一
大阪の町は寂しかった。
夜はもう三時を過ごしている、つまり時刻は真夜中であった。其時一人の労働者が力の無い足どりで歩いて来た。
「今日で俺は二日、飯を食わねえ、いつマア食物に有りつけるんだろう? 一寸先ぁ暗闇だ。何時ありつけるか知れたものじゃねえ。と為ると生命の問題だ! へ、人間て云う奴ァ屹度恐らく此様時に盗賊根性を起こすんだろうぜ。何しろ生命の問題だからな。死ぬか生きるかの問題だ。盗みをしなけりゃ食う事が出来ねえ。食う事が出来なけりゃ死んで了う。そうだくたばって了うのだ! ……くたばる! くたばる? へくたばり遊ばすのだ! おお、厭な事だ真平だ! ――死ぬのが厭なら食わなけりゃならねえ。が一体何うしたら食えるんだ? 東京、横浜、そして神戸――それから一昨日此町へ来たんだが、どこの工場でもお断りだ。実は今人減しの最中なんでね……何処も彼処も同じご托宣だ。そこで余り外見の好くねえ労働者の乾物っていう奴が、出来かかっていると云うものさね。――ところで此処は何処なんだろう?」
こんな事をブツブツ呟き乍ら、大きな建物の角を曲がり、左手の方へ歩いて行った。
彼の歩いて行く往来の右手に、運河と云ってもよいほどの大阪特有の堀割があって、対岸の大きな建物から、水面へ落す燈火の光が、虹のように美しく見えていたが、勿論飢えたる労働者には、綺麗だとも素晴らしいとも思われなかった。
三町あまりも歩いた時、堀割を越して向うへ行ける長い橋があったけれど、彼は渡ろうともしなかった。併し其辺は海の入口かして、プンと潮臭い生暖い風が、彼の鼻の辺を吹き過ぎたので、鳥渡ばかり小鼻を蠢かした。
「一体ここは何処なんだろう?……俺に執っちゃあ大阪は今度が初のお目見得なんだからな。何が何処にあるんだか解りァしねえ……、ああ本当に厭だ厭だ! 様子の知れねえ町の真中を、宿も取れずこんな夜中に、宛も無くウロウロ歩き廻わるなんて――おや、畜生、野良犬までが、迂散に思うかして吠え付きあがらあ」
往来は橋から左へ曲がるので、彼も道なりに左の方へよろめき乍ら歩いて行った。と又一つ橋がある。其橋を渡って少し行くと、洋館ばかりが立ち並んでいる寂しい寂しい街通へ出たが、もう此頃から彼の脚は彼の命令に従わなくなった。つまり歩けなくなったのである。
「脚まで俺を馬鹿にしてやがる!」
泣声で斯うは呟いたものの、偖他に為ようも無かったので、野宿の場所を探がし始めた。併し其辺には彼の意に適った思わしい隠場所も無かったので、命令を諾かない二本の脚を、無理に引擦って復た歩き出した。斯うして半町も行った頃、大きな建物の前へ出たが、もう其時は脚ばかりで無く、体も精神も疲れ果てて、歩こうにも足が出なかった。
「一体俺は何うなるんだ! ええ最う何うなろうと儘にしやがれ! おや、眼がグルグル廻わり出したぞ。や、胃の辺が痛み出した。このまま俺はお陀仏かな……」
斯う云い乍ら、大きな建物へ、彼はドシリと衝突った。
と、其処に鍵を掛け忘れた切戸でも開いていたと見えて、ギギーという幽な軌音と共に、其戸に背を持たせかけたまま彼の体は建物の中へ洵に自然に辷り込んだ。
彼はすっかり驚きもしたが、其拍子に精神が引締りもした。で彼は素早く眼を配って四辺の様子を窺った。其処は何うやら裏庭らしく桐の木が矗々と立っている。そして眼の前には大きな建物の入口らしいものが見えている。
「学校かな、それとも役所かな?」
呟き呟き近寄って行き、入口から内部を覗いて見た、長い廊下が通じている。薄暗い燈火が只一個廊下の一所に灯っている、そして廊下の左右には幾個かの部屋があると見えて扉に付いている白い取手が茫然と彼の眼に見えた。全体の様子が非常に陰気で人が居るとも思われない。
「愈々これは役所だ哩。まさか警察ではあるめえな。浮浪人が警察署へ飛び込むなんて余り気の利いた図じゃねえ」
彼は暫く考えていた。
その中に彼は眠くなった。そうして益々空腹になった。何より現在の彼に執っては、軟い寝所と温かい食物――何さ、冷でも結構であるが――この二つが必要であった。
「そこで」と彼は自問自答した「兎に角此処は役所に違えねえ。と為ると小使の爺さんぐらいは宿ってるに相違無え。で、お願いするんだね――爺さん誠に済まねえが、飯を一杯振舞ってくんな。掛値のねえところ今日で三日、何んにも俺食っていないんだ――すると、人のいい小使なら、おおきに其奴ァ気の毒だな、遠慮はいらねえ食べるがいい。別にご馳走はねえけれど鰹の刺身があったっけ……位いの事は云うかもしれねえ。一つ小使部屋を見つけるとしょうか」