Chapter 1 of 6

カザノヴァの回想録を訳しはじめてみると、いろいろな問題が自分にも起こつて来るし、この書物の解説といふやうなものが同時になくてはならぬといふ気がするので、既に世にあらはれている文献をできるだけ探す一方、自分自身のメモもひと通り作つておきたいと思つてゐる。これから二十巻ぐらゐに分けてつぎつぎに刊行する予定の訳本に、いくらかづゝでもそのノートをのせるやうにしたい。

「人間カザノヴァ」は、私が今、一番興味を惹かれてゐる「人間の典型」の一つである。

十二三年前のこと、私はふとカザノヴァを読んでみる気になつた。フラマリオン版の古典叢書で全八巻といふ大部なものだが、私は一と夏かゝつてぼつぼつ読んだ。時には読み耽るといふ状態に自分で気がついて、やゝそらおそろしくなることもあつた。

ともかく、天下の珍書である。そして、私のこの書物から受けた印象から云へば、カザノヴァといふ人物は、聞きしにまさる「痛快な男」である。

もちろん、稀代の漁色家といふ一面で、ドン・ファンの向ふを張る腕前は、さすがに名声に恥ぢないものではあるが(ドン・ファンとの比較は古来好事家の間で屡行はれてゐる。カザノヴァ論には欠かすことのできない重要な一項目である)、この十八世紀の生んだヴェネチア人は、決してそれだけの代物ではない。これはまさしく、人間の歴史が永く記念すべきエポック・メーキングで、ヨオロッパ人はあるひはそれほどにも思はぬかもしれぬが、われわれ東洋人の眼にうつる彼の人間像は、過去現在を通じて、最も注目すべき一つの典型、「解放の途上にある」人間の、ある特殊な条件のもとに示された裸のすがた、しかも、極めて逞しい、魅力に富む裸のすがたなのである。

われわれも同様に「ヨオロッパ精神」と呼ぶもの、かのギリシャとヘブライの伝統のなかに芽生えた人間性の発展の過程は、必ずしもつねに平坦な軌道に乗つてはゐない。ルネッサンスは、一方から言へば、叡智の開花ではあつたが、また一方からみると、混沌への突入である。光明ははるか彼方にあつて、足許はまだ暗く、「自由」は観念として人々を覚醒させたとは言へ、その「自由」は、まだ求めて得られるか得られぬかが問題で、それは畢竟自己以外のところにあつた。つまり、「自由」はどこかになければならぬことを知り、何が「自由」であるかを悟りはじめ、「自由」をわがものとするために戦はねばならぬ時機であつた。そして、その状態は、十八世紀まで続いたのである。

といふ意味は、「人間は自由」だといふことを、観念としてではなく、身をもつて感じ得るまでに数世紀を要したといふ事実に眼をふさいではならぬといふことである。つまり、人間の自由は、なによりも、己れみづからこれを束縛してゐることに思ひ至る必要があつた。かくて、ヨオロッパに於ける人間改造は、十八世紀の開幕によつて、やうやく一段落を告げた。近代社会革命の精神的準備が曲りなりにもできたと言つていゝのである。

私は、この世紀に登場するヨオロッパのいくたりかの代表的人物について、その例をあげたいのだが、いまその暇はない。たゞ興味あることは、封建末期の硬化した政治的、社会的情勢のなかで、制度が人間を縛るといふ考へに先行して、既に、民衆の大多数は、自分が自分の主人であることを感じ、かつ、信じるやうになつてゐたこと、従つて、生活のあらゆる分野、私生活はもちろん、その公生活の数々の場面に於て、放縦が単なる放縦でなく、無軌道は無軌道でも、おほかた、それは明快な信条を伴つた自律的無軌道とも言ふべき性質をおびてゐたといふことである。

彼らは、なるほど、多分に前時代の風習を身につけ、まだ階級の框といふものを脱してゐない。しかしながら、いはゆる世の掟の重圧を重圧とする程度と、その階級意識の内容は、明らかに大きな変化を示してゐる。権力は権力そのものとして彼らの利害を左右するけれども、権力をもつ人間に対する彼らの不敵な対抗策は、その弱点に乗じ、これをある程度翻弄し、時には、それを最大限度に利用することによつて完全に遂行されてゐる。ボオマルシェの「フィガロの結婚」はこの種の無頼性と階級意識を取り扱つた極めて代表的な諷刺喜劇である。

ジャック・カザノヴァは実にかういふ時代に生れ、育ち、かういふ時代の民衆の魂をその全生活のなかに活かしきつた人間である。言ひかへれば、彼こそは、自ら「自由なり」と信じ、かつ感じ、その行動のすべてをそこから出発させた、おそらくは最初の、そして完全な「自由人」の一人だつたやうに思はれる。

自由だと信じることは、自由な筈だと信じることではない。自分はどこまでも自由だと真に信じるものは、身をもつてそれを感じ、すべての行動をその上に築くものでなければならぬ。自由でなければならぬと知りながら、自由な行動に出ることができないのは、たゞ、その人間に力と勇気とが欠けてゐるからではあるまいか。もし己れの自由がなにものかのために束縛されてゐるなら、それと戦ひ、或は巧みにそれをすりぬける手段を選ぶ自由が彼にはあるのである。

こゝから、いはゆる個人の自由の限界がどこにあるかといふ社会契約と近代道徳の原理が生れるのであるが、それはまた別の話である。

十八世紀は、ともかくも、「人間の自由」が生活感覚として文字どほり血肉化し、それまでにはごく少数の人々にしか知られてゐなかつた「自由の味」が、民衆にもわかりかけて来た時代である。つまり、「人間の解放」がまづ人間の内部に於てあらまし形をとゝのへたのである。

かういふ事情をひと通り理解したうへでないと、カザノヴァのやうな人物の出現にわれわれとしてはそれほど興味はもてない。なぜなら、回想録を書かない似而非なるカザノヴァは、いつの時代にも、その類型を求めることは容易だからである。ところが、わがカザノヴァは、決して、いかなる時代にも生れ得るやうな単なる猟奇家でもなく、また色事師でもない。彼のおほらかさは、その天性によるよりも、むしろ、「時代の子」なるがゆゑであり、その行動に著しい生彩を与へる彼の勇気さへも、彼が、自ら言ふやうに、「おれは自由だ」と信じる、その信念の如きものから生れ出てゐると思はれる。彼が、なによりも、自分で自分を束縛する一切の妥協を排してゐるのをみればわかる。

彼はまた、同時に、時代の波に乗る「国際宮廷ゴロ」の札附の一人でもあるが、このことがまた、彼を類例のない多彩な猟奇物語の作者たらしめたのであつて、ルソオの告白にみる過剰な自意識によつて読者を不必要に悩ますことがないのである。

なにはともあれ、私は私なりに、このヨオロッパの名物男にすつかり興味を惹かれてしまつたのだが、この回想録から得た感銘をさう簡単に説明できるものではない。しかし、はつきり言へることは、この書物は、世間の一部で想像されてゐるやうに、エロチックな場面で人の眼をそばだたしめるといふだけのものでは断じてなく、それを含めてではあるが、やはり全体を通じて、彼、カザノヴァなる人間の、なにものをも畏れない生き方、屡、平然と死地に赴くあの澄みきつた態度、それは、死とすれすれに生きる生命の鼓動に耳を傾け、死を超えた生の凱歌に自ら酔はんがための勇気のいる酔興が、この書物のどの頁にもあふれてゐるといふことである。

なるほど、彼は、ときに理窟は言ふ。その哲学はヴォルテエルの君臨する百科辞典派の口吻を真似たやうなところがあつて、風潮は争はれぬといふ気もするが、それは決して、彼にとつて致命的なことではなく、却つてそれは一種の愛嬌になつてゐる。思考は、彼にあつては、単に行動の附属物にすぎず、行動こそは彼のすべてだと言つてもよいからである。思索する彼の頭脳は、彼の生きる姿の溌刺とした全像に比すれば、まさに帽子の羽根飾にもひとしいもので、彼の生涯は、彼の語り方によつて面白くされたといふより、むしろ、彼がそれを語るとき、彼はその生涯を再びまざまざと生きてみせてゐるからである。

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