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浅草風土記
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浅草風土記
久保田万太郎
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Nguyên bản Public Domain
Chapter 1 of 64

広小路

一

……浅草で、お前の、最も親密な、最も馴染のふかいところはどこだときかれれば、広小路の近所とこたえる外はない。なぜならそこはわたしの生れ在所だからである。明治二十二年、田原町で生れ、大正三年、二十六の十月までわたしはそこに住みつづけた。子供の時分みた景色ほど、山であれ、河であれ、街であれ、やさしくつねに誰のまえにでも蘇生って来るものはない。――ことにそれが物ごころつくとからの、わたしのような場合にあってはなおのことである。

田原町、北田原町、東仲町、北東仲町、馬道一丁目。――両側のその、水々しい、それぞれの店舗のまえに植わった柳は銀杏の若木に変った。人道と車道境界の細い溝は埋められた。(秋になるとその溝に黄ばんだ柳の葉のわびしく散りしいたものである)どこをみても、もう、紺の香の褪めた暖簾のかげはささない。書林浅倉屋の窓の下の大きな釜の天水桶もなくなれば、鼈甲小間物店松屋の軒さきの、櫛の画を描いた箱看板の目じるしもなくなった。源水横町の提燈やのまえに焼鳥の露店も見出せなければ、大風呂横町の、宿屋の角の空にそそる火の見梯子も見出せなくなった。――勿論、そこに、三十年はさておき、十年まえ、五年まえの面影をさえさし示す何ものもわたしは持たなくなった。「渋屋」は「ペイント塗工」に、「一ぜんめし」は「和洋食堂」に、「御膳しるこ」は「アイスクリーム、曹達水」に、おのおのその看板を塗りかえたいま。――そういっても、カフェエ、バア、喫茶店の油断なく立並んだことよ。――偶々むかし、ひょうきんな洋傘屋あって、赤い大きな目じるしのこうもり傘を屋上高くかかげたことが、うち晴れた空の下に、遠く雷門からこれを望見することが出来たといっても、誰も、もう、それを信じないであろう。しかくいまの広小路は「色彩」に埋もれている。強い濃い「光」と「影」との交錯に溺れている。――ということは、古く存在した料理店「松田」のあとにカフェー・アメリカ(いま改めてオリエント)の出来たばかりの謂いではない。そうしてそこの給仕女たちの、赤、青、紫の幾組かに分れている謂いでも勿論ない。前記書林浅倉屋の屋根のうえに「日本児童文庫」と「小学生全集」の厖大な広告を見出したとき、これも古い酒店さがみやの飾り窓に映画女優の写真の引伸しの貼られてあるのを見出したとき、そうして本願寺の、震災後まだかたちだけしかない裏門の「聖典講座」「日曜講演」の掲示に立交る「子供洋服講習会」の立札を見出したとき、わたしの感懐に背いていよいよ「時代」の潮さきに乗ろうとする古いその町々をはっきりわたしは感じた。――浅倉屋は、このごろその店舗の一部をさいて新刊書の小売をはじめたのである。さがみやもまたいままでの店舗を二つに仕切って「めりんすと銘仙」の見世を一方にはじめたのである。

が、忘れ難い。――でも、矢っ張、わたしにはその町々がなつかしい……

何故だろう?

そこには、仕出屋の吉見屋あって、いまだに、「本願寺御用」の看板をかけている。薬種屋の赫然堂あって、いまなおあたまの禿げた主人が、家伝の薬をねっている。餅屋の太田屋あって、むかしながらのふとった内儀さんがいつもたすきがけのがせいな恰好をみせている。――宿屋のふじや、やなぎや、鳥屋の鳥長、すしやの宝来、うなぎやの川松、瓦煎餅の亀井堂、軽焼のむさしや。――それらの店々はわたしが小学校へ通っていた時分と同じとりなしでいまなおわたしをつつましく迎えてくれるのである。――それらの店々のまえを過ぎるとき、いまもってわたしは、かすりの筒っぽに紫めりんすの兵児帯、おこそ頭巾をかぶった祖母に手を引かれてあるいていたそのころのわたしの姿をさびしく思い起すのである。――それは北風の身を切るような夕方で、暗くなりそめた中に、どこにももう燈火がちらちらしているのである。――眼を上げると、そこに、本願寺の破風が暮残ったあかるい空を遠く涙ぐましくくぎっているのである……

二

……広小路は、両側に、合せて六つの横町と二つの大きな露地とを持っている。本願寺のほうからかぞえて、右のほうに、源水横町、これという名をもたない横町、大風呂横町、松田の横町、左のほうに、でんぼん横町、ちんやの横町、――二つの大きな露地とは「でんぼん横町」の手前のさがみやの露地と、浅倉屋の露地とをさすのである。――即ち「さがみやの露地」は、「源水横町」に、「浅倉屋の露地」は、「名をもたない横町」に、広い往還をへだててそれぞれ向い合っているのである。

が、「源水横町」だの「名のない横町」だの「大風呂横町」だの「松田の横町」だの「でんぼん横町」だの、それらはすべてわたしの子供の時分には……すくなくもまだわたしの田原町にいた時分まではだれもそう呼んでいたのである。――嘗てそこに松井源水が住んでいたというのをもって源水横町、その横町が「大風呂」という浴場をもっていたのをもって大風呂横町、その右かどに料理店の「松田」をもっていたのをもって松田の横町(それはまた、その左かどに牛肉屋の「いろは」をもっていた理由でいろはの横町とも呼ばれた)――で、「でんぼん横町」とは「伝法院横町」の謂、「ちんやの横町」とは文字通りちんやの横町の謂である。そういえば誰でも知っている大衆向の牛肉屋「ちんや」の横町である。――由来はいたって簡単である。

このうちいま残っているのは「ちんやの横町」だけである。「ちんやの横町」という称呼だけである。浅倉屋の露地だのたぬきや横町だのに、行きつけのカフェエをもつほどのいまのそのあたりの人たちに「源水横町」といういい方は空しい響きをしかすでに与えなくなった。それと同時に「これという名をもたない横町」は「川崎銀行の横町」という堂々としたいいかたをいつかもつようになった。わたしのその町を去ったあと、それまでの際物問屋、漬物屋、砂糖屋その外一二けんを買潰して出来たのがその銀行である。いまでこそ昼夜銀行が出来、麹町銀行がまた近く出来ようとしているものの、いまをさる十二三年まえにあっては、そうした建物を広小路のうちのどこにももとめることが出来なかったのである。銀行といえば、手近に、並木通りの浅草銀行(後に豊国銀行)の古く存在するばかりだったのである。――「大風呂」のすでに失われた今日「大風呂横町」の名のいつかは昔がたりになるであろうとともに、「松田の横町」の「松喜の横町」と呼びかえられるであろう日のそう遠くないことを、カラリとした感じの、いち早く区画整理のすんだ、いままでより道幅の遥に広くなった往来のうえに決定的にそうわたしは感じた。――いままでの「松田の横町」は外の三つの横町のどこよりも暗く陰鬱だった。――「松喜」とは「いろは」のあとに出来たこれも大きな牛肉屋である。――そこに、ちんやと、すべてに於て両々相対している。……

その四つのそれぞれの横町について、これ以上巨密なふでを費すことをわたしはしないだろう。なぜならそれはいたずらにただわたしの感懐を満足させるにすぎまいから。ただ、わたしに、それらのほうぼうの横町で聞いた「はさみ、庖丁、かみそりとぎ」だの、「朝顔の苗、夕顔の苗」だの、定斎屋の鐶の音だの、飴屋のチャルメラだの、かんかちだんごの杵の音だの、そうしたいろいろの物音が、幾年月を経たいまのわたしの耳の底にはッきりなお響いている――それらの横町を思うとき、わたしの心はしぐれのような暗い雨にいつもぬれるのである……

三

ところで「でんぼん横町」である。いまではその「大風呂横町」に向合った横町を――三好野と三川屋呉服屋とを(かつてはそれが、下駄屋とすしやだった)その両角に持ったにぎやかな横町を「でんぼん横町」といわないのである。そういわないで「区役所横町」というのである。そうして伝法院の横の往来――その「区役所横町」の出はずれによこたわって仲見世と公園とを結びつけているむかしながらの狭い通りを「でんぼいん横町」(「でんぼん横町」とよりはやや正しく)と、いまではそう呼んでいるのである。

その「区役所横町」(最近までわたしはそれを承服しなかった。強情にわたしは「でんぼん横町」といいつづけた。が、たまたまわたしと同年配の、それこそ「珍世界」の太鼓をたたく猿の人形も知っていれば、電気館のあごなしの口上いいもよくおぼえているさる人の、躊躇なくそこを「区役所横町」と呼びなしているのを聞いてわたしは我を折った。「区役所横町」では身につかない感じだがやむを得ない)を入ってすぐのところに、以前共同廁のあったことをいっても、おそらくだれもその古い記憶をよび起すのに苦しむだろう。それほど、整った、美しい、あかるい店舗の羅列をその両側がもつにいたったのである。ことにその下総屋と舟和との大がかりな喫茶店(というのは、もとよりあたらない。といっても、そもそもの、ミツマメホールというのもいまはもうあたらない。ともにその両方のガラスの球すだれを店さきに下げたけしき――この頃の暑さにむかってのその清涼なけしきがいまはまれにしかみられない「氷店」といった感じをわたしに与えるのである)のすさまじい対立は「新しい浅草」の繁栄とそれに伴う無知なよろこびとをいさましく物語っている。――下総屋は「おかめ」の甘酒から、舟和は芋羊羹製造から、わずかな月日の間に、いまのようなさまにまでそれぞれめざましく仕出したのである。

……が、仕出したということになると、わたしの十二三の時分である、前章に書いた川崎銀行の角、際物師の店の横にめぞッこ鰻をさいて焼く小さな床見世があった。四十がらみの、相撲のようにふとった主人が、年頃の娘たちと、わたしより一つ二つ下のいたずらな男の子とを相手に稼業していた。外に、みるから気の強そうな、坊主頭の、その子供たちにおじいさんと呼ばれていた老人がいたが、そのうちどうした理由かそこを止し、広小路に、夜、矢っ張その主人が天ぷらの屋台を出すようになった。いい材料を惜しげもなく使うのと阿漕に高い勘定をとるのとでわずかなうちに売出し、間もなく今度は、いまの「区役所横町」の徳の家という待合のあとを買って入った。――それがいまの「中清」のそもそもである。

ついまだそれを昨日のようにしかわたしは思わないが、広小路のあの「天芳」だの仲見世の「天勇」だののなくなったいま、古いことにおいてもどこにももう負けないであろう店にそのうちはなった。が、そこには、その横町には、さらにまたそれよりも古い「蠣めし」がある ――下総屋と舟和をもし、「これからの浅草」の萌芽とすれば、「中清」だのそこだのは「いままでの浅草」の土中ふかくひそんだ根幹である……

四

「ちんやの横町」のいま「聚楽」というカフェエのあるところは「新恵比寿亭」という寄席のもとあったところである。古い煉瓦づくりの建物と古風なあげ行燈との不思議な取合せをおもい起すのと、十一二の時分、たった一度そこで「白井権八」の写し絵をみた記憶をもっているのとの外には、その寄席について語るべき何ものもわたしはもっていない。なぜなら、そこは、わたしが覚えて古い浪花ぶしの定席だったからである。――その時分わたしは、落語も講釈も義太夫も、すべてそうしたものの分らない低俗な手合のみの止むをえず聞くのが浪花ぶしだとおもっていた。そう思ってあたまからわたしは馬鹿にしていた。――ということはいまでも決してそうでないとはいわない……

(ついでながら、わたしの始終好きでかよった寄席は「並木亭」と「大金亭」だった。ともに並木通りにあって色もの専門だった。――色もの以外、講釈だの浄瑠璃だのとはごくまれにしか足ぶみしなかったわたしは、だから、吾妻橋のそばの「東橋亭」、雷門の近くにあった「山広亭」、「恵比寿亭」、そうした寄席にこれという特別の親しさをもっていなかった――が「山広亭」、「恵比寿亭」とおなじく、いまはもう「大金亭」も「並木亭」も、うちよせた「時代」の波のかなたにいつとはなしすがたを消した。残っているのは「東橋亭」だけである。)

いまでこそ「聚楽」をはじめ「三角」あり、「金ずし」あり、「吉野ずし」あり、ざったないろいろの飲食の場所をそこがもっているが、嘗ては、はえないしもたやばかりの立並んだ間に、ところどころうろぬきに、小さな、さびしい商人店――例えば化粧品屋だの印判屋だのの挟まった……といった感じの空な往来だった。食物店といってはその浪花節の寄席の横に、名前はわすれた、おもてに薄汚れた白かなきんのカーテンを下げた床見世同然の洋食屋があるばかりだった。――なればこそ、日が暮れて、露ふかい植木の夜店の、両側に、透きなくカンテラをともしつらねたのにうそはなかった。――植木屋の隙には金魚屋が満々と水をみたした幾つもの荷をならべた。虫屋の市松しょうじがほのかな宵闇をしのばせた。燈籠屋の廻り燈籠がふけやすい夏の夜を知らせがおに、その間で、静かに休みなくいつまでもまわっていた。……

「さがみやの露地」「浅倉屋の露地」ともにそれは「広小路」と「公園」とをつなぐただ二つの……という意味は二つだけしかないかなめのみちである。そうして「さがみやの露地」には、両側、すしや、すしや、すしや……ただしくいえば天ぷら屋を兼ねたすしやばかり目白押しに並んでいる。まぐろのいろの狂瀾のかげにたぎり立つ油の音の怒濤である。――が、嘗てのそこは、入るとすぐおもてに粗い格子を入れて左官の親方が住んでいた。その隣に「きくもと」という待合があった。片っぽの側には和倉温泉という湯屋があり煙草屋を兼ねた貸本屋があった。

……そこで、一段、みちが低くなった。

あとは、両側とも、屋根の低い長屋つづき、縫箔屋だの、仕立屋だの、床屋だの、道具屋だの、駄菓子屋だの、炭屋だの、米屋だの……あんまり口かずをきかない、世帯じみた人たちばかりが何のたのしみもなさそうに住んでいた。――と、わたしは、その露地のことを七八年まえ書いたことがある。――が、そのときはまだ和倉温泉はあった。かたちだけでもいま残っているのはその途中にあるお稲荷さまの祠だけである。

で、「浅倉屋の露地」は――「公園劇場近道」の下に「食通横町」としたいまのその露地は……

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