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雷門以北
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雷門以北
久保田万太郎
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Chapter 8 of 15

仲見世(四)

『旧雷門のありしところより仁王門に至る間、七十余間を仲店といふ。道幅五間余を全部石にて敷きつめ、両側に煉瓦造りの商店百三十余戸あり。もとこの地は浅草寺支院のありしところにて左右両側各六院ありき。その仁王門に近きところには茶店ありて二十軒茶屋と称したりき。明治維新後、支院は或は移り或は絶えて、そのあとには露店など並びしが、今の店は、明治十八年十二月、東京市により建設せられたるものなり。仲見世各商店は一棟を数戸に分割し、間口九尺奥行も亦それ以上に出でざるを以て、内部の狭隘はいふばかりなく、出店商人は夜間は店を鎖してうちに帰り、翌日また弁当を持ちて通い来たる有様なり。然れどもこの仲見世は公園内の最も繁昌するところにて、凡そ観音に参詣するものは、家へのみやげ物は大抵こゝにて買求むるを以て日々の商売額甚だ多きを以て出店を希望するもの多く、多額の金円をいだすにあらざれば容易にその店株を得る能はず、場所によりては三百円以上に達するものありといふ。』と明治四十三年に出た「浅草繁昌記」という本の「仲見世」を説明したくだりに書いてある。明治四十三年といえばいまから十七年まえである。わたしの慶応義塾予科二年のときである。が、それにしてもその株の売買価の三百円は相場でなさすぎると思って友人伊藤貫一君にこれを質した。伊藤君は、仲見世入ってすぐの角の清水屋書店の主人である。「そんなことはありません、その時分でもその五倍や六倍はしました」と伊藤君はいった。「では、いまは、その十倍になっていますか」とわたしは聞いた。伊藤君は笑ってこたえなかった。

その代り、伊藤君、いろ/\そこについて参考になることを聞せてくれた。たとえばもとの煉瓦づくりの時分九尺だった間口が今度の奈良朝づくりになってから平均八尺(というのは中には七尺八寸のところもあるのだそうである)になったことや、各戸その一けん/\を一トこま二タこまという呼び方をしていることや、総々でそれが百四十七こま九十九世帯あることや、震災を助かっていまなお以前の「仲見世」の名残をとどめている仁王門のそばの七けんに「新煉瓦」という名称のついていることや、物日なんぞ人の出さかるときは東側にいて西側の店の見えないことや、等、等、等。――まさかいち/\書き留めるわけにも行かないからぼんやりした顔でわたしはそれらを聞いていた。

が、いまわたしが昔ながら(わたしにとってはそうである)の「仲見世」を通って感じることは絵草紙屋のすくなくなったことである。(そのなかで最も大きかった清水屋……伊藤君のその店にしていまでは「中央公論」「改造」の二、三百ずつもさばく書店になってしまったのである)豆屋、紅梅焼屋の以前のように目につかなくなったことである。(数のうえでも豆屋は絵草紙屋とともにすくなくなった)「木村屋」を真似た名所焼の店のほう/″\に出来たことである。――そうして「武蔵屋」が衰え「伊藤勘」のさかえたことである……

由来そこは外のほう/″\の霊場がもつようなことさらな「名物」はもっていなかった。「煎豆」があり、「紅梅焼」があり「雷おこし」があったといっても、それらは直接「観音さま」に関連する何ものも持たなかった。それはただ「仲見世」あるいは「雷門」附近をえらんで店舗をもったにすぎなかった。――と、たま/\パン屋の「木村屋」あって「名所焼」を売りはじめた。――わたしの記憶にもしやあやまりがなければ、いまから十五、六年まえのことである……

Chapter 8 of 15
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