Quay lại
大和古寺風物誌
Table of Contents
大和古寺風物誌
亀井勝一郎
Reading Settings
Cỡ chữ
18px
Giao diện
Sáng
Tối
Sepia
Bảo vệ mắt
Khoảng cách dòng
Chế độ đọc
Bản dịch Pagera AI
Nguyên bản Public Domain
Chapter 1 of 24

飛鳥の祈り

推古天皇の御代、上宮太子が摂政として世を治めておられた飛鳥の頃は、私にとって最も懐しい歴史の思い出である。私ははじめ史書によってこの時代を学んだのではなかった。大和への旅、わけても法隆寺から夢殿、中宮寺界隈へかけての斑鳩の里の遍歴が、いつしか私の心に飛鳥びとへの思慕をよび起したのである。海岸を思わせる白砂と青松、そのあいだを明瞭に区ぎっている法隆寺の土塀、この整然たる秩序を保った風光の裡に、千三百年のいにしえ、新しい信仰をめぐってどのような昏迷と苦悩と、また法悦が飛鳥びとをとらえたか。私は法隆寺の百済観音や中宮寺の思惟の菩薩に、幾たびかその面影をさぐってみた。頬に軽く指先をふれた柔軟な思惟像に彼らの瞑想の深さを偲び、或は百済観音のほのぼのとした清純な姿に法悦の高い調べを思ったりした。これらみ仏そのままの風貌で、飛鳥びとはこの辺を逍遥していたのであろうか。そこには永遠の安らいがあったに相違ない。はじめて法隆寺を訪れた頃は、私はこうした思いで心が一杯になり、夢中で斑鳩の址をめぐって歩いた。私の心にも漸く新生の曙が訪れそめた頃であった。

しかしみ仏が次第に私を導いて行ったところは、必ずしも平穏な天国ではなかった。春風駘蕩たる時代でもなかった。仏像の美にひかれるままに経文を読み、また日本書紀や上宮聖徳法王帝説に接するにおよんで、私の眼ははじめて飛鳥の地獄にひらかれるようになったのである。とくに日本書紀を読んだことは、私にとってよろこびであるとともに非常な驚きでもあった。対外的のことは暫く措くとしても、国内的にみれば欽明朝より推古朝にいたるおよそ五十年のあいだは、眼を蔽わしむる凄惨な戦いの日々である。蘇我・物部両族の争いにとどまらず、穴穂部皇子や宅部皇子の悲しむべき最期があり、物部氏の滅亡についで、遂には崇峻天皇に対する馬子等の大逆すら起っている。しかもこれらの争闘は悉く親しい骨肉のあいだに起った悲劇であった。上宮太子が御幼少の頃より眼のあたり見られたことは、すべて同族の嫉視や陰謀、血で血を洗うがごとき凄愴な戦いだったのである。一日として安らかな日はなかったと云っていい。

仏法はいまだ漸く現世利益か乃至は迷信の域を脱しない。さもなくば政略の具であった。諸家の仏堂は徒に血族の屍の上に建立されたかにみえる。書紀にしるされた全般をいまここに詳述は出来ないが、現今の斑鳩の里がもたらす和かな風光からは想像も及ばぬ。諸々のみ仏の大らかに美しいのが不思議なほどである。百済観音の虚空に消え行くごとき絶妙の姿も、思惟の像にみらるる微笑も、かの苦悩の日のひそかな憧れであったのだろうか。凄惨な生の呻吟から、飛鳥びとの心魂をこめて祈った、祈りのあらわれでもあったろうか。

それにつけてもかかる時代に成長され、難局に処せられた上宮太子の憂苦とはいかばかりのものであったか。書紀をとおして私はまずそのことを思わざるをえなかった。大陸文明の伝来に当って、これを厳正に摂取されたのはむろん大事に相違ないが、そういう外的状勢乃至文化論からのみ太子を論じることに私は同じ難い。最も親しき人々の流血の惨事――この大悲痛からの脱却を身命を賭して祈念された勁い信念、何よりもまず私はそこへ参入したいと願うのである。これが書紀を読んだ後の私の感銘であった。

夢殿の地は太子の御邸だった斑鳩宮の址といわれる。太子薨去の後、御遺族は悉く蘇我入鹿のため滅ぼされ、斑鳩宮もむろん灰燼に帰したのであるが、およそ百年後の奈良朝にいたって再建された夢殿が、幾たびかの補修を経て現在に伝わったのだという。もとは斑鳩宮寝殿の近く、隔絶された太子内観の道場であり、ここにこもって深思されたと伝えられる。いずれにしても太子の御霊は、いまなお憩うことなく在すであろう。夢殿に佇む救世観音の金色の光りは、太子の息吹を継ぎ宿しているかにみえる。百済観音のほのぼのとした鷹揚の調べとも、また中宮寺思惟像の幽遠の微笑とも異なり、むしろ野性をさえ思わしむる不思議な生気にみちた像である。慈悲よりは憤怒を、諦念よりは荒々しい捨身を唆すごとく佇立している。太子はかの未曾有の日に、外来の危機を憂い、また血族の煩悩や争闘にまみれ行く姿を御覧になって捨身を念じられたのであったが、そういう無限の思いを救世観音は微笑のかげに秘めているのではなかろうか。

今となってみれば、太子の一身をもって具現されたものは大乗の悲心であった。しかし仏法が伝来したが故に太子は大乗を修得されたというだけでは何事も語らぬにひとしい。仏法を宗派的なものに限定したり、乃至は外来の思想体系として知的に対したりするとき、歴史の根本は歪められるのである。たとい仏法は伝来せずとも、生の凄惨な流れに身を置かれた太子は、おのずから人生苦の深みに思いを傾け、真の救済について祈念せざるをえなかったということが大事なのである。

*

十七条憲法は治世のための律法でもなく、単なる道徳訓でもない。それらの意味をふくめてはいるが、むしろ太子自身の率直な祈りの言葉なのである。私はそう解する。あるいは同族殺戮の日において民心に宿った悲痛の思いと願いを、一身にうけてあらわされたのだと申してもいいであろう。かくあれかしと衷心より念じ給うた言葉であって、その一語一語に、太子の苦悩と体験は切に宿っていると拝察される。ここに十七条中でもとくに肝要な最初の三カ条について、私は御祈りの一端になりともふれてみたいと思う。

一に曰く、和を以て貴しと為し、忤ふこと無きを宗と為せ。人皆党有り、亦達れる者少し。是を以て、或は君父に順はずして乍た隣里に違ふ。然れども上和ぎ、下睦びて、事を論ふに諧ふときは、則ち事理自らに通ふ、何事か成らざらむ。

二に曰く、篤く三宝を敬へ、三宝は仏法僧なり、則ち四生の終の帰、万国の極宗なり。何の世何の人か是の法を貴ばざる。人尤だ悪しきもの鮮し、能く教ふるをもて従ひぬ。其れ三宝に帰りまつらずば、何を以てか枉れるを直さむ。

三に曰く、詔を承はりては必ず謹め、君をば則ち天とす。臣をば則ち地とす。天覆ひ地載せて、四時順り行き、万気通ふことを得。地、天を覆はむと欲るときは、則ち壊るることを致さむのみ。是を以て君言ふときは臣承はり、上行ふときは下靡く。故に詔を承はりては必ず慎め、謹まずんば自からに敗れなむ。

この三カ条は、熟読すればするほどその思慮と憂いの深さに驚嘆するのである。第一条の「以和為貴」の一句の背後には、前述のごとく蘇我氏の専横や同族間の絶えざる争いがあり、おそらく太子の切なる祈念であったのであろう。――みな仲よくせよ。人は党派を組み易いもので、ほんとうに達者といえるものは少いのだ。里や隣人と仲たがいせず、上のものが仲よくし、下のものが睦みあって、互に和して事を論ずるなら、一切はおのずから成就するだろう。そうしたならば何事も出来ないことはあるまい。――実に当然の教であるが、かく述べられた太子の心底には、醜怪な政争や人間の無残な慾念が、地獄絵のごとく映じていたのでもあろうか。「以和為貴」の一語にこもる万感の思いを推察しなければならぬ。書紀に接した人はこの言葉が血涙をもってかかれたことを悟るであろう。

さればこそ第二条において信仰の問題を示されたのである。大乗の悲心は一切を摂取して捨てない。いかなる凡俗の裡にも一抹の生命の光りを求めて、これを機縁として高きに導入せんとするのである。「人尤だ悪しきもの鮮し」と観ぜられたところに、太子の博大な悲心が偲ばれるであろう。そしてこの第二条で最も大切な一句は、冒頭の「篤敬三宝」である。太子は「篤く三宝を敬へ」と仰せられたけれど、「必ず三宝を信ぜよ」とは云われなかったのである。若し律法において、一信仰を強制し、仏法を必ず信ぜよとしたならばどうであろうか。信仰はその自発性を失い、或は政治的党派性を帯びるであろう。蘇我と物部との争いはよき教訓だったに相違ない、然るに太子は「必信」でなく「篤敬」という文字を用いて、信仰をあくまで国民の自発的な求道心におかれたのであった。深い思慮というべきである。仏教伝来以後、さきには蘇我氏のことあり、また奈良朝における藤原氏の専断、更に下っては道鏡のごとき僧すら出たのであるが、わが仏法の黎明を告げた太子の御本心はかくのごときものであった。

ところで次の第三条、即ち、詔勅に対するときは「承詔必謹」と、はじめて「必ず」という言葉を用いておらるる。詔勅を「篤く敬へ」とは申されなかった。至高の権威を、詔勅におかんとしたのが太子だったのである。当時これはいかなる意味をもっていたであろうか。一言で云うならば、勢力ある氏族の専横を深く危惧された上での決断であった。蘇我馬子は皇室に対しても、また太子御自身にとっても、最も血肉的に親しい外戚であり、それだけに彼一統の暴虐を抑えることは容易ならざることだったに相違ない。太子は日々この危機の上に政事を執られたのである。武力による抑圧が、再び同族間の流血の惨事をもたらすであろうことは、太子の最も憂えられたところと拝察さるる。

即ち、太子の大乗の愛は、人間に関する深き観察、煩悩具足の凡夫の在りのままの姿に発し、しかも必ず仏性をみとめてこれを捨てず、すべての人を抱擁し、この和の根本の教として三宝を敬い、そして最後にこれら一切を傾けて護国のために捧げられんとしたのであった。飛鳥の精神は、ただ美しい古仏や寺院にのみあらわれているのではない。それを支える根源には想像を絶した苦闘があったのだ。むしろ現世の地獄より、ひそかに祈念し憧憬したところに、諸々の菩薩像が立ちあらわれたのだといってよかろう。大なる悲痛と、それゆえの慈心は、太子の御心から光りのごとく発したのであった。

*

上宮太子の御歌は今日あまり知られていないようであるが、万葉集巻三挽歌のはじめに、上宮聖徳皇子出二遊竹原之井一之時見二竜田山死人一悲傷御作として、次の一首が記載されている。

家に在らば 妹が手枕かむ 草枕 旅に臥せる 此の旅人あはれ 竜田山の死人をみてふとつぶやいた言葉に、おのずから調べが乗ったような御歌である。ただ「妹が手枕かむ」という現世的情感の表現は、太子においては一見めずらしくも思われようが、家庭生活を史について拝するとき、太子もまた古事記から万葉の諸歌にみらるるような鷹揚ないとなみに終始された方であることが了知されよう。死に面して生ま生ましく生の愉悦をふりかえられたところにあの時代の面影がつよく偲ばれる。またそれ故に、死という厳しい運命について深く思索されたことも察せらるる。そういう悲愍の思いを更につよくあらわされた御歌、並びにそれにまつわる一篇の物語が日本書紀に載っている。

級照る 片岡山に 飯に飢て 臥せる 彼の旅人あはれ 親無に 汝生りけめや 剌竹の 君はや無き 飯に飢て 臥せる 彼の旅人あはれ

日本書紀によれば「十二月庚午朔、皇太子片岡に遊行ます。時に飢ゑたる者道の埀に臥せり。仍りて姓名を問ひたまふ。而して言さず。皇太子視て飲食を与へたまふ。即ち衣裳を脱きて飢者に覆ひて言く、安く臥せよ。則ち歌よみて曰く」とあってこの御歌が出ているのである。推古天皇二十一年の冬十二月のことであった。太子は片岡山においでになった折、道のほとりに飢えた者が臥しているのを御覧になって、親しく姓名を問われたが、答える気力もない。そこで太子は飲食を与え、また自らの衣をぬがれて、これを飢えた者の上に覆い、安く臥せよと申されて、さきの歌をよまれたというのである。太子の慈心を物語る美しい状景であり、またこの御歌も、古事記の諸歌と同じように古樸典雅にして、しかもあふるるがごとき慈心が憂いの調べとともに流れ出て美しい。「級照」「剌竹」ともに枕詞であるが、他は解を要するまでもなかろう。十七条憲法や義疏の根底にひそむ精神の発露と申していいであろう。

なおこの物語のつづきは次のようにしるされている。

「辛未、皇太子、使を遣して飢者を視しむ。使者還り来て曰く、飢者既に死りぬ。爰に皇太子大に之を悲しみ、則ち囚りて以て当処に葬埋めしむ。墓固封む。数日之後、皇太子近習者を召して、謂りて曰く、先の日、道に臥せる飢者は、其れ凡人に非じ、必ず真人ならむ。使を遣して視しめたまふ。是に於いて、使者還り来て曰く、墓所に到りて視れば、封埋めるところ動かず。乃ち開きて屍骨を見れば、既に空しくなりたり。唯だ衣物畳みて棺の上に置けり。是に於いて、皇太子復た使者を返し、其の衣を取らしめ、常の如く且た服たまふ。時の人大に異しみて曰く、聖の聖を知ること、其れ実なる哉。逾惶まる。」

飢えたる者に自らの衣を脱いで親しく掛けられ、更にその者の死後、棺の上に畳みおかれた衣を再び平然と著されたという。この一節は後に様々の伝説を生んだようであるが、太子の悲心と生死の境なきがごとき挙措が当時の人々にも異様の感動を与えたことはこの文章からも察せらるるであろう。

私は法隆寺から夢殿、夢殿から中宮寺へかけて巡拝するたびごとに、この斑鳩の里に嘗つて太子の歩まれたことを思い、一木一草すら懐しく、在りし日の面影を慕いつつ佇むのを常とする。春、法隆寺の土塀に沿うて夢殿にまいり、ついで庭つづきともいえる中宮寺を訪れると、その直ぐ後はもう一面の畑地である。法輪寺と法起寺の塔が眼前にみえる。陽炎のたちのぼる野辺に坐して、雲雀の空たかく囀るのをきいたこともあった。嘗つてここに飛鳥びとが様々の生活を営んでいたであろうが、彼らの風貌や言葉や粧いはどのようなものであったろうか。

太子の摂政時代は内外ともに多事であったが、それにも拘らず鷹揚に深い瞑想は、この野辺のあたりにもなされていたのであろうか。いかに昏迷と騒乱があったにせよ、そこには、一つの出来事、一つの問題に向っての、しずかな凝視と味いと沈思と――かかる悠久の時間というものはあったに相違ない。嘆きのある折も、その嘆きは虚空の涯にまで漂い行くような、切に深遠なものだったろうと思う。人間の煩悩を深く省察された太子は、それゆえ人間への悲心と凡夫の自覚とをもって飛鳥の野を彷徨われたであろうが、その御姿が、そのまま聖者の気高さをおのずから具現していたと想像されないであろうか。

たとえば御著「維摩経義疏」のなかで「道法を捨てずして凡夫の事を現ずる是を宴坐と為す」という維摩の言葉に対し、次のように感想を述べておらるる。

「道法とは謂く聖法なり。言ふこころは、聖法を能くすと雖も、亦俗法の中に凡夫の事を現じて、機に随ひて物を化するを乃ち真宴と名づく。汝凡夫を捨つべく、聖道は取るべしと存せば、則ち分別を成ず。那ぞ宴と為すことを得ん。この句は凡聖の二境を平しくすること能はざるを呵するなり。」

この大意を述ぶれば、維摩の謂う道法とは聖の道である。維摩の真意はこうだ。たとえ聖の道に熟達しても、また凡俗の道の中に身を投じて、凡夫の事を現じ、そのすべてを機縁として教え導くのがほんとうの坐禅である。若し凡人は捨て去れ、聖道ならば取れという風に心を用いるならば、事毎に分別が生ずる。さかしらな分別によって是非判断するなどどうして真の坐禅といえよう。この句は凡聖一如の境に入ることの出来ないのを叱っているのだ、というほどの意であって、大乗の根本を示された御言葉である。

太子の教が、仏法求道者に屡々みらるるごとき固くるしい戒律臭を帯びず、大和の春野のように、のびのびとした相で発揚されたことは、私に限りない感銘と悦びをもたらすのである。惨澹たる争いの後、いかばかり切実な祈念が、かかる鷹揚の信仰を開顕したか。そこには太子の心労のみならず、古事記にもみられるような逞しい原始力があって、それが仏法をも貫いて発揚されて行ったと云えないだろうか。凄愴な悲劇からの脱出、いわば神々から追放された日の苦悩から、再び新生を求めて、ついに仄かな黎明を招いた、そういう光栄を飛鳥びとは担っている。

――昭和十七年秋――

Chapter 1 of 24
|