第一場
公園の一隅――杉の木立を透して黒板塀が続いて見え、梅雨晴れの空に赤瓦が光つてゐる。
小径を前にして朽ちかけたベンチが一つ、サイダアの空瓶や新聞紙の丸めたのや蹈みつけられた折などがあたりに散らかつてゐる。
繭子を先頭に、麦太郎、海老子夫人が現はれる。繭子は水色のパラソルをさした二十三四歳の未婚者。麦太郎は金釦の制服に帽子だけ鳥打といふ怪しげないでたち、おまけに勿体らしく細身のステツキをついてゐるが、その手つきはまだ十三四の初々しさである。海老子夫人は、紋附の黒の夏羽織、傘はささずに、扇子をつかつてゐる四十四五の近代母性型、黙つてゐる時、上唇で鼻の孔を塞ぐ癖がある。
海老子 繭ちやんつたら、そんなに早く歩くと、母さんはついて行けないよ。繭子 だつて、麦ちやんが、うしろから背中をつつくのよ。麦太郎 (前に差出したステツキを引つ込めて)また、おれのせゐにしやがる。海老子 今日だけ大人しくしてゐておくれね、麦ちやん……。さ、ここでしばらく休んで行かう。かう息が切れてゐては、院長さんとお話もできやしない。(ハンケチを敷いてベンチに腰をおろす)繭子 汚れてやしなくつて……(母のする通りにする)麦太郎 (二人が腰かけるのを見すまし)おれは逃げると……(かう云ひながら、一目散に走り出す)海老子┐ ├ (同時に顔を見合せ、同時に起ち上り絶望的に、)麦ちやん!繭子 ┘麦太郎 (五六歩、走り出したと思ふと、すぐ戻つて来て)……なんて……。海老子 (麦太郎の腕を捕へ)喫驚させちや、いや……昨夜あんなに約束したでせう。母さんは決してお前の為めにならない事はしないからつて……。院長さんにもよくお話をして置いたんだからね。感化院つていふと人聞きは悪いけれど、あそこはほかと違つて、決して窮屈な教育法はないんだつて、さう云つたでせう……そこんところは、今までの中学なんかより余つぽど自由なんだよ。絵の好きなものには絵ばかり習はせるし、体操の好きなものには体操ばかりさせるんだしね。お前のやうになんにもしたがらない子には、なんにもさせずに置いて下さるだらう。麦太郎 嘘つけい。海老子 ほんとさ。そのうちにだんだんしたいこと、好きなことができて来るやうに教育して下さるんだもの。ねえ、繭ちやん。繭子 ええ、さうよ。あたしもさういふ学校へ行けばよかつたわ。さうしたら今頃、こんなになつてやしないわ。毎日朝起きると、今日はなにをしようか知らなんて考へないで済むんだわ。麦太郎 おれやそんなこと考へねえや。海老子 だからさ、お前はそれでいいんだよ。ただ、自分で何がしたいのか知らずにゐるだけさ。お前のすることは、何一つとして、好きでしてることぢやない。さうだらう。人の迷惑になることなんか、誰が好きでするものか。麦太郎 さうとも限らねえ。繭子 駄目よ、母さんがなんて云つたつて……。麦太郎 (ステツキを振り上げ)生意気云ふか。繭子 (ふいと立ち上り)姉さんは、今日、何んのためについて来てあげたと思つて?麦太郎 わかつてるぢやねえか。海老子 麦ちやん、後生だからこんなところへ来てまで乱暴をしないでね。姉さんはこれで一番お前の味方なんだよ、お前は知らないけれど……。母さんだつて、それや、お前が可愛いさ。お父さんがあんなにおつしやるのを、もうしばらくと云つて、手許へ置いたのもあたしだ。今度のことがあつてからだつて、あたしは、夜もろくろく眠らないでお前の行末を考へた。しかし、お前を見るあたしの眼には、まだ何処か不純なところがある。かうまでしてやつてゐるのに……さういふ気持がないとは云へない。殊に、お前を生んで今日まで育てて来たことを思ふと、つい、望んではならないことまで望みたくなる。さういふ時、姉さんがゐてくれないと困るんだよ。姉さんは、もつと公平な眼で、あたしとお前との間を見てゐてくれる。あたしがどうかしてお前の云つたりしたりすることを、実際以上に悪く取つて、ついそれを顔色に出したりなんかすると、いつでもあたしをたしなめてくれるんだよ。だから、今日は最後に院長さんにお前のことを、お話しする時、姉さんにそばで聴いてて貰はうと思ふの。あたしがついお前のことを悪く云ひ過ぎでもするといけないと思つてね。麦太郎 それと、若しかして、途中でおれが逃げ出しでもしたら、一緒につかまへさせようと思つてね。繭子 (笑ひながら)姉さんにつかまへられるなんて、意気地がないわ。麦太郎 だから、どうしたい。海老子 (ハラハラしながら)そんなこと、怒らなくつたつて……。麦太郎 おれや、繭子なんて女は嫌ひだ。起きるから寝るまで結婚のことばつかり考へてやがつて、人が感化院にはひるつて云や、羨ましいやうな顔をして見せたり、そばで自分のことを褒められると、眼をつぶつて聴いてやがら……。繭子 ぢやどうして聴いてればいいの。眼をあけてればいいの。麦太郎 つぶつてるよりやましだ。海老子 そんなこと、どつちだつていいぢやないか。さ、それより、麦ちやんどうなのさ、大人しくついて来るかい。ついて来るばかりぢやいけない。あそこで当分辛抱するかい。院長さんの前で、また駄々をこねられちや、母さんが困るからね。麦太郎 院長つて、どんな奴か見てから決めらあ。また、うちのおやぢ見たいな奴なら御免だ。海老子 うちのお父さんだつて、お前さへもつと大人しくしてゐれば……。麦太郎 わかつた、わかつた。もうその話はよしてくれ。あの板塀で囲つてある中が感化院かい。なかなか広さうぢやないか。早く中が見たくなつた。動物園だと思や間違ひはないね。繭子 あら、そんなもんぢやなくつてよ。いやな麦ちやんね。海老子 とんでもない考へ違ひをしてるんだね。此の子は……。昨夜もさう云つたでせう、寝室や勉強部屋がちやんとあつて……運動場にはブランコやテニスコートもあるし、大きな池があつて、その池にはボートがあるし、草花が好きなものは花壇も作るし、小鳥と遊びたいものは小鳥も飼へるし……。繭子 楽器だつて、みんな揃つてるつておつしやつたぢやないの。ピアノでも、なんでも……。おうちよりよつぽどいいわ。麦太郎 てめえもはひれ。繭子 女は駄目なんだつて。麦太郎 女の感化院つて、ないのかい。海老子 女が感化院にはひるやうぢや、おしまひだからね。麦太郎 男はこれからと来てやがらあ。あんな塀ぐらゐ、飛び越えるなあ、わけはねえな。海老子 そんなことでもして御覧、お前……。麦太郎 うるせえな。いちいち……。云ふだけぐらゐ云はせとけよ。(ここで、何を思つたかズボンのカクシから細い針金の巻いたのを取り出し、その一端を道ばたの樹にやや高く結びつけ、もう一方の端を手にもち、ベンチの上に立つ)海老子 なにをするの。麦太郎 あの木の上に栗鼠がゐるんだ。かうして待つてると、栗鼠の奴が降りて来て、針金の綱渡りをやるから見てて御覧。繭子 どこにゐるの。麦太郎 あの枝の茂みにゐるぢやないか。声を立てると逃げちまふよ。
海老子夫人と繭子は一心に樹のてつぺんを見上げてゐる。すると、一方から、一組の男女が現はれる。男は買ひたての麦稈帽をかぶつた中年の紳士、女は丸髷に結つた芸者と判断すれば間違ひなく、人前を憚り、男が少し足を速めたところである。男は、煙草を出して火をつける。途端に、麦稈帽子が阿弥陀になつたと思ふと、勢よく後ろへ飛ぶ。麦太郎の悪戯が功を奏したのである。男は、あツと叫んで、頭へ手をやつたが、もう遅い。解し兼ねて、あたりを見廻す。
麦太郎 そこ通つちや駄目だよ。海老子 (はじめて気がつき)失礼な、……。繭子 麦ちやん。海老子 (急いで帽子を拾ひ)ほんとに申訳ございません。只今、なんですか、あの樹の上に栗鼠がゐるとかつて申しましてね……。その栗鼠に、針金の綱渡りをさせようとしてゐたところなんでございますよ。なに、いつでも、そんなことをして遊んでゐるもんでございますから、つい気にもとめずに……ほんとに、母親がついてをりまして、なんとも申上げやうがございません。
男は、帽子を受け取ると、につともせずに、それをかぶつて去る。やがて、女の「なんとか云つておやんなさいよ」といふ声だけが聞える。
海老子 麦ちやん、どうしてお前はさう、母さんに苦労ばかりさせるの。繭子 栗鼠なんてうそでせう。麦太郎 (にやにや笑つてゐる)繭子 (思ひ出したやうに笑ひこける)海老子 笑ひごとぢやないよ。(さう云ひながら、これも笑ひを噛み殺して)あの人、でも、おとなしい人だつたからいいやうなもんだけれど、若しかほんとに食つてかかつて来られたらどうするつもりなの。もう子供だからぢやすまされないよ。母さんは、お前のしたことを、みんなに謝まりに生まれて来たやうなもんだ。麦太郎 おれの方が後で生れたんだぜ。海老子 だからさ、謝まるために、お前を生んだやうなもんだつて云ふのさ。麦太郎 そいぢや、また、話が違はあ。海老子 (情けなさうに)お前は、物事に懲りるつていふことがないんだね。麦太郎 泣くなあ、見つともねえから、よさうぜ。だから、もう、これでおしまひだよ。感化院へはひつたら、その代り、何をしたつていいんだらう。ううん、なんにもしなくつていいんだらう。(考へて)いけねえ、どつちだかわからなくなつちやつた。繭子 麦ちやんは、ほんとは、人が好いのね。あたし、麦ちやんがどんなおいたをしても、顔を見てると、なんだか怒れなくなるのよ。麦太郎 怒つたつて、怖かねえや。繭子 ね、さういふところよ。麦太郎 なにを、えらさうな。
此の時、感化院の方から、吹奏楽のマアチが聞えて来る。三人とも、しばらく無言のままその方に耳を傾ける。
海老子 (起ち上り)さ、行かう、あそこへ……。
――幕――