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柳河を南に約半里ほど隔てて六騎の街沖ノ端がある。(六騎とはこの街に住む漁夫の諢名であつて、昔平家沒落の砌に打ち洩らされの六騎がここへ落ちて來て初めて漁りに從事したといふ、而してその子孫が世々その業を繼襲し、繁殖して今日の部落を爲すに至つたのである。)畢竟は柳河の一部と見做すべきも、海に近いだけ凡ての習俗もより多く南國的な、怠惰けた規律のない何となく投げやりなところがある。さうしてかの柳河のただ外面に取すまして廢れた面紗のかげに淫らな秘密を匿してゐるのに比ぶれば、凡てが露で、元氣で、また華やかである。かの巡禮の行樂、虎列拉避けの花火、さては古めかしい水祭の行事などおほかたこの街特殊のものであつて、張のつよい言葉つきも淫らに、ことにこの街のわかい六騎は温ければ漁り、風の吹く日は遊び、雨には寢ね、空腹くなれば食ひ、酒をのみては月琴を彈き、夜はただ女を抱くといふ風である。かうして宗教を遊樂に結びつけ、遊樂の中に微かに一味の哀感を繼いでゐる。觀世音は永久にうらわかい街の處女に依て齋がれ(各の町に一體づつの觀世音を祭る、物日にはそれぞれある店の一部を借りて開帳し、これに侍づくわかい娘たちは參詣の人にくろ豆を配り、或は小屋をかけていろいろの催をする。さうしてこの中の資格は處女に限られ、縁づいたものは籍を除かれ、新らしい妙齡のものが代つて入る。)天火のふる祭の晩の神前に幾つとなくかかぐる牡丹の唐獅子の大提燈は、またわかい六騎の逞ましい日に燒けた腕に献げられ、霜月親鸞上人の御正忌となれば七日七夜の法要は寺々の鐘鳴りわたり、朝の御講に詣づるとては、わかい男女夜明まへの街の溝石をからころと踏み鳴らしながら御正忌參らんかん…………の淫らな小歌に浮かれて媾曳の樂しさを佛のまへに祈るのである。
沖ノ端の寫眞を見る人は柳、栴檀、櫨などのかげに、而も街の眞中を人工的水路の、水もひたひたと白く光つては芍藥の根を洗ひ洗濯女の手に波紋を畫く夏の眞晝の光景に一種のある異國的情緒の微漾を感ずるであらう。あの水祭はここで催され藍玉の俵を載せ、或は葡萄色の酒袋を香の滴るばかり積みかさねた小舟は毎日ここを上下する。正面の白壁はわが叔父の新宅であつて、高い酒倉は甍の上部を現はすのみ。かうして、私の母家はこの水の右折して、終に二條の大きな樋に極まり、渦を卷いて鹹川に落ちてゆくその袂から、是に左したるところにある。
今は銀行となつたが、もとはやはり姻戚の阿波の藍玉屋の生鼠壁の隣に越太夫という義太夫の師匠が何時も氣輕な肩肌ぬぎの婆さんと差向ひで、大きな大きな提燈を張り代へながら、極彩色で牡丹に唐獅子や、櫻のちらしなどをよく描いてゐた藁葺きの小店と、それと相對して同じ樣な生鼠壁の舊家が二つ並んでゐる。何れも魚問屋で右が醤油を造り、左が酒を造つた。その酒屋の、私は Tonka John(大きい坊ちやん、弟と比較していふ、阿蘭陀訛か。)である。して、隣は矢張り祖父時代に岐れた北原の分家で、後には醤油釀造を止した。
南町の私の家を差覗く人は、薊や蒲公英の生えた舊い土藏づくりの朽ちかゝつた屋根の下に、澁い店格子を透いて、銘酒を滿たした五つの朱塗の樽と、同じ色の桝のいくつかに目を留めるであらう。さうしてその上の梁の一つに、紺色の可憐な燕の雛が懷かしさうに、牡丹いろの頬をちらりと巣の外に見せて、ついついと鳴いてゐる日もあつた。土間は廣く、店全幅の藥種屋式の硝子戸棚には曇つた山葵色の紙が張つて、その中ほどの柱に阿蘭陀渡の古い掛時計が、まだ正確に、その扉の繪の、眼の青い、そして胸の白い女の横顏のうへに、チクタクと秒刻の優しい歩みを續けてゐた。その戸棚を開けると緑礬、硝石、甘草、肉桂、薄荷、どくだめの葉、中には賣藥の版木等がしんみりと交錯がつた一種異樣の臭を放つ。それはある漂浪者がこゝに來て食客をしてゐた時分密かに町の人に藥を賣つてゐたのが、逝くなつたので、そのまゝにしてあるといふ、舊い話であらう。
庭には無論朱欒の老木が十月となれば何時も黄色い大きな實をつけた。その後の高い穀倉に秋は日ごとに赤い夕陽を照りつけ、小流を隔てゝ十戸ばかりの並倉に夏の酒は濕つて悲しみ、温かい春の日のぺんぺん草の上に桶匠は長閑に槌を鳴らし、赤裸々の酒屋男は雪のふる臘月にも酒の仕込みに走り囘り、さうして街の水路から樋をくぐつて來るかの小さい流は隱居屋の涼み臺の下を流れ、泉水に分れ注ぎ、酒桶を洗ひ眞白な米を流す水となり、同じ屋敷内の瀦水に落ち、ガメノシユブタケ(藻の一種)の毛根を幽かに顫はせ、然るのち、ちゆうまえんだの菜園を一周囘して貧しい六騎の厨裏に濁つた澱みをつくるのであつた。そのちゆうまえんだはもと古い僧院の跡だといふ深い竹藪であつたのを、私の七八歳のころ、父が他から買ひ求めて、竹藪を拓き野菜をつくり、柑子を植ゑ、西洋草花を培養した。それでもなほ晝は赤い鬼百合の咲く畑に夜は幽靈の生じろい火が燃えた。
世間ではこの舊家を屋號通りに「油屋」と呼び、或は「古問屋」と稱へた。實際私の生家は此六騎街中の一二の家柄であるばかりでなく、酒造家としても最も石數高く、魚類の問屋としては九州地方の老舖として夙に知られてゐたのである。從て濱に出ると平戸、五島、薩摩、天草、長崎等の船が無鹽、鹽魚、鯨、南瓜、西瓜、たまには鵞鳥、七面鳥の類まで積んで來て、絶えず取引してゐたものだつた。さうして魚市場の閑な折々は、血のついた腥くさい甃石の上で、旅興行の手品師が囃子おもしろく、咽喉を眞赤に開けては、激しい夕燒の中で、よく大きな雁首の煙管を管いつぱいに呑んで見せたものである。
私はかういふ雰圍氣の中で何時も可なり贅澤な氣分のもとに所謂油屋の Tonka John として安らかに生ひ立つたのである。