四
「文吾はん、あんたはお父つあんの顏を知らんのやなア。」
夜も更けて、母子枕を並べて寢てゐる時、母はこんなことを言つた。文吾がよく眠つてゐると思つて、獨り言のやうに言つたのを、折節眼を覺ましてゐた文吾は、「うツすら覺えてる。顏の平たい、大けな人やつた。」と、寢惚け聲でかう言つて、何か喰べてでもゐるやうに、口をむにやむにやさした。
「あゝ、あんた起きてなはつたのか。」と、母はきまりわるさうにして、向うへ寢返りをした。其の途端、蒲團が狹いので、足がドタリと疊の上へ滑り落ちた。この村で疊の敷いてあるのは、この石川の家のほかには、庄屋ぐらゐのものであつた。家は荒れ果てても、破れ疊に昔榮えた名家の跡を見せてゐた。疊の敷いてある家と言へば、それがどんなに破れてゐても、人は其の家を敬ふことを忘れなかつた。古疊の上へ足を滑らせると、冷りとした氣持ちが、得も言はれぬ感じを母の胸に與へて、痩せても枯れても、石川の家には、まだ疊が敷いてあるといふ誇りが、全身に漲るのであらう。母は古疊の上へ足をバタ/\させてゐた。
「文吾はん、あんたの四歳の時に死んだお父つあんはなア、あれは、……」と、母は向うをむいたまゝ言ひかけて、もう泣き聲になつた。文吾は母がまた何を言ふことかと、頓着もしないで、もう御所柿にも飽きたから、明日は一つ、手習ひに行つた時、お師匠さんの菓子箪笥にある饅頭を喰べてやらうと思つて、頻りに其の方法を考へてゐた。喰べたくなるのは自然だ。欲しいものを取つて喰べるのは當り前だ、といふ考へは、文吾の魂魄に深く/\植ゑ付けられて、なか/\拔き去ることの出來ぬものになつてゐる。
「文吾はん……」と、母はまたくるりと此方へ寢返りをして、疊の上へ滑り落した足をバタ/\やつてゐる。
「阿母さん……」と、文吾も夢のやうな聲で呼んだ。
「文吾はん、あんたのお父つあんはなア、……」と言ふなり、母はむツくと起き直つて、床を這ひ出し、文吾の側へ寄つて來て、ひしとばかりに其の寢姿に取り付いた。
「文吾はん、あんた、死んだお父つあんの代りになつて、わたしの言ふこと聽いとくれ、」と、母の聲は、涙とともに、塞いであつたものを取り除いたやうに溢れ出た。――
文吾の父は、由緒ある武士石川左衞門の後裔で、先祖代々伊賀の郷士であつたが、だん/\に家が衰へて、多くあつた山林田畑も賣り拂ひ、其の日の米や鹽にも困るやうになつた。しかし、酒だけはどうしても缺かすことが出來ないといふので、母が瓶子を抱いて、遠い山路を濁酒など求めに歩いたものであつた。何處の酒屋でも、石川と言へば相手にしなくなつてゐるのを、無理やりに瓶子を突き付けて、推し込んで行かねばならぬ母は、どんなに辛いことであつたらう。
「酒がないのは、生命がないのも同じことぢや。」と父は毎朝必ずさう言つて、母に酒の才覺を促したさうである。
酒のほかにもう一つ、父の求むる心の甚だ強いものがあつた。それは子だ。「男の子が一人欲しい。仕方がなけれや女でもよい。」と、父は熱心に考へてゐた。酒と子供……それが父の求むる二つの大事なものであつた。しかし、酒は母の苦心によつて、毎晩のこなからは缺かさないが、子供だけは、母一人の力でどうにもならなかつた。
「石川の血統が絶える。……」と、父は毎日溜息ばかり吐いてゐた。
ところが、或る日、どうしてもこなからの濁酒の手に入らぬことがあつた。母は八つ時の頃から、草履の尻を摺り切らして、山一つ越えた向うの里まで行つたが、酒を借して呉れる家がなかつた。家へ歸ると膳の上に瓶子のないのを憤つた父は、「もう生きてゐられん。酒がなけれや死んでしまふ。」と、狂氣のやうに駄々を捏ねる。
もう當てはないけれど、父の憤りをヂツと見てゐることは出來ないので、母はまた瓶子を持つて外へ出た。五月の空はどんより曇つて、村の家々は、燃ゆるやうな青葉の匂ひに包まれてゐた。破れ草履を脱ぎ棄てたので、足の裏が冷たく、霑ひをもつた土に吸ひ付くやうであつた。
酒のありさうな家へは、皆行つてしまつたので、この上は神の力に縋るよりほかはないと思つて、母は毎朝跣足まゐりをしてゐる隣り村の平井明神の森へと志した。神の青葉は人の青葉よりも更に美しかつた。それが夜だから、こんもりと雲か山かのやうに見えてゐる中へ、鳥居の下を通つて進んで行くと、燈明もない拜殿の中は、洞穴のやうに思はれた。
近付くほど餘計に願ひ事が叶ふかと考へられるので、階段を足で探つて、砂だらけの板の間へ上つて行くと、暗に馴れた眼は、眞正面に据ゑてある八足臺の上に注がれて、木の間を漏るゝ星明りに映し出された錫の神酒瓶手が一對、母を引き寄せるやうにして立つてゐた。母は覺えず手を伸ばしかけたが、神さまのものを勿體ないと思つて、慄ふ手を引ツ込めても、其の手はまたいつの間にか伸びて、錫の瓶子にかゝつてゐた。殆んど無意識に、其の瓶子を振つてみると、酒か水か、トプン/\と音がした。夫の喜ぶ顏を想ふ嬉しさに、勿體なさも忘れて、瓶子の口に鼻をあててみると、芳醇な匂ひが、ぷうんと來た。
「平井大明神……この賜物を頂いて、夫を喜ばせます。それからどうか子供を一人お授け下さりませ。」と、母は覺えず大きな聲で祷つた。
其の時、何處から現はれたか、白衣を着けた大きな男の姿が、母の眼の前にあつた。母は「きやツ」と叫んで、氣絶せんばかりに驚いたが、其のかよわい手を掴んで、ぐいツと引き寄せた白衣の男は、母の耳に口を寄せて言つた。
「わしはお前に、美い酒を授けてやつた。これからえらい子供を授けてやる。……」
それは、ほんたうに神の聲のやうであつた。――
此處まで語つて、母はあとを言ふことが出來ないで、泣きりになつた。
「文吾はん、わたしはなア、お父つあんを喜ばさうと思うた餘り、お酒と子供が欲しさに、言はうやうのない大きな罪を犯したんや。神さんのお宮を穢したんや。お父つあんが生きてゐるうちに、何遍白状しようと覺悟したか知れんが、言ひそゝくれて、臨終の床にも間に合はんことになつた。お父つあんの代りに、文吾はん、あんたに白状したのやよつて、どうでもしてわたしを責めとくれ。」と、母の言葉は矢張り涙とともに溢れ出た。
けれども、それから母がまた涙とともに言ふところに據ると、文吾はどうも、自分のほんたうの父は、其の暗黒の中から出た怪しい白衣の男だと思はれた。「あんたの四歳の時に死んだお父つあんはなア、……」と、母が泣き顏をして言ひかけては、後を止めてしまつた言葉の破片が殘りなく拾はれたやうな氣がした。
都にまで響いた大盜賊の何某が、六十六部に姿を扮して長いこと平井明神の拜殿に隱れてゐたといふこと。……
父は文吾を、平井明神の申し子だと信じ切つて、有り難がつてゐた。自分の面ざしに少しも似てゐなければ、性質のまるで反對な文吾をば、却つて餘計に可愛がつた。……
文吾は、母の口からこんな風の痛ましいことばかり、いろ/\と聽かされて、深く自ら心に決するところがあつた。