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夢は呼び交す ――黙子覚書――
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夢は呼び交す ――黙子覚書――
蒲原有明
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Chapter 7 of 11

幼年期

鶴見の心眼の前を、例によって、幼年時の追憶の断片がちらちらと通り過ぎる。それが譬えていえば、小川に洗われて底に沈んでいる陶器の破片が染付や錦手に彩られた草木花卉の模様、アラベスクの鎖の一環を反映屈折させて、水の流れと共にその影を揺らめかしているかのように見える。

その一つ。青緑の海が逆立ちになっている。いきなり海がそう見えたというのは、その時の偽ることのできぬ心像であったのだろう。海が平面から立ちあがって急傾斜をなしているそのままのものを肯定して不自然とも何とも思わなかった。海をはじめて見た幼い日の驚愕の念は、それが引き起した錯覚に強調されて、いつまでも滅えずに残って来ているのである。見ていると、その海の急傾斜の面を、煙筒から黒い煙を吐いている小蒸汽船がことことと機関の音をさせて転覆もせずに快調にすべってゆく。エドガア・アラン・ポオにあの名高いメエルスツルムの渦潮の恐ろしい記述がある。いわば海も船もあんな状態であるが、今ここに挙げる心像にはいささかの危険も伴わないのである。

回想はもちろんこれ以上には展がらない。汽船は進行を続けているはずであるのに、始終同じところを運転しているように思われるのが、この不思議な画面に一種の落著きを与えている。場所は芝浦、海は東京湾である。

その二つ。京橋の数奇屋河岸である。或る家の二階の窓から母と一しょに火事を見ている。よくは見えぬが茶褐色の煙が向うにあがっている。「坊ちゃん。火事はお家の近所です」と誰やらが告げる。母は心配して、すぐ帰り仕度をして、車を急がせた。帰り著いて見ると、形勢は穏かでない。町筋は人と荷物で混雑を極めている。

「こんなところへ小供を連れて遣って来てはあぶない。」父であったか他の人であったかわからなかったが、叱るようにいう。

すごすごとまた同じ車でもとの河岸ぷちの家に戻る。そうこうするうちに日が暮れて来る。二階の窓から向うを見る。昼間煙の簇々と立っていたその方角の空を、夜に入って、今度は火焔が赤々と染める。とうとう不安のうちに一夜をその家で過ごすことになった。これが恐らくは、母の膝に乗り腕に抱かれていても、なお人生には不安のあることを識ったはじめであったろう。

その三つ。突如として大きな音響が聞える。それと同時に、玉屋鍵屋の声々がどっと起る。大河ぶちの桟敷を一ぱいに埋めた見物客がその顔を空へ仰向ける。顔の輪廓が暫くのあいだくっきりと照らし出される。天上の星屑の外に、人工の星が閃光を放って散乱し爆発する。それを見るために集った人々である。こまかい花火の技巧を鑑賞するのでは素よりない。玉屋鍵屋の競争もその頃は既になくなっていたと考証家はいう。しかしそんなことはどうであろうとも、ただこの伝統的な河開きの気分を味えば好いのである。壮快という感じがその気分の一部分を占めていて、それが万人に共通する。都会における日常生活の屈托と不平とが一時に解消するように感ぜられるからであろう。

鶴見は花火が殊に好きで、両国の河開きには一頃毎年欠かさずに出掛けて行った。

先年静岡に移ってからのことである。近郊の有度村の農家から、草薙社に奉納の花火があるから一度は見ておいてもらいたい、桟敷も好い場所を取ってあるという。今の主人の父親がまだ隠居せぬ時のことであった。花火のようすはその前から若主人を通じて聞かされていた。打揚も多数あるが、その夜の興味の中心は流星という仕掛ものにある。そしてその仕掛の特殊の構造も図示されたので、大概は承知していた。

当日は若主人が迎えに来て、丁重な夕食を相客と一しょに馳走になった。膳の上には一皿の小魚の煮附が載っている。それがもろこであると説明しておいて、老主人はひどく土地の訛のある言葉でなおもいい足した。自分は海の魚をあまり好かない。このもろこは近所の川で今朝漁ってきたものであるというのである。鶴見にはそれが何よりの珍味であった。

老主人は草薙社への参道である一筋の夜みちを幼児の手を引くようにして、鶴見をみちびいて、親切にも案内された。人家もない畑の傍をたどって行くので足もとは暗い。その上に人が先を争って押合っていたからである。

社前に著くと、提灯や露店などの明りがさして薄ぼんやりと明るくはなっているが雑沓はいよいよ激しい。見ればその真中を村の青年たちがおおぜいかかって、太い縄のようなものを担いで、それに繋がって静に歩いてゆく、その傍に立って、一人列を離れて音頭を取っている老爺がある。がんじょうそうな小柄な男である。肌脱ぎの中腰になって、体を左右にゆすぶりながら、右の手に持った扇を煽るようにして揮って、しきりに何やら喚いている。多少だるそうにも見える青年の行列に対照して、これはまた異常な熱狂ぶりである。太い縄のようなものといったのは、流星に火を点ずる時の導線となるもので、その中に火薬が詰めてあるとのことである。

桟敷は社外の畑に多数設けられてある。丘陵の側面などにも点々として灯が見える。その界隈一体に人が充満していて動きが取れない。甲州辺からも遣って来る見物客もあるという話である。やがて打揚がぽんぽんとあがる。桟敷では歌謡の斉唱がはじまる。一方からそれが起ると忽ちに四方に伝播する。そして幾度も反復される。田の蛙の鳴き交す声々の嵐そのままに感ぜられる。

そのうちにいよいよ流星に火が附くというものがある。正直のところ鶴見ははじめからそれほどの大光景が見られるものとは期待していなかった。それがまたどうしたことか、五彩の星が乱れ飛んだぐらいで終ってしまった。あまりにもあっけない。「あれは遣りそこなったのだ」といって皆が失望している。流星は長い間の伝統を維持して来ただけに、構造製作が原始的であるのは免かれ難い。しかもここ数年中止していた挙句のことで、余計不手際になったのであろう。それでも鶴見は満足した。鶴見としては彼の花火に関する閲歴にめずらしい一例を加え得たのである。米国大統領の観覧に供した両国橋畔の大花火のことが自然に想起される。それは母に抱かれていた幼時のこと、これは草深い地方の田園で由緒ある花火に興じたこと、恐らくはこれがおれの花火に関する閲歴のとじめになるだろう。鶴見はそう思ってみて、更に深い感慨に耽るのである。

さて元へ戻るにしても、母の膝にあがって仕掛花火に火のつく度ごとに手を拍ってよろこんだ元の桟敷へは戻れない。深々と幌をかけた車の中で、帰路を急がせる切ない思いをして、母はしっかり幼児を抱えている。花火見物の最中に天候が一変してひどい雷雨となったからである。電光が幌を破るようにして隙間から射し込んで来る。おりおり神解けがするもようである。凄じいその音響に湿気を帯びた重い空気がびりびりと震動する。

このありさまに車夫も走るのをためらって、暫くのあいだ車を駐めた。そこはとある店屋の前であった。

ここに不思議な記憶の破片が残っていて、その店屋の菓子屋であるということが確められる。車を駐めたのは日本橋の裏通りあたりではなかったかと、ついそんな気がさせられる場所である。あとから立ち入って考えて見れば、車をそこに駐めたのは、母が名物のみやげでも買うつもりであったかとも思われる。それはともかく、そういうところが菓子屋であるという、店の格好から来る印象は前々から既に強く受けていたものがあったにちがいない。幼いなりに、またそれだけに、そういう印象を拠りどころにして、無意識にもせよ、それとこれとを比較する能力をいつかしらに蓄えていたにちがいない。その比較の証拠に立つのは麹町三丁目の船橋である。

船橋は有名な古肆で、御菓子司の称号を暖簾に染め出していた御用達である。屋号を朱漆で書いた墨塗の菓子箱が奥深く積み重ねてあって、派手な飾りつけは見せていない。番頭がその箱を持って来たり、持って行ったりして、物静かに立ち働いている。すべてが地味で堅実らしい。その店へよく母に連れられて行った。それをしっかり覚えているのである。たまたま雷雨に阻まれて車を駐めたその店がちょうど船橋と同じ格好である。そんなわけから、その店が菓子屋であったということを、今だに疑わずにいる。

その四。西郷星というものが出るといっておどかされていた。どんな恐しい星であろうか、臆病な鶴見はついに見ずにしまった。そのころのことである。島原の新富座で西郷隆盛の新作の芝居が打たれた。あれは多分黙阿弥の脚色に成ったものであったろう。連日の大入であったそうである。この芝居へも母に連れられて見に行ったものの、平土間はもとよりどの桟敷も超満員で、その上に入り込むだけの余裕がない。なんでも座頭の席とかで、正面の高いところへ無理に押し上げられた。そこまでは幽かにおぼえているが、印象はそこで消えて、その先は思い出せない。その代りここまでくると年代はよほど明かになる。この芝居も折から来朝中の米国大統領グランド将軍の観覧に供えたものという。もしそうとすれば明治十二年である。果してこの年であれば鶴見が戸籍面四歳の時である。

もっと零細な記憶の破片なら幾らでも拾われよう。そうは思うものの、その数はいたって少ないものである。漸く拾いあげたものを次に列挙する。

多摩川の渡し場。そこから川上に富士を仰ぎ見たこと。これは大師詣の途すがらであったのだろう。それから品川の料亭で、愛想の好いお酌に、「坊ちゃん。あそこをご覧なさい。お舟がきれいに明りをつけていごいていますね。」少女はそんな言葉をささやいた。母に連れられて、どうしてそんな場所に来ていたものか、それは判らない。まだも一つ。それは麻布の森元座で、佐倉宗五郎の磔刑に処せられる芝居を見たこと。四谷の桐座へも行ったこと。その頃は何かというと観劇である。それで見ても母の好みのほどがどうであったかが窺われる。

先ず鶴見が四、五歳ぐらいまでの思い出としては以上のようなものである。

それにしても母に連れられて物見遊山に出歩いた享楽の日も、やがて終末を告げねばならなくなった。

明治十三年、五歳の時平河小学に入校。同十五年には今までの古い家を壊して、その跡に新築することになり、傍にあった小屋で一冬を過すことになった。郷里から次姉が迎えられたが、この不自由な佗住居で炊事の手伝をしていた。ささやかな菜園にわずかに萌え出た小松菜を摘んで朝々の味噌汁の仕度をする。そんな生活の様子がまざまざと思い出される。菜園にはまだ雪が消え残っていたのである。

その翌十六年には、父が生母を離別した。鶴見がためには大きな生涯の変動が生じたのである。たまたま国から上って来た姉も貰い泣きをした。母の引き取られていた家へ二人で行くことを、さすがに厳しい父も、一度は許してくれた。その家は芝明舟町の路次の中にあった。左手は上り口で、右手には勝手の明り障子が嵌めてあって、それに油で二重の波形の模様が描いてある。そんな家である。二人はそこで泣き通した。

幼時の記憶はとかくはっきりしていない。そこには一貫した糸も見えず、連続した関係もうまくたどれない。ただそれが思量の或る一角に置かれた時、結晶体に予想せられるように、その一部分がどうかすると、ふと強い光を放つことがある。それだけである。もしこれがアナトオル・フランスであったなら、こんな幼時の些少な砕けた感動の種子からも、丹誠して見事な花を咲かせたであろう。鶴見は気まぐれにも、ここでそんな考を運らして見た。アナトオル・フランスの幾巻かを成す幼年物は、晩年も晩年、老熟し切った文芸の畑の土壌に培われた作品である。おおよその人が老年になって、往事を無邪気に顧みて、ただそれなりに皺ばんだ口辺に微笑を湛え得るならば、それでも人生の静かな怡楽が感ぜられもし、またその境地で満足してもいられよう。しかしそれは凡俗のことである。彼の作品は凡俗とは全く質を異にしていた。

彼にあっては、その作品は幼時の溌剌たる官能を老いてますます増強した炯眼に依憑させ、そこから推移発展させて、始めて収めえたる数十篇である。その一つ一つが珠玉を聯ねて編み成されている。多少作り事の嫌いがあると疑うものがあれば、それは短見であろう。試にその珠玉の一つを取って透して見れば、人はその多彩に驚かされるにちがいない。あの複雑な巴里が、適確な観察の光線の中で、首尾よく踊らされているのである。盛大があり、零落があり、恋愛があり、欺瞞があり、嬌笑がある。それらはいわば機智と冷刺との雰囲気の中で、動く塵埃でその塵埃が虹のような光彩を漲らしているのである。幼年の作家は老熟した足どりで、いつもその中心を歩いている。これこそ正しくアナトオル・フランスの作品である。

鶴見の回想はそれに較べてあまりにも寂し過ぎる。第一に老年の畑が荒れていては、急にその発育を期待されない。多かるべきはずであった流星雨が降り足らなかったといっても好い。しかもそれが一刹那閃めくことがあっても次の瞬間にはすでに滅えてしまっている。いわゆる前方を鎖してわだかまるのは常闇である。一刹那の光はむしろ永劫の暗黒を指示するが如くに見える。

それでも鶴見にとっては、よしや回想の破片であろうとも、これを記念の緒につないで置けば、まさかの時の念珠の数え玉の用にも立とう。鶴見はそう思ってみて、それで好いのだと諦めている。

明治十六年、新築落成。これが一つの変動であった。旧家屋の構造様式が徳川末期の江戸風のもので、それがちょっとした旗本の隠居所とも思われるものであったとすれば、新築はどこか明治の役人向きの臭味に染ったものであった。広さはたいして違わぬが全体に殺風景なところが感ぜられる。趣味からいえば、もとのままの方が落ちつきがあって好ましかった。そのくせ今度は家の隅に茶室めいたものが造られて、炉が切ってあった。

父はその茶室に閉じ籠って、七十歳を超えてから死ぬるまでの幾年かをすわり続けた。父の茶道は素より然るべき藪の内の宗匠に就て仕上げをしていたのであるが、しかも父の強い個性は徒らな風流を欲しなかった。朝茶の炉手前は何かしら苦業を修する発端で、その日も終日不可解の茶の渋味を呪法に則るごとき泡立てに和らげて、静座しつつ、楽の茶碗を取りあげて、ひとりで苦しんで喫してあるべき運命の前提のようにも思われた。父は閑日月の詮議よりもむしろその方をよろこんでいたのだろう。そこに父の平生抑えていて弛めぬ克己心の発露がある。こうして父は苦行の道を択んで一生を過したといって好い。

こんな事がある。会席の真似事をして銅鑼を打つ。会席では用意が整えられたしらせに銅鑼を打って、路次の待合客に入室をうながす合図とする。それを打つには秘訣がある。呼吸がある。それで傍から父の打つのを聞いていると、その心意気があたかも敵陣へ突き進む時の決意を示すように響いて来るのである。家族のものがそれを「まるで忠臣蔵の討入ですね」といって笑った。

父の茶道はまずそんな風格のものであった。

新築と共に国から一人の叔母が家事の監督がてらに上って来た。その叔母の顔には特徴があった。長面で頬がやつれていて眉間の中央に目立って大きい黒子がある。それが神々しく感ぜられる。唇にはいつも寂しい微笑を含ませ、眼差しにはいつも異様な閃めきを見せている。いつ見てもそうときまっていて、その顔つきには表情の変化が現われて来ない。後から聞けば、その叔母はどうしたわけか結婚して間もなく、裏の溝川に身を投げた。気がふれたのだという。そういう話を聞けば顔だちの特徴にはなるほどと思われるふしがある。鶴見は今は未亡人であるこの叔母を尊敬もし、また親しんでもいた。特色の出ている人を好む彼の性向は早くこのころから萌していたものと思われる。

新築後は以前から長くいたおだいという乳母もいなくなった。二人までいた同居の人たちも立退いた。別れた母の代りには姉と叔母とが立働いている。これも家庭の改革であった。

新築祝いがあった。

先ず客を招く準備として、襖絵の揮毫に大場学僊を煩わした。学僊は当時の老大家である。毎朝谷中から老体を運んで来て描いてくれた。下座敷の襖六枚には蘆に雁を雄勁な筆で活写した。雁の姿態は一羽一羽変化の妙を極めているが、放胆な気魄を以て、その複雑さを貫通している。二階には大きな波のうねりを見せ、波の上を鶴がのどかに舞っている。襖四枚である。これには淡彩を施してあったが気品があった。小襖には斜に出た菊の枝、通い口の三尺の襖には小松が景色を添えている。二階には宴会の席が設けられてある。十畳の間である。

もとよりゴブランではないが、大層もない外国輸入の絨毯がその十畳の間に敷きつめてあった。田舎出の役人の家としてはちと出来すぎたようである。冷やかな観察者があれば、傍からそんな皮肉な口をきかぬでもなかったろう。父とすれば考えた上でのことでなく、新築祝の設備としてだけの意味しかなかったにちがいない。そんな新奇な装飾品が当時流行しかけていた。父の負けじ魂の性癖から、一時の物として、つい奮発することになったのだろう。果してこの異国の花卉を浮織にした絨毯はその後あまり役に立ったとは見えなかった。

宴会の当日は、明治初年以来父が世話になった上官やら先輩やらの知名の人々を招待した。大抵は同藩の出身者である。酒席のとりなしには新橋の名うての妓を選んで、舞子も来ている。幾つも立てた燭台には真白な舶来の西洋蝋がともされる。その夜美形らが何を歌い何を踊ったか、それを鶴見は記憶していない。ただ綺麗に着飾った舞子に目をつけている。これも鶴見がそれを記憶しているのではなかった。端のものがそういって、あとから幾度も冷やかすのである。母がいなくなってから、観劇のことが止めになり、何か寂しく物足りなかったところへ、このあでやかな享楽世界を見せられた。子供心にも恍惚たるものを感じていたにはちがいないからである。

小学校へは姉と一しょに登校していた。姉は上級に編入されて試験にはいつも優等であった。この姉がいたばかりに、中学に通うようになるまでを、幼いなりに余り歪められもせずに生い立つことが出来た。そう思って、鶴見は往昔を追想してなつかしがっている。その姉ももうとうに亡くなった。

明治二十年に小学の業を終え、直に府立の中学へ入校したのだが、この年に父は後妻として村山氏を家に納れた。鶴見はここに継母を持つことになったのである。鶴見が弱な小供で意気地のないことを諷して、後年に至るまで、姉は気性がすぐれていたといってよく誉めていた。それで見ると、姉が国に帰ったのはこの年も晩いころであったろうか。

鶴見は姉と肩をならべながら、『新体詩歌』の中の自由の歌やハムレットの独白なんぞを誦じて、街頭を歌って歩いた。この『新体詩歌』は有名な『新体詩抄』の民間版ともいうべきもので、明治十六年にはその第五集を出している。鶴見が今持っているこの小冊子は奥附を見ると十九年二月の出版となっている。この書は岩野泡鳴から譲り受けたもので、その当時鶴見が手にした袖珍本と版式に変りはない。そうしてみれば、彼がその本を読んで感動した年代もほぼ明らかになる。今までに類のない新しい歌を歌って町を歩いたことがそう突飛とも思われなかったというのは時勢であろう。その時勢に応じて、いつとなく少年なるべき彼の心に、やがて意志の自由や個性の発現が望まれるようになっていたと解しても好かろう。新時代は確にこうした道をたどってその波動をひろめつつあったのである。

生母に別れた後の鶴見は、親身になって世話をやいてくれるものは誰一人なく、一旦棄てられた小供がまた拾われてかつがつ養われていたような気分に纏われていた。それにもかかわらず、時勢にふさわしい歌を朗かにうたって、鬱屈した精神を素直に伸してゆけたことは全く姉のおかげであった。

しかるに継母が来て、干渉がはじまった。その干渉の裏には棘があった。

姉は好い時機に国へ立って行った。それと共に姉は好い時分に東京にいたともいえる。

毛糸の編みものがその頃流行していた。そういう手工にも姉は器用であった。あの鹿鳴館に貴婦人たちが集って、井上外交の華やかさを、その繊手と嬌笑とをもって飾った時代である。有名なのは夜会の舞踏であった。昼間はバザアが催された。姉は相当な官吏の女であるというので、勧められて編物も少しは出品したが、要するに売子に雇い上げられたのである。それはそれで好い。鶴見も絹の袴に紋附を着て、叔母に連れられて後から出掛けて行った。

そこでは休憩室で、珈琲とカステイラを頂戴する。立派な椅子にも腰かけられる。バザアも覗く。姉も鶴見もいわゆる文明開化の誇示をまのあたりに見て、珍らしい経験を得て帰って来たことをおぼえている。忘れえぬ感銘の一つである。

明治十八年には官制の大変革があった。

父は許される限りの出世をして、文部書記官に昇進する。それは好いが、新官制によって定めたとおり、父も遽に大礼服というものを誂えて一着に及んだ。父には到底似合もせぬしろものである。御用商人の手で最上等に仕立てられた。肩や胸には金モオルがこてこてと光っている。それに外套の仰山さには一同びっくりした。こんな物を引掛けては小さい人力車などには乗れそうもない。是非馬車が必要になるといって、皆あきれて、あとでは笑いこけた。それほど偉大な怪物であったのである。父もたった一度身につけたなりで、またと再び大礼服に手を通すことはなかった。

父は出世するだけ出世して罷めさせられたのである。それを非職と称していた。その後は嘱託という名義で、仕事はこれまでと余り変らずに、主として地方への出張を続けていた。もちろんそれも四、五年の間であった。

姉は父の全盛を見て国へ帰って行ったのである。暫くの間であったが、風月の洋菓子などふんだんにあった。ボンボンといって一粒ごとにいろいろの銘酒を入れた球状の菓子もある。父はそんなものには目もくれず、カステイラなどはいつでも黴が生える。それでも手をつけさせなかった。家族のものは勿体ないといったが、どうにもならない。

官制の改革は多数の犠牲者を出した。安穏に眠を貪っていた官吏社会をはじめての恐慌が襲ったのである。維新当座どさくさまぎれに登用された武士階級中の老年者とか無能者とか、たいていそういう人々が淘汰された。そういう人々の家族は困り切って、寄るとさわると、窮乏の話をひそひそとしていた。今度の継母は父と同じ藩の然るべき武士の家から出ていたので、そういう窮乏組の女たちがよく尋ねて来て、繰り言をいって、為すこともなく一日を暮らして行った。

継母は継母で一家の経済を極端につましくした。

これまでぼんやり育って来た鶴見にはまだ買物をする呼吸がわからない。いつでも同じ事であるが、その頃の商人はことにこすかった。こすいのはまだ好いがごまかしをやった。空缶を持って行って煎餅を買いにやられる。買って来ると、

「何といって買ったの。」継母から意外な問が出る。

「この缶にいくらだけ入れてくださいといいました。」鶴見にはまだ様子がわからないので、そういって正直なところを打あける。

「そんな迂濶なことで好いのかね。これからは品物を缶に入れさせて置いて、これでいくらと聞いてみるのだね。ごまかされるよ。」

事ごとにこんな風にたしなめられて今までに覚えぬつらさを感じた。

鶴見はこうして、日々に鍛え上げられる。些細なことのようであるが、それでも効果はあった。鞭をあげているのは継母の手を借りた人生の世智辛さであるということが、追々に納得が出来るようになる。人心の機微を察するということも、こうしているうちに、見当がつくようになる。鶴見にはそれだけの変化が起った。

継母は継母らしく振舞ったのである。鶴見はそう思って、別段に悪感情も懐かずにじっとしていた。

Chapter 7 of 11
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