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大和古寺風物誌
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大和古寺風物誌
亀井勝一郎
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Chapter 9 of 24

天寿国曼荼羅

諸王諸臣の厚い御看護と祈願にも拘らず、上宮太子は推古天皇の三十年二月二十二日夜半薨去された。その前日には太子の正妃膳大刀自が亡くなられ、前年の暮には母后が崩御されたのであるから、上宮一家の悲嘆は申すまでもない。一般民草に与えた深甚の影響についてはすでに述べたとおりである。いま中宮寺思惟像の傍に断片のまま残っている天寿国曼荼羅は、太子の御冥福を祈って、妃のひとりである多至波奈大郎女が侍臣や采女とともに刺繍された繍帳銘である。原形は全く散逸してしまってうかがうべくもない。真紅の布片や金色の刺繍の跡に、わずかに往時の荘厳な美しさが偲ばるるのみである。

総じて古い布片の類は、古仏とちがって何かしら悽愴な感じを与えるものだが、天寿国曼荼羅も、華麗な面影にも拘らずよく眺めていると次第に薄気味わるくなる。つまりそこへ懸けた思いが、古仏のごとく吸収摂取されず、いつまでも生ま生ましく残っているのだ。血痕のついた古い布を思わせる。金銅や木材に比べて一番弱そうな布地に、却って人間の執念は消え難く止るのであろうか。おそらく太子の妃や侍女達が、日夜念じつつ縫ったのであろうが、その一針一針に女の愛情と信仰が執拗にこもっているようにみえる。執念のこまやかなあらわれには、一種のもの狂わしささえ宿って薄気味がわるい。悲哀のために透きとおるように細く鋭くなった指が、この刺繍にまつわりついていたのであろう。真紅の布地の上を、白い炎のごとく這う指を私はいつも想像するのである。

天寿国曼荼羅の由来については、「上宮聖徳法王帝説」に次のごとく記載されてある。

「(前略)歳辛巳十二月廿一日癸酉の日、穴穂部間人の母后崩じ、明年二月廿二日甲戌の夜半に太子薨ず。時に、多至波奈大郎女、悲哀嘆息し、畏みて、天皇の前に白して曰く、之を啓さむは恐しと雖も、懐ふ心止み難し。我が大王が母王と期するが如く従遊したまひ、痛酷しきこと比無し。我が大王の告げたまふところに、世間は虚仮、唯だ仏のみ是れ真なりと。其の法を玩味するに、我が大王は応に天寿国に生れまさむ。而も彼の国の形は眼に看き所なり。はくは図像に因りて大王が往生の状を観むと欲すと。天皇之を聞こしめして、悽然として告げて曰く、一へに我が子の啓す所有り、誠に以て然りと為すと、諸の采女等に勅して繍帷二張を造らしめ給ふ。(後略)」

曼荼羅には亀甲形が縫いつけられているが、そのひとつ毎に、この文章(原文は四字ずつの漢文)をあらわしたのだという。母后についで背の君を喪った多至波奈姫が、太子生前の教を思い、推古天皇の御ゆるしを得て、太子の御霊の赴くであろうパラダイスを悲しみつつ描いたのである。天寿国とは、「法王帝説」証註(狩谷望之)によれば「即ち無量寿国にして、釈氏の謂はゆる無量寿仏の国なり、又阿弥陀浄土と称す。」――即ち太子の説かれたという「世間虚仮、唯仏是真」の「真」の世界に入り給うた御姿を図像によって追慕されたのである。太子近親の悲しみを伝えた尊いしるしである。

なお太子薨去のとき巨勢三杖大夫の奉ったという挽歌三首が「法王帝説」に載っている。

斑鳩の富の小川の絶えばこそ我が大王の御名忘らえめ

みかみをすたばさみ山のあぢかげに人の申しし我が大王はも

斑鳩のこのかき山のさかる樹のそらなることを君に申さな

巨勢三杖大夫の伝はもとより詳にしえないのであるが、「法王帝説」註記に、扶桑略記の欽明天皇十三年条に「或記云、信濃国善光寺阿弥陀仏像則此仏也。小治田天皇御時壬戊年四月八日令二秦巨勢大夫奉一レ請二送信乃国一云々」と。

欽明天皇の十三年、仏像を難波の堀江に棄てたことは書紀に明らかであるが、その後、推古天皇のみ代になって、巨勢大夫をしてその仏像を請わしめ、善光寺に安置した様子がうかがわれる。巨勢大夫の身分や人物はむろん不明だが、太子側近の侍臣というよりは、御威徳を遥かに慕い奉った信仰の厚い民草としてみた方が、右の歌から云ってもふさわしいのではなかろうか。当時の人々が太子の御面影を思慕し、ひそかに語り伝えた様が歌から感ぜらるるのである。最初の一首は、「斑鳩宮」に述べた片岡山の餓人の詠という伝説もあるが、後代の附会といわれる。しかしかかる伝説の生じたところから考えると、巨勢大夫の歌にみらるる畏敬と哀惜の情は、当時のすべての民草の抱いたところだったのであろう。誰の歌であってもよかったのだ。天寿国曼荼羅とともに、太子薨去当時の悲痛をいまに伝えた記念としてここに述べたのである。

――昭和十七年秋――

Chapter 9 of 24
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