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浅草風土記
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浅草風土記
久保田万太郎
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Chapter 2 of 64

仲見世

一

……わたしは、小学校は、馬道の浅草小学校へかよった。近所にいろいろ小川学校だの青雲学校だのといった代用学校があり、田原町、東仲町界隈のものは、みんなそれらの「私立」へかようのをあたりまえとしたが、わたしは長崎屋のちゃァちゃん(いまも広小路に「長崎屋」という呉服屋は残っている。が、いまのは、わたしの子供の時代のとは代を異にしている。もとのそのうちは二十年ほどまえ瓦解した。その前後のゆくたてに花ぐもりの空のようなさびしさを感じて、いつかはそれを小説に書きたいとわたしはおもっている)という子と一しょに、公立でなければという双方の親たちの意見で、遠いのをかまわずそこまでかよわせられた。――浅草学校は、浅草に、その時分まだ数えるほどしかなかった「市立」のうちの最も古いものだった。

毎日、わたしは、祖母と一しょに「馬車みち」――その時分まだ、東京市中、どこへ行っても電車の影はなかったのである。どこをみても「鉄道馬車」だったのである。だからわたしたちは「電車通り」という代りに「馬車みち」といった。東仲町の今電気局のある所に馬車会社があったのである。――を越して「浅倉屋の露地」を入った。今よりずっと道幅の狭かったそこは、しばらく両側に、浅倉屋の台所口と、片っぽの角の蕎麦屋の台所口との続いたあと、右には同じく浅倉屋の土蔵、左には、表に灰汁桶の置かれてあるような女髪結のうちがあった。土蔵のつづきに、間口の広い、がさつな格子のはまった平屋があった。出羽作という有名なばくちうちの住居だった。三下が、始終、おもてで格子を拭いたり水口で洗いものをしたりしていた。――ときには笠をもった旅にんのさびしいすがたもそのあたりにみられた。

道をへだてて井戸があり、そばに屋根を茅で葺いた庵室といったかたちの小さなうちがあった。さし木のような柳がその門に枝を垂れ、おどろに雑草がそのあたりを埋めていた。――と、いま、ここにそう書きながら、夏の、ぎらぎらと濃い、触ったらベットリと手につきそうな青い空の下、人あしの絶え、もの音のしずんだ日ざかりの、むなしく白じらと輝いた、でこぼこに石を並べたその細いみちをわたしは眼にうかべた。駄菓子屋のぐッたりした日よけ、袋物屋の職人のうちの窓に出したぽつんとした稗蒔……遠く伝法院の木々の蝉が、あらしのように、水の響きのようにしずかに地にしみた。――その庵室のようなうちには、日本橋のほうの、小間物問屋とかの隠居が一人寂しく余生を送っていた。

出羽作の隣は西川勝之輔という踊りの師匠で、外からのぞくと、眼尻の下った、禿上った額の先代円右に似たその師匠が、色の黒い、角張った顔の細君に地を弾かせ、「女太夫」だの「山がえり」だの「おそめ」だのを、「そら一ィ二ゥ三ィ……ぐるりとまわって……あんよを上げて……」と小さい子供たちにいつも熱心に稽古していた。――それに並んで地面もちの、吉田さんといううちの、門をもった静かな塀がそのあとずっと出外れまでつづいていた。――子供ごころに、いまに自分もそうした構えのうちにいつかは住みたいとそこを通る毎しばしばそうわたしは空想した。商人のうちに生れたわたしたちにとって門のある住居ほど心をそそるものはなかった。

……「浅倉屋の露地」を出抜けたわたしはそのまま泥溝にそって公園の外廓を真っすぐにあるいた。いまのパウリスタの角を右に切れて――その左っ角に大鹿という玉ころがしがあった――いうところのいまの「でんぼいん横町」を「仲見世」へ出たのである。

二

……と、簡単にそういってしまえばそれだけである。が、片側「伝法院」の塀つづき、それに向いてならんだ店々だから、下駄屋、小間物屋、糸屋、あるへい糖を主とした菓子屋、みんな木影を帯び、時雨の情をふくんで、しずかにそれぞれ額をふせていた。額をふせて無言だった。――それには道の中ほどに、大きな榎の木あって逞しい枝を張り、暗くしッとりと日のいろを……空のいろを遮いていた。――その下に古く易者が住んでいた。――いまの天麩羅屋「大黒屋」は出来たはじめは蕎麦屋だった。

したがってそこへ出る露店も、しずかにつつましい感じのものばかりだった。いろは字引だの三世相だのを並べた古本屋だの、煙草入の金具だの緒締だのをうる道具屋だの、いろいろの定紋のうちぬきをぶら下げた型紙屋だの。――ときに手品の種明しや親孝行は針のめど通し……そうしたものがそれらの店のあいだに立交るだけだった。だから、それは、「仲見世」に属して、そこと「公園」とを結びつける往来とよりも、離れて「伝法院」の裏通りと別個にそういったほうが、より多くそこのもつ色彩にふさわしいものがあった。――と同時に「伝法院」の裏門がもとはああしたいかめしいものではなかった。いまの、もっと、向って右よりに、屋根もない「通用門」といった感じの、ごくさびしい雑な感じのものだった。

が、それはひとりその往来ばかりでなかった。「仲見世」のもつ横町すべてがそうだった。雷門を入ってすぐの、角にいま「音羽」という安料理屋のある横町、次の、以前「天勇」の横町といった、角にいま「金龍軒」という西洋料理のある横町、そのつぎの、以前「共栄館」の横町と呼ばれた、いまその角に「梅園」のある横町、右へとんで蕎麦屋の「万屋」の横町――それらの往来すべてがつい十四五年前まで、おかしいほど「仲見世」の恩恵をうけていなかったのである。お前はお前、わたしはわたし、そういったかたちにわかれわかれ、お互が何のかかわりも持たず、長い年月、それでずっとすごして来たのである。――そのうち「金龍軒」の横町にだけは、「若竹」だの、「花家」だの、「みやこ」だのといった風の小料理屋がいろいろ出来、それには「ちんや横町」を横切って「区役所横町」まで、その往来の伸びている強味がそこをどこよりも早く「仲見世」と手を握らせた。でも、そこに、いまはどこへ行ってもあんまりみかけない稼業の刷毛屋があり、その隣にねぼけたような床屋があり、その一二けん隣に長唄の師匠があって、癇高い三味線の音をその灰いろの道のうえに響かせていたのを、昨日のことのようにしかわたしはおもわない。後にそのならびに出来た洋食屋の「比良恵軒」、九尺間口の、寄席の下の洋食屋同然に汚かったその店は、中学の制服を着立てのわたしに、「カツ」だの「テキ」だの「カレエ」だのと称するものの「やっこ」のいかだ「中清」のかき揚以上に珍味なことをはじめて教えてくれた店である。――その時分、その近所、「浅草銀行」の隣の「芳梅亭」以外、西洋料理屋らしい西洋料理屋をどこにももっていなかったのである。「音羽」の横町には格子づくりのおんなじ恰好のしもたやばかり並んでいた。正月の夜の心細い寒行の鉦の音がいまでもわたしをその往来へさそうのである。――「梅園」の横町については嘗てそこに「凧や」のあったことを覚えている。よく晴れた師走の空がいまでもわたしにその往来の霜柱をおもわせるのである。――どこもともにけしきは「冬」である。

で、「万屋」の横町は……

……道草をくってはいけない、わたしはいま学校へ行く途中である。

三

角、「たつみ食堂」と称するもののいまあるところに「梅園館」という勧工場があった。――そこを「仲見世」へ出たわたしは、そのまま左へ仁王門のほうへ道をとった。その時分からあったのがいまの「大増」の手まえを木深く奥へ入った「大橋写真館」である。「大増」のところには、その時分、浅草五けん茶屋の一つにかぞえられた「万梅」があった。……とだけでは何のこともない、いまも立ちならぶ大きなあの榎のかげに、手堅い、つつましい、謙遜な、いえばおのずからそれが江戸まえの、ぬばたまのくろ塀をめぐらしたその表構えが「古い浅草」のみやびと落ちつきとをみせていた。そこの石だたみだけつねにしぐれている感じだった。――ことにはそこに、その榎の下に、いつも秋早くから焼栗の定見世の出ることが、虧けそめた月の、夜長、夜寒のおもいを一層ふかからしめた。――「仲見世」というところはときにそうした表情をもつところだった。

その後、「万梅」は、公園の中「花やしき」の近くに越して、そのころ「仲見世」に勢力を張っていた牛肉屋の「常盤」がそのあとをうけついだ。そうして「奥の常盤」という名称で営業をつづけた。……といっても、それは、そうした事業家らしい料簡の、そのなつかしいおもてつきの一部を改築して簡易な食堂をこしらえたり、湯滝をはじめたり、花壇を設備したりした。そうしていままでよりも広い世界の客をさそおうとした。――とくに「奥の常盤」と呼んだのは、それ以外「雷門の常盤」だの「中の常盤」だのというおなじ店のいろいろそこに存在したからである。

それほどさかった「常盤」もだんだんその影がうすくなった。どの店のおもてにも秋風がふいてすぎた。――そうしたとき、その「奥の常盤」を、ありがたちのまま引きうけたのがいまの「大増」である。――そのうちも、その以前、「今半」のならびにもう一けん店をもっていた。そうしてそれは地震まえまで残っていた。――だから、かつては「奥の大増」と、とくにやっぱりそこをそう呼んだのである……

そんなことはどうでもいい、それよりも、そこの「万梅」の時分、いまの木村屋のところが「写真屋」だったのである。東京名所だの役者だのの写真をうる店だったのである。――いかに夢中で、吉右衛門だの、小伝次だの、宗之助だの、当時浅草座出勤少年俳優の写真をわたしは買込んだことだろう。そのまえを通れば必ずわたしは祖母をせがんだ。――いうまでもなく絵葉書のまだ出来ない時代である。――絵葉書の出来たのはそのあと六七年たってからである。

……その「写真屋」(その店の名まえを忘れたのは残念である)の角をしるこやの「秋茂登」のほうへ曲り、「岡田」の屋根の両方のはじにくッついた鯛の装飾をみながら弁天山の裾をまわり、いまは酒やになった米屋の角を馬道の往来へ出ると、学校のまえの銀杏の梢がすぐもうそこにみえたものである。わたしの足はおのずと早くなった。――そのころ、浅草学校、いまのようにまだ味噌屋の「万久」の通りに門をもっていなかった。――宿屋の「釜屋」のならびにいまの半分もない小さな門しかもっていなかった。――ということは、だから、その門の方を向いて教場の窓からみると、その銀杏の梢のかげに、五重の塔の青い屋根が絵のようにいつもくっきり浮んでいた。

四

「旧雷門のありしところより仁王門に至る間、七十余間を仲見世といふ。道幅五間余を全部石にて敷きつめ、両側に煉瓦造りの商店百三十余戸あり。もとこの地は浅草寺支院のありしところにて左右両側各六院ありき。その仁王門に近きところには茶店ありて二十軒茶屋と称したりき。明治維新後、支院は或は移り或は絶えて、そのあとには露店など並びしが、今の店は、明治十八年十二月、東京市によりて建設せられたるものなり。仲見世各商店は一棟を数戸に分割し、間口九尺奥行も亦それ以上に出でざるを以て内部の狭隘はいふばかりなく、出店商人は夜間は店を鎖してうちに帰り、翌日また弁当を持ちて通ひ来たる有様なり。然れどもこの仲見世は公園内の最も繁昌するところにて、凡そ観音に参詣するものは、家へのみやげ物は大抵こゝにて買求むるを以て日々の商売額甚だ多きを以て出店を希望するもの多く、多額の金円をいだすにあらざれば容易にその店株を得る能はず、場所によりては三百円以上に達するものありといふ」と明治四十三年に出た『浅草繁昌記』という本の「仲見世」を説明したくだりに書いてある。明治四十三年といえばいまから十七年まえである。わたしの慶應義塾予科二年のときである。が、それにしてもその株の売買価の三百円は相場でなさすぎると思って、友人伊藤貫一君にこれを質した。伊藤君は、仲見世入ってすぐの角の清水屋書店の主人である。「そんなことはありません、その時分でもその五倍や六倍はしました」と伊藤君はいった。「では、いまは、その十倍位になっていますか」とわたしは聞いた。伊藤君は笑ってこたえなかった。

その代り、伊藤君、いろいろそこについて参考になることを聞かせてくれた。たとえばもとの煉瓦づくりの時分、九尺だった間口が今度の奈良朝づくりになってから平均八尺(というのは中には七尺八寸のところもあるのだそうである)になったことや、各戸その一けん一けん一トこま二タこまという呼び方をしていることや、総々でそれが百四十七こま九十九世帯あることや、震災を助かっていまなお以前の「仲見世」の名残をとどめている仁王門のそばの七けんに「新煉瓦」という名称のついていることや、物日なんぞ人の出さかるときは東側にいて西側の店の見えないことや、等、等、等、――まさかいちいち書き留めるわけにも行かないからぼんやりした顔でわたしはそれらを聞いていた。

が、いまわたしが昔ながら(わたしにとってはそうである)の「仲見世」を通って感じることは絵草紙屋のすくなくなったことである。(そのなかで最も大きかった清水屋……伊藤君のその店にしていまでは「中央公論」「改造」を二三百ずつもさばく書店になってしまったのである)豆屋、紅梅焼屋の以前のように目につかなくなったことである。(数のうえでも豆屋は絵草紙屋とともにすくなくなった)「木村屋」を真似た名所焼の店のほうぼうに出来たことである。――そうして「武蔵屋」が衰え「伊勢勘」のさかえたことである……

由来そこは外のほうぼうの霊場がもつようなことさらな「名物」はもっていなかった。「煎豆」があり、「紅梅焼」があり、「雷おこし」があったといっても、それらは直接「観音さま」に関聯する何ものも持たなかった。それはただ「仲見世」あるいは「雷門」附近をえらんで店舗をもつにすぎなかった。――と、たまたまパン屋の「木村屋」あって「名所焼」を売りはじめた。わたしの記憶にもしあやまりがなければ、いまから十五六年まえのことである……

Chapter 2 of 64
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