Quay lại
国号の由来
Table of Contents
国号の由来
喜田貞吉
Reading Settings
Cỡ chữ
18px
Giao diện
Sáng
Tối
Sepia
Bảo vệ mắt
Khoảng cách dòng
Chế độ đọc
Bản dịch Pagera AI
Nguyên bản Public Domain
Chapter 5 of 7

五 日の本という語

「日出処」はすなわち「日の本」である。日の本は東方を意味する語で、本来はそれよりも以西にある地方の住民が、東方日出処を指して呼んだ語でなければならぬ。何となれば、自身その地に住するものにとっては、それが世界の最東にあり、他より見て所謂日の本に相当するものであるとしても、その地に在ってはさらにその東方に日出処の存在を認むべき筈で、したがって自己の住処を以て、自ら日の本なりと称したとは思われぬ。されば我が中世の語には、当時の地理上の知識において、我が邦の最東に在りと認めた奥州を以て、日の本と呼ぶ例であった。かの最明寺時頼の著と俗称する人国記に、「陸奥は日の本故に、色白うして眼青みあり」とあるのはこれである。古く既に平安朝初期の新撰姓氏録上表の文にも、奥州のことを「日出之崖」とある。鎌倉時代から室町時代にかけて、奥州津軽地方を占領し、北方に雄視した安東氏が日の本将軍と呼ばれたのも、また奥州すなわち日の本の義から取った名称であるに他ならぬ。また豊臣秀吉が小田原城攻囲の際、天正十八年五月一日附けを以て、その妻すなわち大政所へ遣わした消息には、「小たはらの事はくわんとう(関東)ひのもと(日の本)までのおきめにて候まゝ、ほしころしに申付くべく候」とある。これは徹底的に小田原北条氏を討滅することが、直ちに関東奥羽全体の処分を定むる所以であることを述べたのである。我が古い俗諺に、「木乃伊採りが木乃伊になる」との語がある。奥州日の本は日出処であるが故に、暑熱甚だしく、その海岸にはこれがために黒焦げになった木乃伊が累々として横たわっている。それは高価なる薬材であるが故に、冒険者がしばしばこれを取らんとして、自身また木乃伊となると云う説話なのである。しかるに地理上の知識が進んで、奥州の東にさらに蝦夷が千島の存在が知らるるに及んで、所謂日の本の名がそこに移り、木乃伊採りの話までもこれに伴って東遷した。蝦夷一揆興廃記という書に、「日の出島は方角蝦夷より東北に当り、道法凡そ三百余里と云へり。山谷、海上、共に難所ありて、言語に尽くし難し。さて日の出島に行くものは、十人二十人申し合せ、木乃伊を探りに行く事なり」とある類である。或いは「日の出浜」「日の本」などの名も、これらの地方について呼ばれた。寛文頃に出来た一種の蝦夷地図(函館図書館)には、今の北海道胆振地方と見らるべき地域に、「是より東方日の本と云」と記入してある。万治三年の松坂七兵衛北蝦夷漂流記にも、風が西に変りて日下に流されたとある。「日下」はすなわち日の本である。

南北朝頃の諏訪大明神絵詞に、当時の北海道における蝦夷に三種あることを記して、その一種に「日の本」と云うのがあるとある。彼らは「形体夜叉の如く、変化無窮なり。人倫禽獣魚肉を食として、五穀の農耕を知らず、九訳を重ぬと雖も、語話を通じ難し」とあって、全然生蕃階程にいたアイヌを呼んだ名であった。北海道は西より開けて、前記地図に見ゆる東方日の本の地方には、少しも和風に染まぬアイヌが住して、それを直ちに「日の本」と呼んだのであった。しかしその所謂日の本の地も、内地文化の進展とともに、次第に東方に退却して、近世では北海道アイヌは得撫以往の北千島をチュプカと呼び、その住民なる千島アイヌをチュプカグルと云う。チュプカは太陽の義で、すなわち日出処を意味し、チュプカグルはその日出処の人、すなわち日の本蝦夷の義である。南北朝頃には北海道の東部地方に認められたところのものが、後には北千島においてのみ認められることになったのである。そしてその千島アイヌは、さらに東方なる柬察加をチュプカすなわち日出処と称し、その住民なるカムチャダールを、チュプカアングルすなわち日の本の人と呼び、自己をルーントモングル、すなわち西に住まえる人と云っているとのことである。日の本の義また以て解すべきである。

されば我が国を日の本と称し始めたことは、実は邦人自身ではなく、当初は朝鮮半島の住民が、その東方なる我が国を呼んだものであったに相違ない。日本紀引くところの百済本紀など、古代朝鮮の書に既に我が国を指して「日本」と書いた例がある。朝鮮そのものも、また、実は支那から見て日の本であった。朝鮮の地誌なる東国輿地勝覧に朝鮮の名義を解して、「東表日出の地に居るが故に朝鮮と名付く」とある。漢の楊雄が、武帝の徳を頌したる賦に、「西圧二月※一、東征二日域」とあるのも、西方には西域月氏の地を服し、東方には朝鮮日域の地を平らげたことを述べたもので、ここに「日域」とは朝鮮を目して日出処と呼んだのであった。しかしながら、事実上国家としては我が国以東に位置するものなく、我が国は世界の最東日出処であり、すなわち日の本である。かくてそれが遂に我が国にのみ用いらるるに至ったものと解せられる。

しかしながら、文字にこれを「日本」と書くも、国号としてはこれを文字のままに、直ちにヒノモトと称する訳ではなかった。日本紀に「日本」の文字に註して、「日本此云二耶麻騰一、下皆效レ之」とある。つまり従来の「倭」の字に代うるに、「日本」の二字を以てし、依然これをヤマトと読ませたものであったに他ならぬ。

なおここに「日本」の二字をヤマトと読ませることについては、所謂「日の本」が我がヤマト帝国の位置に当るという会意からの理由の外に、それが我が国特有の枕言葉から導かれたものであることが考えさせられる。我が国語には、地名その他の名詞の上に、その発音において、或いはその意義において、或る縁故ある語を冠して枕言葉となし、これをその語と連称するところの一種の修辞法がある。そして枕言葉の文字が、直ちにその語を表わす文字として使用せらるる例がある。「飛ぶ鳥のアスカ」「春日のカスガ」などがそれで、枕言葉をそのままに「春日」と書いてカスガと読み、「飛鳥」と書いてアスカと読む類これである。そして「日の本のヤマト」またその例の一つとして見るべく、我がヤマトの国家が、世界の最東日の本にあるということから、ヤマトの枕言葉として「日の本」の語が用いられ、やがてこの枕言葉から「日本」と書いてヤマトと読むこととなったものと解せられるのである。

Chapter 5 of 7
|