七
千代松は大阪行の支度をして、あたふたと出て來た。竹丸が電報を受け取つた時のまゝ珍らしく大玄關が開け放しになつてゐるので、砂利を敷いた其處の敷臺の前から、
「えらいことになりましたなア。これから行きまへう。」と、千代松は滅多には出さぬ高聲をして言つた。
「あんたもいて呉れはるか。」と、道臣は醉つた顏に笑を浮べて答へた。
「ハツキヨウちふんやさかい、どツち道輕いこツちやおますまいと思ひまして、金もちいと用意して來ました。」と、千代松はまだ少し早いが輕いからよいので着て來た紺飛白の單衣の裾を捲つて、式臺に腰を下ろした。
「えへん、えへん、えへん。」と續けさまに咳をした道臣は、千代松が喋舌る電報の中味を、竹丸やお駒に聞かせぬやうにしようとした。お駒は聞く耳を立てつゝ、道臣の外出の着物を箪笥から出した。
ちやんと紋服に袴を着けて玄關に現はれた道臣の姿は、流石に昔が偲ばれた。其處へ定吉が來て、「留守を頼む。」なぞと道臣に言はれてゐた。
「火の用心に氣を付けて。……」と、道臣は繰り返し/\お駒に言つて、千代松を後に門を出た。
「猿にも衣裳や。」
お駒は定吉と二人で玄關横の連子窓から、伸び上つて道臣の後姿を見送りながら、こんなことを言つて笑つた。
「千代さんは仲間みたいやなア。村一番の良い衆(金持ちの事)とは見えん。」と、定吉は、油のコテ/\した千代松の丁髷が、午後の日影に光るのを見てゐた。
「竹にも見せて。」と背後へ竹丸が來て、定吉の帶に取り付いたので、定吉は重さうに竹丸を抱き上げてやつた。道臣と千代松とは鳥居の前で丁寧に天滿宮を拜禮して、東の門の方へ、葉の繁つた櫻の老木の蔭に姿を消した。
「奧さん死なはつたのん。」
「まだ生きてやはるんやらう。……狂氣にならはつたんらしい。」
「狂氣。……」と、定吉は眼を圓くした。
「奧さんも氣の小ひさい人。……胸の狹い人や。」と、お駒は平氣な顏をしてゐた。
「お駒ちやん、奧さんに喰ひ殺されるで。」と定吉は恐ろし氣な身振りをして見せた。
「わたへよりお時さんが危い。」と、お駒は矢張り平氣で笑顏を續けた。
「けんどお前は常時此處に居るんやし、お時さんは自分の家に居るんやさかい、どうしてもお前の方が憎まれる。……寢てるとこ咽喉笛に喰ひ付かれたら南まん陀佛や。」と定吉は氣味わるさうに言つた。
「負けるもんか、長いこと病み呆けた人に。……出て來たらギユウと押へ付けてあげる。健康な時でもわたへの方が強い。」
「どうや知らん。」
定吉は不安さうに言つて、腰の煙草入を弄つてゐたが、
「其の時は俺が毎晩泊つたろ。」とさも名案を思ひ付いたやうに言つた。
「さうしとくれ、そんなら安心や。」とお駒は臺所の方へ行つた。
「坊んち、阿母さんが死んだら踊りまへうか。」と、定吉は手に唾を付けて、竹丸に角力を挑む状をしながら言つた。
「ふん踊らう。」と竹丸は妙な手付きと足踏みとで座敷中を踊り廻つた。定吉もそれに連れて、盆踊りの形をして靜かに踊つた。
「何んや定はん、置いとくれんか。子供みたいに、阿呆らしい。」
臺所から箒を持つて來て、掃除を始めようとしたお駒は、かう言つて、箒で一つ定吉の臀をどやし付けた。定吉は竹丸と一所に道臣の居室に逃げ込んだ。後を追つて來たお駒は、其處に飮み荒らし喰ひ荒らしたまゝ殘つてゐた杯盤を見ると、箒を棄てて、
「あゝ定はん、一杯飮みんか。わたへが酌するよつて。」と、取り上げた徳利の尻を撫でてみて、夏になつても爐塞ぎをせぬ煮立つた釜の湯に漬けて燗をしなほした。
それからお駒は、定吉を道臣の座蒲團の上へ坐らして、
「さア旦さん、一つお喫りやしとくれやす。」と恭しく盃を進めた。
「うん、駒、燗はよいか。……えへん。」と定吉は道臣の眞似をしたが、どうも耐へ切れぬといふ風で、其の眞面目腐つた顏を崩して、大きな聲で笑つて了つた。お駒も共に笑ひ轉げた。竹丸も變な顏をしながら笑つた。