最上の快楽
八※岳へ登ってみると、実に変化にとんだ複雑な山だということが改めてわかる。私は親しみにくい、気むずかしそうな山だと言ったが、その理由のひとつは、変化のもたらす神秘感であるらしい。その神秘感をもたらすのは絶えず襲ってくる霧のためであるらしい。油断していると忽ち霧にまかれて、どこへ連れて行かれるかわからぬ。そういう恐怖感をこの山はいつもひそめているようだ。霧は甚だ暗示的なものだ。暗示的であることによって人を迷わせる。
どの山と山を八※岳というか、これは地域によってちがうらしいが、西岳、編笠岳、権現岳、阿弥陀岳、赤岳、横岳、硫黄岳、天狗岳等を普通指すらしい。私は八※岳の中の半分を縦走したわけである。その中のひとつに登るだけでも大変だ。一つ一つ変化にとんでいる。そしてこれらの山と山とのあいだはすべて深い谷であり、霧が絶えず湧き上っている。
ふしぎなことに、むしろ当然のことと言っていいだろうが、自分の登った山は今度はその近くを通るとき、今までとはちがった親しみをもって眺めるものだ。自分の肉体がその山肌にじかにふれたという実感、つまり山と私との関係がひとつのものとして感ぜられるのである。ただ眺めていたときとはちがうその山の山肌の匂いといったものが、自分の体内に吸収されたという親しみである。
しかし私はくりかえし、あちこちの山へ登りたいとは思わない。登山は私の肉体にとっては相当の苦痛である。やはり遠近から眺めていた方が無事のようにも思われる。ただ八※岳の頂上で日本晴れに会わなかったことは残念だ。雲ひとつない時の山上は、おそらく想像を絶した壮観を呈するだろう。八※岳の頂上が太陽の光りをうけて輝いたその状景を想像する。とくに夕日をうけた姿はもの凄いだろう。その頂上のひとつに立って、冷い空気を通して、パノラマのような眼下の大風景をみわたしたら、すべての疲れも煩しさも忘れられるだろう。
高山の頂上に立ちたいというのは、人間の本能かもしれない。なんのために登山するのかと問われてもほんとうに好きな人は答えることは出来まい。頂上に立ったときの気持などうまく説明は出来ないだろう。大自然によって、おのずから迫られた無心の状態と言っていいかもしれない。ここちよい疲労の中で、ふと夢でもみている気分と言っていいかもしれない。一歩あやまると忽ち死の深淵に転落するわけだから、死とすれすれに味う最上の快楽とも言える。
人間の快楽の原型と言ったものを私は時々考えるのだが、結局それは登山と水泳であろう。自然の肌に、自分の肌をじかに接触させる一番原始的な喜びがここにある。スポーツという言葉もあてはまらないように思う。自然の一部としての人間という、その原始性を直接的に味うことの出来るいわば生の一番なまなましい実感がここにあるのではなかろうか。そしてどちらの場合も死とすれすれのところで、生ははじめて生であることを深く感じているにちがいないのだ。だから昔の登山や渡海は信仰とむすびついていた。八※岳も昔は信仰の対象であり、行者の修行の場であった。
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