Chapter 1 of 3

妻の順子が急に、

「どうも、怪しいわ。こんなに痛いはずないんですもの」

と、顔をしかめながら言ふのをきいて、鈴村博志は、今更のやうにギクリとした。

「だつて、予定は来月初めぢやないか。まだ二週間はたつぷりあるぜ」

「あたしもそのつもりだつたのよ。だから、なんにも用意なんかしてないわ。でも、病院へ行くひまあるかしら……。苦しい、とても苦しい」

さう言つたまゝ、妻の順子は、そこへ突つ伏してしまつた。

鈴村博志は途方にくれた。今すぐ病院へ電話をかけて、それで間に合ふかどうか? 医者が駈けつけて来るとしても、それまで自分ひとりでどうすればいゝのか?

「弱つたな。とにかく、しつかりしろよ。万一の用心に、そこの産婆にでも来てもらはう。病院へは、むろん連絡はするがね」

彼は、妻のために夜具を敷き、隣家の細君にちよつと声をかけておいて、ドテラ姿のまま家を飛びだした。

思へば迂闊な話である。結婚してから既に十五年、これが最初の経験ではなく、妻の順子は、三度身重になり、そのうち二度は流産といふあつけない結果であつただけに、こん度は大事をとつて、毎月医者に見せ、いよいよとなつたら入院する手筈をきめてゐたのである。

どちらかといふと、二人とも晩婚で、彼は三十二で、はじめて、家庭と名のつくものをもち、妻の順子は、二十六で、平凡な人生の伴侶を見つけたのである。事実、二人の間には、なにひとつロマンチックな思ひ出といふやうなものはなく、そのかはり、また、これといつて期待を裏切られたといふ悔いもなかつた。

彼は、B大学の専門部を出るとすぐ現在の製紙会社へはいり、勤続二十五年の功でやつと課長の椅子にすわると、彼女は、いつさいボーナスに手をつけない主義で、ひたすら老後の安泰を心掛けた。彼は、立身出世に見きりをつけ、たゞ周囲との円滑な交渉、妻と二人きりの生活の平和を念願として、人生の降り坂を悠々と歩いてゐた。そして、彼のこの心境をうつして、申し分なく内助の役を果してゐる妻の順子は、美貌とはいへないが、決して、ひからびた存在ではなく、明けて四十歳の今日、気分次第では、ひとり台所で「野ばらの歌」を口吟む若々しさをのこしてゐる。

焼け残つた東京郊外の、空ツ風の吹きまくる道を、鈴村博志は、無我夢中で、電車の停留所目がけて、呼吸をきらしながら、前のめりに歩いてゐる。たしか、このへんで、産婆の看板を見かけたはずだが、と、あたりへ気をくばる。どうして、そんなことを覚えてゐるかといへば、それは、ちよつとしたひつかかりがあるからで、以前、この道を通つた時、ふと目についた、よくある例の四角い白ペンキ塗りの立て棒の看板に、「産婆大野登志」と書いてある、その名前が、彼の遠い記憶をおぼろげに呼びさましたからである。

オホノトシ、オホノトシ、と、口の中で繰り返してみて、彼は、その名前の響きといつしよに、おほげさにいへば、懐しい胸騒ぎを覚えた、そのことが、それ以来、その看板を見るたびに、おなじ印象として、今日まで続いてゐるのである。

彼は、もちろん、一方では、同名異人といふ場合が世間に珍しくないことを知つてゐる。この名前にしても、彼の記憶のなかに生きてゐる人物と、なんの関係もないといふことの方が、可能性としては大きいに違ひない。彼がオホノトシと名乗る女性を識つたのは、彼の生家のあつた名古屋のお城に近いある町の一隅である。その間に、何十年といふ歳月の流れがあり、今、この東京の近郊で、おなじ名前の産婆が開業してゐるとしても、第一、相当の年配で旧姓を名乗る例は少いし、嘗てのオホノトシは、果して「登志」と書いたかどうか、彼はたゞ耳でその名を聞き覚えてゐるにすぎないのである。

さて、鈴村博志は、さういふ因縁話と関係なく、大野登志が腕のいゝ産婆であつてくれればと心に祈りながら、その助けを一刻も早く求めるべく、例の看板を血眼で探したのである。平生は、なんの気なしに、その看板を見過してゐたことが、ひしひしと後悔された。いざ、どこで見たかとなると、それがなかなか思ひ出せない。ともかく、通ひなれた一筋道である。見落すわけはないと、必死になればなるほど、ほかの看板だけが、むやみに突つ立つてゐるのが目につくだけである。たうとう停留場まで来てしまつた。すると、なんのことはない。その停留場の交番の横に、ちやんと、それが立つてゐるではないか!

幸ひ、警官がその番地をよく知つてゐて、すぐに道順を教へてくれた。

彼は自宅から一町も距つてゐない、産婆大野登志の玄関に辿りつく。見習か弟子とおぼしい若い娘が取次に出た。

「すぐそこの活版屋の横を入つた鈴村といふものですが、家内が、今、急に腹が痛いと言ひだして、実は困つてゐるんです。大至急来ていたゞけないでせうか?」

「予定日はいつになつてをりますですか?」

「それが、すこし早すぎるには早すぎるんです。医者は来月初めと言つてたんです」

「お医者におかゝりになつてるんですね」

「それが、本郷の病院でして、医者はもう間に合はないと思ふんで……」

「先生はたゞ今、ご近所へ往診中ですから、早速、さう申しあげてみます」

出先に電話があつて、すぐに、そつちから廻るといふ返事であつた。

彼はほつとすると同時に、今、ひとりつきりで苦しんでゐる妻の様子を思ひ浮べ、なにはともあれ、家をのぞきに帰ることにした。

「おい、大丈夫かい? もうすぐ産婆さんが来るよ」

表から声をかけながら、玄関をあがると、隣の細君が、もう、エプロン姿で、うぶ湯の支度をしてゐてくれる。

「やあ、どうもすみません。まつたくお産なんていふもんは、人騒がせなもんですなあ」

「それや、さうですわ、みんな旦那様のせいですもの」

いやなことを言ふ神さんだ、と、彼は思つた。

妻は、軽い唸き声を時々出しながら、彼の方をすこし焦れたやうな眼つきで見あげてゐる。

「心配しないでいゝよ。万事、心得てるよ。あと、病院に電話をかけてさ、産後の手当を間違ひなくやつてもらへばいゝんだらう」

「だつて、あなた、それぢや、産婆さんにわるかない?」

「そんなこと言つてる場合ぢやない。まあ、おれに委せとけよ」

産婆の来るまでにと思ひ、彼は、近所の電話をかりて病院へ言ひわけ半分に産婆を頼んだことを報告し、それでも、なるべく早く立ち会ひを頼むと念を押した。そして、こんな場合にも、彼は、会社へひと言、欠勤の届けをすることを怠らなかつた。

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