以外に何事をも考へ得なかつた間に在つて、かかる斬新なる思索を徹底せしめ、大膽なる抱負を實現しようとしたことは、啻に視聽を聳動する種類のことであるのみならず、實際重大なる問題を惹起する性質のものであるから、極めて謹愼なる態度を取り、輕率なる行動を避けたるがため、廣く世人の耳目に觸るることなく、其結果が遂にこの破格的人物の存在を忘るることに至らしめたのである。

安藤昌益の名が文獻に見はれたのは、寶暦四年刊行の新増書籍目録卷二に、其著書である孔子一世辨記二册と自然眞營道三册とが掲載せられてゐるのが最初であり、又最後であつたらうと思はれる。此目録には安藤良中としてあるが別人ではない。私は此二書を未だ見たことがないので、漠然とその内容を想像することは出來るが、はつきりしたことは知ることが出來ない。既に出板になつたものとすれば誰か讀んだ人もあつたらうに、其後徳川時代を過ぎ明治に入る迄も、安藤の名が人の口に上らない所を以て見ると、彼の著述は當時何等の反響を起さずして、いつしか忘れられてしまつたものと思はれる。もし其樣な運命に陷つたものとすれば、あの時世大方讀む人が文章の不味いのと分り難いとに呆れて、思想の卓越したる所を理解する迄に注意して見なかつた爲と取らざるを得ない。

明治三十二年の頃であつた。私は自然眞營道と題する原稿本を手に入れた。此本は元來百卷九十二册あるべきところ、生死之卷といふ二册が缺けて居た。九十二册の内初めの二十三册は破邪之卷、第二十四册は法世之卷、第二十五册は眞道哲論、第二十七册以下は皆顯正之卷となつてゐた。生死之卷もこの顯正之卷の内である。毎卷に確龍堂良中著と記し、寶暦五年に書いた自序の末に鶴間良龍と推讀される書印があつた。其頃は寶暦書目を參考することに氣付かなかつたので、多分鶴間が本名であると思ひ心當りを尋ねて見たが分らう筈がなく、其間に左傾派の人にも洩傳はり、幾分宣傳用に使はれたかとも思はれる。是程の見識を持つてゐた人の本名が知れないのは殘念と思つて、最後の手段として原稿本の澁紙表紙に使用された反故紙を一々剥がしながら調べて見ると、幸ひにも其中から手紙の殘闕が二三發見せられ、其内容から本名が安藤昌益であると推定されたのである。

自然眞營道の原稿本は大正十二年の春東京帝國大學に買上げられ、其年の大震災に燒けてしまつた。かういふ事にならうとは夢思はなかつたので、私も又私から借りて見た二三の友人も、誰あつて抄寫して置かなかつた。彌なくなつて見ると、複本を拵へて置けば善かつたと悔んだが始まらない。然るに翌年幸ひにも又安藤昌益の著した統道眞傳と云ふ書物を得ることが出來た。其本は原稿ではなく門人が寫したと思はるるもので、五册あるが完本ではない。此本を獲て幾分損失を恢復した樣な氣がしたものの、此書は門人に示す爲めの抄録のごとく思はれ、概要を瞰ふことは出來るが、内容の上にも修辭の上にも著しい差異があつて、同一人の著述としては甚だ見劣りがするのである。自然眞營道に在つては安藤は畢生の精力を傾注した思索の結果を、百年の後を期して書殘すのであるとの用意のもとに筆を採つたものであるから、何等憚る所なく、最も大膽なる敍述をなし得たるため、一體に不文なる安藤も或は同情に驅られ、或は義憤に激せられて忽ち雄辯となり、古來聖人と尊ばれ英雄と崇められたる人物を拉し來つて叱責罵倒の標的となし、氣焔萬丈、全く當るべからざる勢を示し、極端なる場合には敢然決死の態度を以て痛烈肺肝を貫くの言を爲すのであつた。

止むことを得ずして何時でも決死の態度をとつたらうと思はるる彼れ安藤は實は純粹なる平和主義の人であつた。平和を唱へながら直ぐと腕力に訴へる樣な族とは全然其選を異にしてゐたのである。彼の常に云ふ語に、我道には爭ひなし、吾は兵を語らず、吾は戰はず、と云ふのがある。後に説明するが此語此考は實に彼の思索の中樞を成してゐる所から派生し來るので、決して卑怯な心から出たのではない。又此考が形を變じて前陳べた所の百年の後を期して書殘すのであると云ふ語に成つたことは尤も味ふべき所である。私は自然眞營道の中に數ヶ所で此語に出遇つた。一面には略本三册を公刊しながら、他方には全本百卷は容易に公にしないと云つたことで、安藤がかうした考になつた理由は推測するに難からずである。先以て彼は公にすべきものと公にすべからざるものとの區別を知つて居たと云ふが一つの理由である。是が又平和主義と關聯してゐるのは明白である。もしかの猛烈なる完本をそのまま出板したとすれば、而して世人に讀まれ、多少とも影響するところがあつたとすれば、其結果は知るべきで、直に彼と當時の爲政者との爭ひとなることは、何も之を實行に訴へなくとも、考へて見ただけでも明白な事柄である。然るに安藤は徹頭徹尾爭ひを嫌つてゐる。爭ひを止めようと云ふのが彼の主張であるのである。それ故に彼は先づ遠的なる略本を公刊して世人を啓發することに勉め、機熟するを見て全本を示さうとしたに違ひがない。彼は人騷がせをして迄も功名を急ぎ、結局主義主張を棒に振ると云ふ如き愚策に出でなかつたのだと考へるのが當つてゐると思ふ。

私が今遠的と云つたのは未だ見ぬ本の内容を評したもので推測から出てゐる、當つてゐるか居ないかは後に再び論ずることにして、今は全本自然眞營道に就き安藤の主義主張が那邊に在るかを檢覈して見よう。

二 安藤昌益の思索の徑路

安藤昌益が社會の改造を思立つに至つた譯は、世間に不合理なる事が廣く行はるるを見て、如何なる原因があつてかかる譯の分らぬ社會が成立してゐるのかと深く尋ねて見たことが始めである。彼が世間の不合理に憤慨しただけで起つたら、彼は單に涙の人であつたので、普通一般の革命家とか又は其雷同者とかの列に墮したに相違ない。しかし彼は情の人であつたと同時に又智の人であつた。それ故熟慮熟考を重ね彌十二分に理由を突き止めたと思ふ迄は輕率に蹶起しようとはしなかつたのである。ここに彼の思索の徑路を辿つて少し精しく述べて見よう。

冷靜に世間を觀察すれば、僞善にして蟲の良い輩ら、不公平にして横暴を振舞ふ族ら等、もし神佛が在ましたら早くどうかして貰ひ度いものが頗る多いことが明白になつて來る。萬一其の連中が上に立つて其模範を示される樣なことがあつては全く恐入るべきことであると云はざるを得ない。ところがさうした場合が昔から繰返されがちであるのが世相だと云ふことに氣付いて見たら、正義の士は默しては居られない筈である。安藤は此見地からして、歴史上に現れたる英雄豪傑を引摺出し、秀吉家康を其殿りとして筆誅することに勉めた。丁度誂草と云ふ書物の著者が企てたと同じ樣に廣い範圍に亙つてゐるが、些の戲謔を交へず眞摯一點張で通してゐる。彼がこの種類の問題を主にして起つに至つたとすれば、彼は山縣大貳とか維新の志士とか、或は少し變つて宗教の祖師とかいつた風の人になつたであらう。ところが彼にはそんな問題より尚大事であると考へた事があつた。其事は昔から當然の事と思つて、誰も疑ひを挾まないで過來つたものであるのに、彼は又其事を怪しからぬ事と解し、しかも亦天下此以上重大なる問題なしと考へたところに彼の獨創的の閃きを發揮するのである。

正保の昔し佐倉の義民木内宗吾が刑死した事や、寶暦の當時八幡の暴主金森頼錦が封を失つた事や、又夫等の事件ほど人口に膾炙するに至らないとは云ひ、所在聞くところのかの百姓一揆と稱するものは、皆治者と被治者の爭ひで實に苦々しい話である。しかし其原因を探つて見れば孰れも苛斂誅求に堪へなかつた農民の不平から起つた事で、根本の理由は生活を劫かされたと云ふ所に歸するから、實に強いので、其ため往々治者が被治者に負ける樣な珍妙な事になるのである。しかしかう云ふ事件を個々の事件として眺めただけでは何時迄も苦々しい事件といふ以外に何等の意味を發見することが出來ないのである。ところが安藤は此種類の事件を日本に起つた個々の事件として見ることの外に、之を一括して人類生存の意義に關する極めて重大なる問題に變形せしめたのである。

諺は中心からの喚びで、何等囚はれざる宣言である。其一つに米は命の親と云ふのがある。人はパンのみで生きるのではないと横鎗を入れることも出來る。しかしさう云ふ人も論より證據、矢張パンを必要とするとあつては、生命を支ふる一番大切なるものは食物であることは異論のあるべき筈がないので、其他のものは二次的三次的に考へらるべきものであると云はなければならない。此事實は三歳の童子も知つてゐる。いや生れたばかりの赤坊も自然に知つてゐるほど、それほど人間にとつては大切な事である。もしこの大切なる事實を忘れる樣な不埒ものがあつたら、命を失うたからとて不平も云へない筈である。此大切なる事實に直面して安藤は同胞の反省を促し覺醒を求むること痛切なるものがある。

安藤曰く、かの農民を見よ。農民は自ら直に耕して食ひ、以つて獨立の生活を營むもので、端的に此大切なる事實を實現しつつあるのではないか。さうした生活の模範を示すところの直耕の農民は、道理の上から須く一番貴まれなければならない筈であるのに、常に下にしかれて貧乏に苦しんでゐる。之に反し自ら耕さずして他人の耕したものを贅澤にも貪る如くに食つて生活する徒食者は、獨立しては立行けぬもので、實に憐むべきものである。しかるにも係らずさうした不耕貪食の徒は常に農民の上に位し、安逸な樂みをなしてゐる。實に不公平な不都合なことで、全く面白くない世相である。かう安藤は觀察したものである。ところが世界孰れの國に在つてもこの面白くないことが行はれてゐるといふことに氣付いて見ると所謂教だの政だのいふものは一體何所を目標としてゐるのかと憤慨して見たくなるのである。此見地に立つて安藤は治國平天下の代表者聖人孔子を罵り、救世の代表者世尊釋迦をも呵り付けるのである。もし彼が此特色ある問題を提げて起つたとすれば彼は歐米の主義者の先驅者となつたであらう。

然るに彼の透徹性は茲に止ることを許さず、彼をして百尺竿頭一歩を進ましめ、何故に治國救世を標榜する政や教が揃ひも揃つて、しかく無能であつて、世間の惡黨をも退治することも出來ず、又古今東西に亙つて行はるる不公平をも匡正することが出來ないのであるかと問はしめたのである。彼は自ら此窮極的なる問題を提出し、其解決を求めんがため博く深く考察を運らし、是を法世に囚れたる人に聞くを欲せず、人皇時代を通拔け、神代を突破し、遂に原始時代に突貫したものである。其間彼が歴史に對する面白い觀察もあるが略することとする。偖て原始時代に遡つて見れば其所にはあらゆる事物の搖籃が見出され、而して其搖籃の中に育ちつつある事物の起原が夫れ自身の詐らざる告白を爲すことに由つて、彼はやつと彼の提出した大問題の解決方法を考付いたのであつた。夫れから後は一瀉千里、完全に此大問題を解決することが出來たと思つた。彼が搖籃の中に見出したと云ふものは腕力であつた。同時に智力もあつた。其腕力それから智力、それから金力、それから夫等の力によつて組立てられた階級、分業、政治、法律、宗教、學問、あるとあらゆる制度文物が悉く間違つてゐると思うた事柄の原因をなしてゐると云ふことが、彼にとつては疑ふことの出來ない事實となつた。彼が茲に氣付いた時に靜に法世を棄てようとの決心を定めた。最早彼は法世に生息し法世を有難く思うてゐる人達を罵倒したり相手にしたりする遑がない。寧ろ法世其物を棄てなければならないのである。然らば先其教を棄てよう、其政を棄てよう、其文字言語をも棄てよう、よろしい思想其物迄も棄ててしまへ。是が彼の喚びである。かくして彼は遂に思想の虚無主義に立つことを餘儀なくせられたのである。

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