Chapter 1 of 2

河豚のうまさ

ふぐのうまさというものは実に断然たるものだ、と私は言い切る。これを他に比せんとしても、これに優る何物をも発見し得ないからだ。

ふぐのうまさというものは、明石鯛がうまいの、ビフテキがうまいのという問題とはてんで問題が違う。調子の高いなまこやこのわたを持ってきても駄目だ。すっぽんはどうだと言ってみても問題が違う。フランスの鴨の肝だろうが、蝸牛だろうが、比較にならない。もとより、てんぷら、うなぎ、寿司などの問題ではない。

無理かも知れぬが、試みに画家に例えるならば、栖鳳や大観のうまさではない。靫彦、古径でもない。芳崖、雅邦でもない。華山、竹田、木米でもない。呉春あるいは応挙か。ノー。しからば大雅か、蕪村か、玉堂か、まだまだ。では光琳か、宗達か。なかなか。では、元信ではどうだ、又兵衛ではどうだ、まだだ。光悦か、三阿弥か、雪舟か、もっともっと。因陀羅か、梁楷か、大分近づいたが、さらにさらに進むべきだ。然らば白鳳か、天平か、推古か、それそれ。すなわち推古だ。推古仏。法隆寺の壁画。それでよい。ふぐの味を絵画彫刻で言うならば正にその辺だ。

しかし、画をにわかに解することは、ちょっと容易ではないが、ふぐの方は食物だけに、またわずかな金で得られるだけに、三、四度も続けて食うと、ようやく親しみを覚えて来る。そして後を引いて来る。ふぐを食わずにはいられなくなる。この点は酒、煙草に似ている。

一たびふぐを前にしては、明石鯛の刺身も、鬼魚のちりも変哲もないことになってしまい、食指が動かない。ここに至って、ふぐの味の断然たるものが自覚されて来る。しかも、ふぐの味は山における蕨のようで、そのうまさは表現し難い。と言うふぐにもうまいまずいが色々あるが、私の言っているのはいわゆる下関のふぐの上等品のことである。いや、ふぐそのものである。

ふぐ汁や鯛もあるのに無分別

ふぐでなくても、無知な人間は無知のために、何かで斃れる失態は沢山の例がある。無知と半可通に与えられた宿命だ。

それでなくっても、誰だって何かで死ぬんだ、好きな道を歩んで死ぬ……それでいいじゃないか。好きでなかった道で斃れ、逝くものは逝く。

同じ死ぬにしてもふぐを食って死ぬなんて恥ずかしい……てな賢明らしいことを言うものもあるが……そんなことはどうでもいい。

芭蕉という人、よほど常識的なところばかり生命とする人らしい。彼の書、彼の句がそれを説明している。「鯛もあるのに無分別」なんて言うと、鯛はふぐの代用品になれる資格があるかにも聞え、また鯛はふぐ以上にうまいものであるかにも聞える。所詮、鯛はふぐの代用にはならない。句としては名句かも知れないが、ちょっとしたシャレに過ぎない。

小生などから見ると、芭蕉はふぐを知らずにふぐを語っているようだ。他の句は別として、この句は何としても不可解だ。

鯛である以上、いかなる鯛であっても、ふぐに比さるべきものではないと私は断言する。全然違うのだ。ふぐの魅力、それは絶対的なもので、他の何物をもってしても及ぶところではない。ふぐの特質はこんな一片のシャレで葬り去られるものではなかろう。ふぐの味の特質は、もっともっと吟味さるべきだと私は考える。

それだからと言って、何でもかでも、皆の者共食えとは言わない。いやなものはいやでいい。

ただ、ふぐを恐ろしがって口にせんような人は、それが大臣であっても、学者であっても、私の経験に徴すると、その多くが意気地なしで、インテリ風で、秀才型で、その実、気の利いた人間でない場合が多い。そこが常識家の非常識であるとも言える。

死なんていうものは、もともと宿命的に決定されているものだ。徒らに死に恐怖を感ずるのは、常識至らずして、いまだ人生を悟らないからではないか。

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