六
私の病気が再発したのはそれから間もなくであつた。それは全く急に起つて来たのであつた。そしてすべての症状が、その夏田舎に居た時と同じであつた。左の脚の筋が痙攣つて、股と膝との関節に烈しい疼痛を覚えた。併しもう五六日で正月だといふ忙しい時分であつたので、私は黙つて、我慢しきれるだけ我慢しながら立ち働いた。跛を引きながら水汲みにも行つた。買物に行きもした。私は家の外へ出ると、ひい/\と顔をしかめながら口の中で泣き声を立てた。が遂に迚も堪へられなくなつてお雪伯母に訴へた。
「冷えたんやらう、今晩から炬燵入れさしてあげるよつて、暖かにして寝なはい。そしたら治るえ。」
お雪伯母は無造作に言つた。
私はその儘脚が立たなかつた。翌る日一日寝て居たが痛みは益烈しくなるばかりであつた。
その晩、唐紙一重隔てた奥の間で伯父とお雪伯母とが次の様な話をして居た。
「私が能登へ行つた折も、矢張りあゝやつて寝て居よつたが、同じ病気に違ひあらへん。急に治らへんやらう。」
「さうどすかな、困つたえな。ぢき正月やのに、病人が居ては縁喜が悪るいえな。」
「仕様があらへん。病院へでも入れてやろか?」
「能登へ言うてやつたらどうどす? そして浅はんに来てお貰ひやすな。さうしたら浅はんが連れて帰らはるか、病院へ入れはるか、どつちなと為やはりますやらうえな。」
「ふうん。」と伯父は深い吐息を洩らした。「そんな薄情なことも出来へん。知らしてやるだけはやらねばならんが、そりや病院へでも入れてからのことや。為るだけのことは為といてやらんとな。」
かうして私はその翌日伯父に連れられて上京の方にある府立病院へ行つた。医者はすぐ入院して手術を施さねばならぬと言つた。私はその儘病室へ運ばれた。
そこは外科の三等室で、白いベッドが五台二列に対ひ合つて並んでゐた。私はその一方の端の方のベッドの上にそれから七十日以上も横たはつて居た。
入院した翌る日の午前中に、私は手術室へ運ばれて行つた。手術はがた/\身震ひしながら恐れて居たほどのこともなく、割合に簡単に軽く済んだ。左の股の関節に、丁度淋巴腺のある辺に、食指の入るほどの孔を開けて、そこから膿を出すやうにしただけであつた。併し膿は余程奥深い所にあるらしく、四五寸位のゴム管をし入れて、それで導き出すやうにされた。病名は私には打ち明けられなかつたが、腰の骨か、脊髄かに病源があるらしかつた。で、この膿さへ止るやうになればよいのだが、それまでには少くとも二ヶ月は要るだらうといふことであつた。
その日の午後、姉のお君が見舞ひに来て言つた。
「どうする、おまはん? お父つあんな、どんなに心配しやはるか知れへん!」
姉は来るとすぐ、まるで私に罪でもあつて、それを責めでもする様な口調でいきなりそんなことを言つた。
「お金がどつさり要るえ、おまへ。お父つあんそんなお金持つてはらへんが。まだ来てさう間もあらへんよつて、伯父さん出して呉れはるかどうか分らへんし。四条の伯父さん賢いよつて、今、立て替へて呉れはつても、後でみなお父つあんの借金にして了はるにきまつたる。」
姉には何より入院費用のことが心配になるらしかつた。併し私にはどう仕様もなかつた。そんなことを心配するにはあまりに私は小さかつた。それよりも、他に多勢患者や附添人などのゐる中で、姉があたり関はずそんなことを言ふのが、私には何より厭であつた。
三ヶ月の病院生活は、私には却つて懐しいものであつた。偶に、姉のお君が見舞に来て呉れるほか誰一人見舞人を持たなかつたが、私は少しも淋しいとも心細いとも思はなかつた。それは今迄の私の生活が、誰一人知るものもないこの病院に於けるそれよりも、一層寂しく冷かなものであつたからである。私は病院に来て、今迄知らなかつた温かい人の情を味はふことが出来た。私は寧ろ病院に居ることを好んだ位であつた。
どの寝台にもどの寝台にも自由に歩行の出来ない様な傷ついた患者ばかりが寝て居た。併し重症患者らしいものは少なかつた。病室の一方の隅に私と前後して同じ日に入院した全身火傷の患者と、それと対ひ合つて、頭から顔にかけて眼ばかりを残してすつかり繃帯に包まれ、咽喉笛の所に孔をあけて、そこから漸つと呼吸をして居る見るも傷ましげな患者とが、時々苦しさうな呻き声を立てて居るばかりで、他の多くは足を一本切られたとか、背中の大きな腫物を切開したとか、身体こそ自由に利かないがもう患部の痛みなどの去つた、恢復期に向つた人達ばかりであつた。彼等はお互にすつかり親しい友達であつた。彼等は寝台の上に起き上つて、隣同士や、向ひ同士などで、快活に病気とは全く関係のない世間話や経験談などをして笑ひ興じてゐた。彼等の話振りを聞いて居ると、少しも病人らしい様子などはなかつた。退屈や懶さはあつても生活の苦しみや悲しみなどはありさうにも見えなかつた。そこには陽気な暢気な話だけしか取り交されなかつた。最も陰惨で苦痛や悲哀の多かりさうなその病室は、明るい温かい空気に充ちた最も楽しい世界の様に見えた。
彼等は一日中の或る時間、例へば晩飯の後といふやうな時に、五人も六人も一緒になつて話し合ふのを常とした。通路の真中程に大きな火鉢が置いてあつて、そこに大きな銅の薬鑵から、盛んに湯気が立ち昇つて居たが、比較的身体の自由のきく二三人が、態々そこまで出て来て、その火鉢を中心にして陽気な談話に花を咲かせた。夜など看護婦達を呼び集めて、彼等の或者も交つてかるたを取つて興ずることもあつた。右足を膝から切り取られた若い患者がいつも読み役をつとめた。
少年患者の私が、彼等の間に混つたことは、単調な退屈な日々に倦んで居た彼等にとつて、新しい興味を与へたらしかつた。私が入院した当時四五日の間は、主に私を中心として話がはずんだ。彼等は私の病気のことを尋ねた。故郷のことを聞いた。両親のこと、兄弟のこと、それから現在の境遇のことを尋ねた。私は問はれるまゝに私の身の上話をした。皆私に同情を寄せた。そしていろ/\と慰めて呉れた。菓子や果物などを呉れたりした。私はすぐ彼等に親しんだ。
看護婦達の同情に富んだ優しい言葉や取扱ひも私をひどく喜ばせた。四五人宛の看護婦達が、一日交代でその病室を受持つて居たが、彼等は皆親切で優しかつた。私だけに特にさうして呉れるのかとも思はれる位だつた。彼等の優しい親切は、母の愛といふか、また広く女の愛といふか、さういふ風な温い情愛に餓ゑ渇いて居た私、否それを曾て味ひ知らなかつた私をして、まるで幼児の母親に対する様に甘えさせた。ひがんだ、いぢけた、頑くなな私も、真裸になつて彼等の胸に飛び込んで行くことが出来た。そして、彼等の温い情に浸つた。
中にも藤本といふ看護婦が最もよく親切にして呉れた。彼女はまだ年は若く、十八か十九位であつた。色の黒い小作りの女であつた。ニキビなどが出来て居て、綺麗な顔ではなかつたが、朴訥な素直な、人懐つこい女だつた。私は他の誰よりも彼女に脈を取つて貰つたり、体温を計つて貰つたりすることを好んだ。大小便の世話やその他のどんな厭なことでも彼女だけには遠慮なしに頼むことが出来た。彼女が笑顔を見せながら病室へ入つて来ると、私の心はときめいた。そして彼女が居ない時には、私は何となく物足らなく感じた。一日々々とそんな感情が強くなつて行つた。
私は朝早く、大抵三時か四時位に眼が覚めて、それから眠れなくて困つた。冬の夜は明けるに遅かつた。私は早く夜が明けて、看護婦が入つて来るのをどんなに待ち焦れたらう。そんな時彼女が、藤本さんが、当直か何かで、夜が白々する頃病室へ見りか何かに来ると、私は飛び立つ様に嬉しかつた。彼女は眠つてゐる患者を眼覚すまいとそつと忍び足に入つて来た。
「もうお起きやしたの?」と彼女は私の顔をのぞき込んで小声で囁いた。
「えい、疾うから――」私は懐しげな眼で彼女を見ながら頷いた。
「あんたのお出やすのを待ち焦れて居たんどす。」
彼女は私の眼の中にそんな言葉を読んだに違ひなかつた。
「もう、お顔お洗ひやすか? お湯持つて来て上げまほ。」
やがて彼女は白い湯気のぽうと立ちのぼつて居る洗面器を小卓に乗せて入つて来た。そして温かいタオルを絞つて呉れた。そんな時私は他の患者達が眼を覚さないことを望んだ。誰も知らない間に、彼女が私だけの世話をして呉れて居るといふことが特別に私を喜ばせたのである。彼女の心が私だけに注がれて居るといふ自覚を、強ひても持ちたかつたのである。彼女もまた私に対してさういふ秘密な感情を抱いて居て呉れんことを密かに望んだ。かういふ恋に似た感情が私の胸に芽生えて居た。もし私が初恋の経験を問はれたなら、私は彼女に対する其の時の邪気ない心持を語るであらう。
二週間ばかり経つた頃であつた。或る日突然、全く意外に、父が姉のお君に連れられてやつて来た。
「おう、恭三! 可哀や!――」
父は私の顔を見ると、殆ど泣き声でさう言つた。そして涙をぽろ/\流した。私も涙を誘はれた。そして何にも言へなかつた。
「心配しとつたぞ。病院入つたちふもんで、どんなね悪いのかと思うてのう。」
父は私の顔を撫でながら言つた。そして尚続けた。
「何処やら股とかを切つたさうやの? 痛いか、もう大分快うなつたか? 大分痩せたのう、可愛や。あ! それでも顔見て安心した。俺やもう息災な顔見られんかと思うて、心配で、心配で――」
父は私の容体を見てすつかり安心して了つた。晩には姉も一緒に、親子三人で、病院の御飯を食べた。父は姉のお君に密と正宗の二合瓶を買はせて来て、私の寝台の下で壁の方を向いて、冷のまゝで、お茶でも飲む様な振をしながら、こつそり飯茶碗で飲んだ。
「あゝ、嬉しやな、これで安心した。」
父は如何にも心が休まつたといふ風に、大きな安心の吐息を洩らし乍ら、何度も繰り返したことを更に繰り返して言つた。日陰に育つた二人の子供、それ故に一層深い愛情を彼の胸に湧かせて居る二人の子供と、かうした所に落ち合つたことが、父をして限りない喜びを感ぜしめた。病院の中であることが、伯父の家や伯母の家や、または他の如何なる場所に於けるよりも一層しつくりした、心ゆくばかりの思ひをさせた。父は何者にも煩はされることなく、全く自由に私達二人の子供を其の温かい愛の翅で包むことが出来た。たとひ私が病気で寝て居たにしても、その場合の父は幸福そのもののやうであつた。彼は陶然と微酔機嫌になつて、いろ/\と故郷の話をした。たつた十三ばかりの私が出奔したといふことが、かなり村の人々を驚かしたこと、母は義理ある中であるが為に、私の出奔の責が彼女にある如く人々に思はれないかを非常に恐れたこと、この事は必然父が彼女に秘密に私と諜し合せてやつたことに違ひないと怨言を言つたこと、且つ会ふ人毎に弁解して歩いたこと、そして、それが為に父と母との間に暫くの間不和が生じたこと、私を乗せて行つて呉れた船頭までが恨まれたことなどを話した。それを聞いて姉のお君は頻りに母を罵つたが、私は何だか済まない様な気がしてならなかつた。
その晩から一週間ばかり、父は附添といふ名義で病院に寝泊りした。私の寝台の下に薄縁を敷いて、その上の薄い蒲団の上に縮まつて寝て居たが、私は夜更などに眼を覚して、明るい電燈の光に照らされた父の赭ら顔を寝台の上から眺めやつて、懐しさと感謝の念とに、思はず枕を潤したこともあつた。
経過が医者にも意外なほどに良くて、父の来た時には、私はもう間もなく退院出来さうになつて居た。膿が殆ど出なくなつて、傷口も大方塞がりかけて居た。傷にし込んであつたゴム管も一日々々細く短くなつて、父が来た翌日には、もうゴムを入れる必要もなくなつた。
父はすつかり安心して、春の漁業の準備に忙しいからと言つて、もう二三日の後に迫つて居た私の退院をも待たずに急に帰国することになつた。
私は別れを惜しんだ。父も流石に心残りしたと見えて容易に立ち上らなかつた。
「退院するまで待つとらうかな。」
愈帰ることに決めて、もう間もなく別れる時になつてからも、父は尚さう言つて思案した。
「帰つてお呉れやす。だいぜおへん。心配せんとお呉れやす。」と私は大人らしい口調で言つた。
「そんなら帰るわいの。気にならんでもないけれど、おれも忙しいさかいの。退院しても大事にさつしやいの。伯父さんにもよう頼んどいたさかい、気兼せんと養生さつしやい。金のことなど一寸も心配することがないぞ。俺が伯父さんに話してちやんといゝのにしてあるさかい。――淋しても辛抱して働かつしやい。故郷へ帰つたところで、仕様が無いさかいの。小さな漁位しとつても何にもならん。俺はお前を漁夫にはしたうないのや。お前が京へ行きたいと言うた時には、こりやいゝことを言うて呉れたと思うた位やつたさかいの。京に居りや、伯母さんも伯父さんも居るさかい、末には悪いこともあるまいぞいの。」
もう立つ間際になつてからも、父はそれまでにも言つたことをまた諄々と繰り返すのであつた。
「さあ、そんなら、行くぞ。」と漸く立ち上つて、父は看護婦達を始め、同室の患者達にも、一人々々丁寧に別れの挨拶をし、私のことをも頼んだ。そしてまた私の側へ来て、
「さあ、そんなら、これで会はんぞ、息災に居れや。」と言つて部屋を出掛けたが、再び戻つて来て、「退院したらすぐ手紙寄越さうぞ、待つとるぞ、阿母にも上手に言うてな。忘れるな。」と注意を与へてから、残り惜しさうに、涙を浮かべた眼で幾度も見返りながらやうやく扉のそとへ出て行つた。