第十章
読者には先刻お馴染の、この市の慈父であり恩人であるところの警察部長の邸に集まった役人連は、ゆくりなくも、重なる不安と焦燥からげっそり痩せ細った顔を、互いに見合わせた。事実、新らしい地方総督の任命と、あのような重大な内容をもった報告の到着と、何が何やらさっぱり訳の分らない例の風説とが一緒になって、彼等の顔にまざまざと苦労の跡を刻みつけ、多くの者の燕尾服は眼に見えてゆるくなっていた。誰も彼もがげっそり憔悴してしまって、裁判所長も痩せ、医務監督も痩せ、検事も痩せ、またいつもただセミョン・イワーノヴィッチと呼ばれて決して姓を呼ばれたことのない、人差指に大きな指輪をはめて、それを婦人連に見せびらかしてばかりいる男までが、げっそりと痩せ細っていた。中には勿論、どこにもよくあるように、いっこう平気でビクビクしない手合いもあるにはあったが、それは極めて少数で、実は郵便局長一人きりであった。彼だけは相変らずの泰然自若たる態度を少しも変えず、こんな場合にも、いつもの癖で、『我々はあなた方のことはちゃんと知っておりますよ、総督さん! あなた方は三人も四人も更迭なさることでしょうがね、私なんざあ、もう三十年も同じ職についていますからね。』などと言い言いした。それに対して他の役人どもは、こう言って応酬したものである。『そりゃ君はいいさ、シュプレヘン・ジイ・ドイッチェのイワン・アンドレーイッチ。君の携わっている郵便事務ってやつは、郵便物を受附けて発信するだけのことだからさ。インチキをやるといったところで、締切を一時間も繰りあげて、それに遅れて来た商人から書信の時間外取扱料をせしめたり、規定に反した小包を差出したりする位のものだから、無論、涼しい顔もしていられる訳さ。とにかく君は、いつも悪魔を袖の下に潜ませているんだから、自分で取らないつもりでも、悪魔がちゃんと押しこんでおいてくれるって訳さ。君は実際うまくやってるよ、何しろ子供だって一人きりでさ。だがプラスコーヴィヤ・フョードロヴナはああいう羨ましい体格をしているのだから、また一年もたてば姙って、男の子か女の子を生むよ。そうなった暁には、あまり暢気なことも言っていられまいぜ。』役人連はこんな風に言ったけれど、実際、悪魔の誘惑に打ち克つことが出来るかどうか――それは作者のかれこれ言うべき筋合いではない。さてここに開かれた集会には、一般の民衆のあいだで分別といわれている最も肝要なものの欠けていることが著しく眼についた。一体我々はどうも会議というものには不向きな国民である。下は村の百姓どもの寄合いから、上はいろんな学会や委員会などに至るまで例外なしに、我々ロシア人の集会というやつは、ちゃんと一同を統制する主脳部が存在しない限り、きっと飛んでもない混乱におちいってしまうものである。一体どうしてそうなのか、ちょっと説明に困るが、どうやらこの国の人たちは、ただ飲んだり騒いだりするために催される、つまりドイツ流の倶楽部や停車場の酒場でやる集まり以外には、どうもぴったり合わないらしい。が、いつも心掛だけは殊勝で、どんな会合にものこのこ集まって来る。我々はすぐに、おいそれと慈善団体だの、後援会だの、その他いろんな会を拵らえる。主旨はなかなか素晴らしいのだが、そのくせ何ひとつ結果は生まれないのだ。これは多分、我々が初めだけは有頂天になって、能事おわれりと考えるところから生ずるのであろう。例えば、貧民救済のために慈善団体の設立をもくろみ、相当巨額の金を集めると、さっそく我々はこうした美挙を記念するために、市の高位高官連を残らず午餐会に招待する、無論それで集めた拠金の大半は費えてしまい、残りの半分では、取りあえず委員会用に、暖房装置と守衛のついた堂々たる家を借りる。そうすると、貧民救済のためには、たかだか五ルーブリ半ぐらいしか残らないことになる。しかもその金額の割当てについて、会員同士のあいだに意見が対立し、みんながめいめい勝手に自分の親戚縁者を被救護者に推挙するのである。ところが、きょう催された会合は、全然それとは趣きを異にしていた。つまり必要にさし迫って開かれたもので、ここでは貧民などといった第三者のことは問題ではなく、すべての役人の一身上に直接影響する問題が起こっているのである。一同を等しく脅やかす災厄が問題となっているのである。従って、否応なく一致協力し、緊密に結束しなければならない筈である。だが、それにも拘らず、飛んでもない事になってしまったのである。どんな会合にも附きものの、各自の見解の相違はともかくとして、ここに集まった連中の意見は、何かしら妙に不可解なほど矛盾を曝け出していた。或る者は、チチコフを帝国紙幣の偽造者だと言っておきながら、すぐその後で、『しかし、ひょっとすると、そんな犯人ではないかも知れない』と附け足した。また或る者は、彼を地方総督庁に属する役人だと断言しながら、その舌の根の乾かぬ先きに、『だが、何だか分ったものじゃないさ、額にちゃんとそう書いてあるわけじゃなし』と遁辞をかまえたものである。彼が化の皮をかぶった強盗であるという臆測には皆がみな頭から反対して、自然に彼のそなえた上品な風采にも増して、彼の話しぶりには、そんな兇行を敢てするような人間と思われるふしが少しもないと言った。この時、数分のあいだ何か物思いに耽っていた郵便局長が、不意に霊感でも受けたのか、それとも何か他に原因があったのか、突然思いがけないことを叫び出した。『諸君、あれを誰だと思います?』こういった彼の声には何かしら人の心を震えあがらせるような響きがこもっていたので、一座の者は思わず、『じゃあ、いったい誰だね?』と一斉に叫び出さずにはいられなかった。『あれは、諸君、てっきりコペイキン大尉に違いありませんよ!』――そこで一同が異口同音に、『一体そのコペイキン大尉というのは何者です?』と訊ねると、郵便局長は、『では、諸君はコペイキン大尉が何者だか御存じないのですか?』と言った。
一同は、コペイキン大尉が何者だか少しも知らないと答えた。
「そのコペイキン大尉というのはね、」と郵便局長は、誰かそばから他人が指を突っこむのを恐れて、自分の嗅煙草入れの蓋を半分だけひらきながら、言った。――というのは、彼は他人の指を決して清潔なものと思うことが出来ず、常々、『あんた方はどんなものでも指でいじくりなさるけれど、煙草というやつは不浄を嫌いますからね。』などと、つけつけ言うほどであったからだ。さて、「そのコペイキン大尉というのはね、」こう彼は、先ず嗅煙草を一服やってから、繰りかえした。「だがしかし、これを諸君にお話したものなら、それこそ、そんじょそこいらの小説家はだしの、とても面白い一篇の叙事詩になりますからなあ。」
その場にいた一同の者は口をそろえて、是非その話を、つまり郵便局長のいわゆるそんじょそこいらの小説家はだしのとても面白い一篇の叙事詩というやつを聞かせて貰いたいとせがんだ。そこで彼は徐ろに語りはじめた。
コペイキン大尉の物語
「ね、*1十二年の役の直後のことですよ、君。」と、その部屋には話相手が一人だけではなくて六人もいたのに、郵便局長はこんな調子で話しだしたものである。「十二年の役の直後に、他の負傷兵と一しょにコペイキン大尉も故国へ送還されてきたのです。どうも尻の落ちつかぬ、恐ろしく気随気儘な男で、しじゅう営倉へ入れられたり、監禁されたりで――実にいろんな目にあってきたんですがね。*2クラースヌイの戦いか、*3ライプツィッヒの戦いで、片手と片足を失ったんです。ところが、その頃はまだ負傷兵を救済する何等の法令も定まっていなかったのでしょう。あの癈兵の年金というものが制定されたのは、それからずっと後のことですからねえ。そこでコペイキン大尉は働かにゃならんと考えたのですが、どうでしょう、残っているのは左手一本きりなんですよ。家へ帰って父親に相談してみると、父親は、『わしにはとてもお前を養うことは出来ない』って言うのですよ。『自分の口を養うだけがかつかつなんだから』ってね。そこで君、コペイキン大尉は、これは一つペテルブルグへ出かけて、自分はこれこれの次第で、いわば一命を捧げて君国のために血を流したのだが、何分の扶助を願われまいものかと、関係当局に奔走してみることにしたのです……。で、君、まあ荷馬車か御用運送車の厄介にでもなって、やっとのことでペテルブルグまで辿りついたという訳ですよ。まあ何とか一つ想像してみて下さい、つまりそのコペイキン大尉は、あの、いわばこの世に二つとない首都へひょっこり姿をあらわしたのです! 急に彼の面前にぱっと光りがさしたのです、つまり人生の活舞台が現われたのです。あのアラビヤン・ナイトの*4シェヘラザーダがひょっこり顔を出したというわけなんです。そうでしょう、いきなりあのネフスキイ通りや、あの素晴らしいゴローホワヤ街や、それからリテイナヤ街が現われたんですからねえ。高い高い尖塔が空にそびえており、橋梁はまるで神業のように、全然脚柱というものなしに架っている、つまり*5セミラミーダの天の浮橋そっくりなんですよ、君! そこで先ず部屋を借りようとして方々あたって見たのだが、それがまた恐ろしく高いのです。窓掛といい、捲上げカーテンと云い、絨氈といい、まるでペルシアへでも行ったようなんで……一口にいえば、惜気もなく、ふんだんに金がかけてあるという訳です。街をあるいていても、鼻につくのは何千何万という大金の匂いばかり。ところが、わがコペイキン大尉の懐ろにある全財産といえば、せいぜい*6青紙幣が十枚に、銀貨で小銭が少しばかりという心細さ……。こんなはした銭では小村一つ買えませんからね、村を買うには四万ルーブリも積まなきゃなりませんが、四万ルーブリといえば、フランスの王様にでも貸して貰うより他はないという始末。そこで、一日一ルーブリのレーヴェリとかいう安宿に泊って、食事は玉菜汁と敲いた牛肉一切れだけで済ますことにした……。だが、いつまでもそんなことはしていられないと思ったのです。そこで彼は、一体どこへ訴え出たものかと人に訊ねてみたのです。すると、『さあ、どこへ訴えたものでしょうねえ?』と、人々は答えたものです。『なにしろ今は、最高機関が首府にいないんですからね。』つまり、最高機関はパリにいたという訳です、軍がまだ帰っていなかったのです。ところが中に、『臨時委員会が出来ていますよ。一つ掛合って御覧なさい、何とか取計らってくれるかもしれませんから』という人があったのです。『じゃあ一つそこへ行ってみましょう』と、コペイキンはそれに応じたのです。『そして、これこれで国家のために血を流して、いわば、己れの生命を犠牲にしたのだと陳情します。』そこで、君、彼はいつもより早目に起きて、床屋なんかへ行っては金がかかるという訳で、左手で鬚を剃って、軍服をひっかけると、不自由な義足をたよりに、その臨時委員会の主事の許へ出かけて行ったのです。主事の住いはと訊くと、『あの、海岸通りの家だ』と教えられた。行ってみると素敵もない邸で、窓にはめてあるガラスなどは、考えても御覧なさい、一間半もある鏡ガラスでしてね、ふんだんに大理石を使ったり、漆を塗ったりしてあって、ねえ、君……一口にいえば、頭がぼうっとなるくらいなんで。扉についている金属製の把手なども、実に素晴らしいものだったから、そいつを掴むには、先ず第一に店へ駈けつけて、石鹸を二銭がとこも買って、ものの一二時間もそれで手を洗い浄めてからでなくては、気が咎めるといった代物。玄関には鉾を持った門番が一人立っていたが、そいつが、まるで伯爵みたいな面がまえで、バチスト麻のカラーをつけているところは、何のことはない、ブクブク肥らされた狆にそっくりなんでね……。我がコペイキンは例の義足をひきずって応接室へ通ると、うっかり肘などで、アメリカかインドから渡来した金ピカの花瓶でも押しこかしては大変だと思って、隅っこの方に小さくなっていたものです。彼がそこでうんざりするほど長く待たされたのは、いうまでもない。それというのも、彼のやって来たのは、まだやっと主事が床から起きたばかりで、これから方々を洗うために、侍僕に銀の洗面器を持って来させたところだったからですよ。コペイキンがちょうど四時間ばかり待ったところへ、ようやく当直の役人が入って来て、『主事が只今お出ましになります』というのです。もう部屋の中は、肩章や金モールをつけた人々で、まるで芋を洗うように立てこんでいるのです。とうとう主事が顔を出しましたねえ。いやどうも……まあ思ってもごらんなさい――謂ゆる長官というやつで! その顔には、いわば、その…… 身分なり、又…… いいですか…… 官等なりにふさわしい…… 表情が浮かんでいるのです。万事、都風の応対ぶりで、請願者に一人々々、『あなたはどうして来たのです? どうして来たのです? どんな用事があるのです? 問題は何ですか?』といった調子で対応するんです。最後に、君、コペイキンの番になったのです。そこでコペイキンは、『これこれの訳で、国家のために血を流し、片手と片足を失って今は働くことが出来ません。つきましては、何分のお指図によって、相当の報酬とか、年金とかいうようなものを頂いて、何とか扶助の道が講じて頂かれないものかと、推して罷り出た次第でございます』と、述べたわけです。主事が見ると、義足をつけた男で、その右袖はペシャンコのまま、軍服に縫いつけてある。『よろしい、では近日中に改めて出頭なさい』という答えです。コペイキンがどんなに喜んだかは想像が出来るでしょう。『ようし、これで望みが叶ったぞ』と思ったのです。彼はもう、歩道をピョンピョン跳ねるようにして、パルキンスキイの酒場へ立ちよって、ウォツカを一杯ひっかけ、それから『ロンドン』で食事を食ったというわけですよ。先ず続随子を添えたカツレツと、いろんな添物をしたチキンを注文して、葡萄酒を一本ふんぱつしたものです。晩は晩で芝居を見に行きました――つまり、精一杯のおごりをやってのけたという訳ですねえ。歩道へ出て見ると、こう、まるで白鳥のようにすらりとした、一人のイギリス婦人がやって行くじゃありませんか。コペイキンの胸の血は俄かに沸き立ったのです――そこで義足をつけた足でコツコツとその女の跡を追って駈けだそうとしたのです。それでも、『いや、いけない』と考えたのですよ。『忌々しいが、女にいちゃつくのは暫らく待とう! 扶助料がさがってからうんとやるさ。きょうは俺は少しお調子に乗りすぎているぞ。』ところが、そんなことをして、彼はその日一日で所持金の殆んど半分は使いはたしてしまったのです。三四日すると、彼は再び委員会の主事のところへやって行ったのです。『例の件がどうなりましたか、お訊ねに参りました。まだ傷も癒えませんのに余病まで併発しまして……何しろ国のために血をながしたのですから……』というようなことを、切口上で述べたてたものと思って下さい。すると主事がこう言うのです。『だがね、何より先きに一言お断わりしておかねばならんが、君の願いの筋は最高機関の認可がなくては、どうすることも出来んのじゃ。そもそも今はどういう時であるか、それは君も知っとるじゃろう。いってみれば、まだ戦役はすっかり終ってはおらんのじゃ。大臣が帰国されるまで、我慢して待ち給え。そうすれば君は決して見殺しにされるのでないことを納得するじゃろう。どうしても、それまで食いつなぐことも出来んというのなら、わしに出来るだけのことはしよう……』ってね。それでまあ、無論わずかばかりではあったが、倹約してやってゆけば、認可の下るまでぐらいはどうにか持ちこたえられるだけの金が与えられたのです。ところが我がコペイキン先生は、そんなけちなことはしたくなかったのです。彼は明日にも、『さあ、これを持って行って、鱈腹のんだり、楽しんだりしろ』ってんで、何千という大金が貰えると思っていたのに、案に相違して、ただ待てというだけで、時期の指定もしてくれないという訳なんです。もう彼の頭の中は、例のイギリス婦人や、スープや、いろんなカツレツで一杯になっていたんです。そこで彼はしおしおと、まるでコックに水をぶっかけられて、尻尾を巻き、耳をたれて逃げ出す*7プーデル犬そっくりに、玄関を飛び出したのです。ちょっぴり味を覚えたペテルブルグの生活がもう彼を蝕みかけていたのです。それだのに何という惨めな暮らしでしょう、うまい物などは何一つ口にすることが出来ないのですからね。ところがまだ若くてピチピチした男のことですから、まるで狼のように食慾が旺盛だったんですよ。どこかの料理店の側でも通ると、そこでは外国人のコック、それはきっとフランス人なんですがね、そいつが明けっぱなしな顔附をして、オランダ製のシャツに雪と見まがうような真白なエプロンをかけて、松露を添えたカツレツかなんかを拵らえています――まったく贅沢な御馳走で、ほんとに咽喉から手が出るくらいなんです。またミリューチンの店の前でも通りかかれば、そこの窓からは素晴らしい鮭だとか、一粒五ルーブリもする桜ん坊だとか、恐ろしく大きな、まるで馬車ほどもある西瓜などが顔をのぞけて、そんなものに百ルーブリも払おうという馬鹿な買手を待っているんです――要するに、一歩ごとに誘惑が待ちうけており、何を見ても涎がだらだら流れるといった始末ですが、こちらは――おあずけを喰わされてるんですよ。まあ、彼の立場を想像して御覧なさい……一方からは鮭や西瓜を見せつけられながら、片方からは『明日』という不味い料理が押しつけられているだけなんですからねえ。『ええ、もう我慢が出来ない』と彼は思いました。『あいつらは一体どんなつもりでいるのかしらないが、おれは一つ出かけて行って、委員会もへったくれもあるものか、奴らをみんな狩り出して、一体どうするつもりだか詰問してやるぞ!』ってね。実際、彼は臆面のない、恐ろしくうるさ型の男で、こうと思ったが最後、理窟もへちまもあったものではなく、がむしゃらに突進する癖だったのです。で、彼はそのまま委員会へやって行きました。『どうしたんだね?』と先方が言うのです。『まだ何か用なんかね? もう君には、ちゃんと話がしてあるじゃないか』ってね。すると彼は、『ふん、何用ですって? あっしはこんなけちけちした暮らしは真平御免ですよ』と、つけつけ言ってのけたのです。『あっしだってカツレツを食ったりフランス葡萄酒の一本も飲んだり、また芝居にでも行って憂晴らしをしなきゃなりませんからね』って。『いや、そうは行かないよ……』と主事が言うんです。『こういうことには、いわばその、辛抱が肝腎なんだ。君には、その決定が下るまでの生活費があげてあるし、いずれは然るべき報償を受けることが出来るにきまっているのだ。そもそも我がロシア帝国では、祖国のために奉仕した人が何の保護も受けずに見殺しにされた例しはまだないのじゃから。しかし、君が今すぐにカツレツを食べたり芝居を見たりしたいというのなら、そいつはどうも困ったものじゃ。そういうことなら、自分で資力を見つけて勝手にやってゆくがよかろう』ってね。ところが君、コペイキンは平気の平左で、それ位のことではビクともしないのです。彼はがんがんと騒ぎたてて、誰彼なしに喰ってかかる始末です! そこにいた係り役人や書記連一同をさんざんにこきおろしはじめたのです……。『君だって、そうだ! お前さんだって、そうだ!』と、彼は一人々々に向って、『あなた方は職務というものを御存じない! あなた方は禄盗人だ!』などと罵って、一同をこっぴどくやりこめたのです。挙句の果てには、全然別の役所の将官がひょっこり顔を出したのにまで喰ってかかる始末で! 飛んでもない騒動を持ちあげてしまったのです。こんな没不暁漢にかかっては何とも仕方がありませんて! とうとう主事も、これは手ぬるい手段では駄目だと思ったのですよ。そこで、『よろしい!』と主事が言いました。『もしも君が、当座の給与だけでは満足することが出来ず、君の扶助料の決定するまで、おとなしくこの首都で待っていることが不服なら、君を本籍地へ送還するまでのことじゃ。さあ、伝令兵を呼んで、この男を本籍地へ送り届けるようにしろ!』すると言下に伝令兵の姿が扉口に現われたが、七尺ゆたかの大男で、その頑丈な手が、生まれながらに馭者にでもなるように出来ているといったやつで――いわば歯医者の手先といった男なんです……。そこで、神の僕なる我がコペイキンは、その伝令兵と一緒に馬車へ乗せられてしまったのです。『ふん、少なくとも馬車賃を払う必要がないから、それだけでも有難いというものさ』と彼は、ふてくされたものです。こうして彼は護送されて行ったんですがね、護送されて行きながら、肚の中ではこんな風に考えたのです。『よおし! 手前たちはおれに、自分で金を儲けて勝手に食っていけっていやがるのだな。よおし、おれは自分で儲けてやるぞ!』ってね。さて、彼が果してどこへ送りとどけられたのか、その辺のことは皆目不明なんです。そのままコペイキン大尉の噂は、詩人たちがレタ河と名づけている、あの忘却の河の底深く消え去ってしまったのです。ところが諸君、そもそも物語の緒はここからはじまる訳なんですよ。さて以上のような次第で、その後コペイキンの行先は杳として分らなかったのですがね、いいですか、それから二月もたたない中にリャザーニの森林地帯に物取り強盗の一団が現われたのです。しかもその一味の首領というのが、君、他ならぬあの……。」
「いや、ちょっと待ち給え、イワン・アンドレーエヴィッチ。」と、この時、不意に警察部長が話を遮って言った。「君のお話では、第一コペイキン大尉には、片手と片足がないというんじゃありませんかね、ところがあのチチコフにはちゃんと……。」
ここで郵便局長は、頓狂な声をあげて大きく手を振りまわし、自分の額をポンと一つ叩くと、一同の前で成程わしは頓馬だと公然自分を罵った。彼はどうしてそんなことぐらい最初から気がつかなかったのか不思議で堪らず、ロシア人というやつは謂ゆる後で気のつく癲癇もちだとは、なるほどよく言ったものだと感心した。しかし、暫らくすると彼は又しても狡く立ちって自分の非を糊塗しようと思い、英国では機械学が非常な進歩を遂げて、最近の新聞で見ると、或る人が実に精巧な義足を発明したそうで、なんでも、ちょっと眼につかないような小さな弾機が仕掛けてあって、それを押すと、その義足をつけた男がひとりでにのこのこと歩き出してどっかへ行ってしまったため、爾来その男の行方がさっぱり分らなくて困っているそうだ、などという話を持ち出した。
しかし一同は、チチコフがコペイキン大尉だなどということには甚だしく疑問を抱いて、郵便局長の説を余りにも見当はずれであると思った。とはいえ、彼等はまた彼等でなかなか人後には落ちず、郵便局長の穿ちすぎた臆測と五十歩百歩の揣摩臆測を逞ましゅうしたものである。いろんな、皆それ相応にこじつけた臆断の中から、しまいにはこんなのまで飛び出してきた――それは口に出すのも可笑しいくらいだが――チチコフはナポレオンの変装したものではなかろうかというのであった。元来、イギリス人はロシアの領土が非常に広大であることを妬んでいる、だから漫画などにも、よくロシア人がイギリス人と話をしているところが描いてあるが、そのイギリス人は綱をつけた犬を後ろにつれて突っ立っている――この犬は言うまでもなくナポレオンを指すのである。で、イギリス人は『気をつけろ、お前の方でこうこういう風にしなければ、おれはすぐさまこの犬をお前に嗾かけてやるぞ!』と言っているのだ。ところで、今やイギリス人がその犬をいよいよセント・ヘレナの配所から放免したのかも知れない。そこでナポレオンはロシアへもぐりこんで来たのに違いない。チチコフの姿に化けてはいるけれど、その実チチコフなどとは真赤な嘘だというのである。
勿論、こんなことを役人連が信じた訳ではなかったが、それでもよくよく考えて、てんでに肚の中でそれを吟味してみると、成程そういえば、チチコフがどうかして横を向いた時、その顔がナポレオンの肖像そっくりであることを思い出したのである。警察部長は十二年の役に出征して親しくナポレオンの風にも接していたが、成程ナポレオンは背丈もチチコフとどっちつかずだし、姿形にしてからが、チチコフ同様、あまり肥ってもいなければ痩せてもいなかったことを容認しない訳にはゆかなかった。恐らく読者の中には、そんなことはみんな出鱈目だと言われる方があるかもしれないし、作者も矢張り、そういう方たちの意を迎えて、まったくこれは出鱈目ですと申しあげたいところであるが、残念ながらこれは、現在お話するとおり寸分の違いもない事実であり、さらに一そう驚くべきことは、それが蒙眛な山間僻地の出来ごとではなく、両首都のどちらからもさして遠く離れていない市で発生したという点である。尤もこれは、かの有名なフランス軍撃退の後、程なく起こった事件であることを記憶しておく必要がある。その当時、凡て我が国の地主や、役人や、商人や、売子等、苟くも読み書きの出来る者はもとより、眼に一丁字なき手合いに至るまで、少なくともその後八年間というものは、まるで政治問題に熱中していたのである。『モスクワ報知』や『祖国の子』が矢鱈に奪いあいで読まれて、それが最後の読者の手に渡るころには、もう何の役にもたたない、ぼろぼろの紙屑同様になってしまう有様であった。『やあ、おとっつぁん、燕麦は一升いくらで売ったね?』とか、『昨日の薄雪で、いい猟ができたろうね?』と訊く代りに、猫も杓子も、『新聞には何と出ているね? ナポレオンをまた、島から釈放したんじゃなかろうね?』などと言ったものである。商人連中はそれを非常に気遣っていた、というのは、彼等は、もう三年このかた牢獄につながれている或る予言者の言葉をすっかり信じきっていたからである。その予言者は木皮のサンダルをはき、プンプンと魚の腐ったような臭いのする裸皮の皮衣をきて何処からともなくやって来て、ナポレオンは反基督者で、今は頑丈な鎖につながれて、六つの壁と七つの海にかこまれているが、やがてその鎖を断ち切って、全世界を征服するだろうといいふらした。そんな予言をしてったかどで、彼は当然の報いとして投獄の憂目をみたのであるが、それにも拘らず彼の予言は効を奏して、商人どもをすっかり狼狽させてしまったのである。その後、長いあいだ商人連は、どんなに有利な取引のある時でも、料亭へ行ってお茶を飲みながら、反基督者ナポレオンの話に暇を潰したものである。官吏や貴族連の多くも矢張り知らず識らずの間にその問題を考えるようになり、周知の如く、その当時非常に流行していた神秘主義にかぶれて、『ナポレオン』という名前を構成している文字の一字々々に或る特殊の意味を発見したり、中にはその名前から*8黙示録の神秘の数を引き出した者さえ少なくなかったのである。こんな次第だから、役人連が我れ知らずその問題に引っかかって、深く考えこんでしまったからとて、別に不思議ではないが、しかし間もなく一同は、そうまで気をまわすのは余りにも早計で、どうもこれは見当はずれであると気がついて、ハッと我れに返ったものである。彼等は、又しても考えに考え、さまざまに談合を重ねた末、結局、もう一度よくノズドゥリョフに訊き糺してみるのも強ち無駄ではなかろうという意見に落著したのである。そもそも最初に、死んだ農奴などという話を持ち出したのは他ならぬ彼で、又どうやらチチコフとは何か特別深い関係を結んでいるとのことであるから、従ってチチコフの素性についても必らず何か多少は知っているに違いない。してみれば、一応ノズドゥリョフの言うことに耳をかすのも無益ではないというのである。
この役人諸子だの、その他いろんな身分の連中は、まったく以って奇態な人々である。そもそもノズドゥリョフが大の嘘つきで、彼の言うことなすこと何一つ信用の出来ないことは百も承知でいながら、しかも尚その彼に助けを求めるのだからおかしい。いやまったく、こういう手合いにかかっては降参である! 彼等は神は信じないで、眉間がムズムズすれば必らず死ぬなどという馬鹿げたことを信じきっているのだ。彼等は素朴な高い叡智と調和に隈なくみたされた白日のように明澄な詩人の創作をば頓と見向きもしないで、そこいらの身のほど知らずが捏っちあげた、まるで自然をぶちこわして裏返しにしたような、怪しげな眉唾ものに飛びついてゆく。彼等にはそんなものが恐ろしく気に入って、『これ、これ、これこそ真に心の秘奥を解いたものだ!』と叫びだすのだ。彼等は生涯、医者には三文の値打も認めず、いよいよとなると、加持や祈祷で病いをなおす老婆にかかったり、又ひどいのになると、自分で何かわけの分らない塵芥を寄せ集めてあやしげな煎じ薬をこしらえて飲んだりするが、そんなことで果して病気がなおると思う気持がとんと解せないのである。尤も、実際苦境に立っている実情から見て、役人諸子の立場にも幾ぶん恕すべき点がないでもない。よく、溺れるものは藁をもつかむと言うが、危急存亡の場合には、一本の藁に身を託すことの出来るのはせいぜい蠅ぐらいのものだという、分りきったことが分らない。しかも彼の体重は二十貫まではなくても、十七貫はたっぷりあるのだ。が、そんな分別も今は頭に浮かばず、一本の藁に縋りつくのである。それと同じく我等の役人諸子も、ついにはノズドゥリョフという藁に取りすがったのである。で、さっそく警察部長がノズドゥリョフに宛てて夜会の招待状を認ためると、大長靴をはいて、いかにも気持のいい桜色の頬をした一人の平巡査が、すぐさまサーベルを押えて小走りにノズドゥリョフの宿をさして駈けだして行った。折からノズドゥリョフは重大な仕事に没頭していて、ここ四日間というものは部屋から一歩も外へ出ず、誰ひとり部屋へは入れないで、食事も小窓から出し入れさせていた――で、げっそり痩せて土色の顔をしていた。それは多大の注意を要する仕事で、数十組の骨牌の札から、最も忠実な親友のように全幅の信頼をかけることの出来る、的確無比な一組を揃えることであった。その仕事はまだこの先き少なくとも二週間はかかりそうであったが、その間じゅうポルフィーリイは、例の*9メデリャンカ種の仔犬の臍を特殊のブラシで掃除したり、一日に三度ずつ石鹸で洗ってやらなければならなかった。ノズドゥリョフは、そうして引籠っているところを邪魔されたので、非常に腹を立て、いきなり巡査を頭くだしに口汚なく罵ったが、市長の招待状を一読すると、いずれその夜会には一人や二人ずぶの素人がやって来ようから、こりゃ一儲け出来そうだと思って、忽ち機嫌をなおし、手早く部屋に錠をおろして、ぞんざいに着物をひっかけながら、一同のところへやって来た。ノズドゥリョフの陳述と証言、ならびに推定は、役人連のそれとは凡そ対蹠的な相違を示したため、彼等の最後の臆測などは根柢から覆えされてしまった。そもそもノズドゥリョフという男にとっては、如何なる疑惑も絶対に存在しなかった。で、役人連がいろいろと臆測するにあたって甚だしく不安動揺の色を見せたと同じ程度に、彼の方は確乎不動の信念を示したものである。彼はあらゆる条項に対して、少しの淀みもなく答え、チチコフは数千ルーブリにのぼる死んだ農奴を買いこんだが、別に売ってはならないという理由がないから自分も売ってやったなどと公言した。チチコフは探偵ではなかろうか、そして何事かを探り出そうとしているのではあるまいかという質問に対してノズドゥリョフは、たしかにチチコフは探偵であると答えて、まだ自分と一緒に学校へ行っていた頃から彼は『告げ口屋』という渾名をつけられていた位で、一度など何か密告したかどで生徒仲間から――その中には自分も加わっていたが――こっぴどく袋叩きにされて、そのために後で両方の顳だけでも二百四十匹からの蛭を吸いつかせなければならなかったほど顔がぽんぽんに腫れあがったことがあるなどと話したものだ。尤もノズドゥリョフは四十匹と言うつもりだったが、口から出る時、ひとりでに上に二百がくっついてしまったのである。チチコフが贋紙幣づくりではないかという質問に対しても、ノズドゥリョフは立ちどころに、そうだと答えて、今度はチチコフの驚くべき機敏なことを示す一つの逸話を物語った。それは彼が二百万ルーブリからの贋造紙幣を隠匿していることが分って、直ちにその家に封印がほどこされ、扉口という扉口には二人ずつの番兵がつけられた。ところがチチコフはその夜一晩のうちに紙幣を残らずすりかえてしまったため、翌日その封印をとって調べたときには、本物の帝国紙幣ばかりになっていたというのである。またチチコフは果して知事の娘を誘拐しようと計画しているのだろうか、そしてノズドゥリョフ自身それを幇助するため、この事件に関係しているというのは、本当かという質問に対しては、いかにも自分が力を貸している、もし自分がいなかったら、何一つ成就はしないだろうと答えた。が、ここで彼はハッと我れに返って、こんな言わずもがなの嘘をつけば、自から求めて災いを招くようなものだと気がついたけれど、彼はどうしても自分の舌を制することが出来なかった。成程それも無理からぬことで、後から後からひとりでに、面白いほど細々とした出鱈目が口をついて出て来るのだから、あたらそれを無駄にする訳にはゆかなかったのである。で、二人は田舎の教会でこっそり結婚式を挙げることになっている、その村はトゥルフマチェフカというのだなどと、誠しやかに村の名前まで言い、式を司るのはシードル神父という坊主で、謝礼も七十五ルーブリで話がついたが、それも、この坊主がミハイルという穀物商をその教母と結婚させたことを告発してやると言って自分が嚇しつけたからこそ渋々納得したのだ。そればかりか、自分は軽馬車までチチコフに提供して、立場々々にはちゃんと替馬の用意までしてやってあるのだと言った。こうした出鱈目な話がいよいよ詳しくなって、しまいには駅逓馭者の名前までが一々あげられだした。初め役人連は例のナポレオンの話を持ち出しかけたが、その口の下から、そんなことを切りだそうとしたことを後悔した、それというのも、ノズドゥリョフが調子にのって、とても本当と思われないばかりか、まるで雲をつかむような馬鹿げきった話を喋りだしたからである。それで役人連はフーッと溜息をついて、その場をはずしてしまった。ただ一人、警察部長だけは、せめてのことに何か手掛りでも得られないかと思って、なお暫らく耳を貸していたが、これもしまいには手を一つ振って、『何が何やら、さっぱり分りゃしない!』と呟やいたものだ。結局、どんなに骨折ったところで牡牛から乳はしぼれないという諺につくづく感心するぐらいが落ちであった。で、役人連は前よりも一層困った羽目になり、到底チチコフの素性を知ることは不可能だと諦らめてしまった。これでみても人間というものの頼りなさがはきっり分る。それが自分のことでなくて他人のことでさえあれば、なかなか賢い智慧がまわり、いい分別もつくのである。他人が何か苦しい羽目に立っているような時、彼は実に周到な、しっかりした助言を与える! 『なんという機敏な頭だろう! なんというしっかりした人格だろう!』と群衆は叫ぶ。ところが、この機敏な頭に何か不幸が降りかかり、彼自身が苦しい羽目に立つようなことになると――そんな人格などはどこかへ雲がくれをしてしまうのだ! その確乎たる人物が、すっかり狼狽してしまい、似ても似つかぬ憐れむべき臆病者に、見る影もない弱々しい子供に変ってしまう、いや、何のことはない、あのノズドゥリョフがよく口癖にいう、助平になってしまうのである。
ところで、こうしたいろんな風説や評判や取沙汰が、どうした訳か誰よりも一番、あの気の毒な検事に非常な打撃を与えた。その打撃があまりにひどかったため、彼は家へ帰ってからも、あれやこれやとしきりに考えこんでいたが、突然、別にどうしたという訳もないのに、ぽっくり死んでしまった。脳溢血でも起こしたのか、それとも何か他の病いが突発したのか、とにかく坐っていたのが急にふんぞり返って、椅子からバッタリ転げ落ちてしまったのである。例によって家人は驚いて、『こりゃ大変だ!』と叫ぶなり、放血でもする他はないと思い、急いで医者へ人を走らせたが、よくよく見れば、すでに検事は魂のない亡骸となっていたのである。その時になって初めて人々は、成程この男にも良心は確かにあったのだが、謙遜のあまり、ついぞそれを見せなかったのだと気がついて、悼ましく思った。とにもかくにも、偉人であると小人であるとに拘らずかくも果敢なく人が死ぬという事実は、恐ろしいことであった。まだつい昨日までは達者に歩きまわったり、ヴィストをやったり、いろんな書類に署名をしたりして、あの濃い眉と頻りに瞬きをする左の眼とを、よく役人連中のあいだに見せていた男が、今は変りはてた姿をテーブルの上に横たえているのだ。もはやその左の眼もまったく瞬きをしなかったが、しかし一方の眉だけは、まだ何やら物問いたげに釣りあがっている。この故人の訊ねているらしい、なぜ自分は死んだのか、いや、なぜ自分は生きていたのか、という疑問には、神より他に答える者はないのである。
『だが、それはどうも変だ! だいたい子供にだって大凡の見当はつく筈のことに、苟くも役人ともあるものが、自からそんな妄想を描いて怯えたり、そのような馬鹿げた真似をして、いよいよ真実から遠ざかるなんて、どうもこれは眉唾ものだ!』こう言って読者の多くは、かくいう作者の脱線ぶりを咎めたり、或は又あの可哀そうな役人連を馬鹿だと言ったりされるだろう。なにしろこの馬鹿という言葉ほど人間がふんだんに使う言葉はなく、日に二十度ぐらいはこれを平気で隣人に捧げるからである。十のものなら九つまで相手に美点があっても、たった一つ欠点があれば、あいつは馬鹿だという烙印を捺すために、九つの美点は無視されてしまうのである。ずっと四方を見透すことの出来る高処に坐って、静かに下界を見おろしてござる読者には、下界で行われているいろんないざこざも楽々と批判することが出来ようけれど、下界にうごめいている人間には、つい目と鼻の先きのことしか分らないのである。世界人類発達史の中には、全然取るに足らぬものとして、さっさと抹殺されてしまったと思しき世紀がかなり多くあるようだ。現今なら三歳の児童でもよもや犯すまいと思われるような誤ちが、この世界ではざらに犯されて来たのである。ひたすら永遠の真理に到達せんものとして、選りにも選って人類は、どんなに曲りくねった、狭い、薄暗い、通りぬけることも難かしい、その上ひどく遠まわりな道を歩いて来たことだろう! その実、人類の前には、皇居に定められた荘麗な宮殿へでも通ずるような、真直ぐな、広々とした大道がひらけていたのである。他のあらゆる道よりも広々として美しいこの大道は、昼は白日に照らされ、夜は夜もすがら灯火に照らし出されていたにも拘らず、人類はそれを他所に無明の闇をさ迷っていたのである。すでに天よりの啓示に導かれながら、しかもなお彼等はこの大道を外れて、あらぬ方へと踏み迷い、白昼、道もない山里に進路を失って、互いに五里霧中をさ迷ったり、また鬼火にさそわれて深い沼地に踏みこんだ挙句には、恐怖のあまり、『出口は何処だ? 道は何処だ?』と、どんなに互いに訊ねあったことだろう! すべてをはっきりと認識している今日の人々は、寧ろかくの如き間違いを不思議に思って、自分たちの祖先の無智を哂っているけれど、そうした過去の年代記こそ、天の聖火によって記録されたもので、その中に書かれた一字々々は烈しい叫び声をあげ、どの頁からも、我等現代人を指導する厳かな手が差し伸ばされているのだとは知らない。しかも今日の人々は祖先を哂いながら、さも偉そうに大きな顔はしているけれど、豈図らんや自分たちもまた、やがては後世の物笑いになる数々の新らしい誤謬を犯しはじめているのである。
しかし、チチコフは夢にもそんなこととは知らなかった。丁度その頃、まるで故意とのようにちょっと風邪を引いたのが因で、歯槽膿と軽い喉頭炎に悩まされていた。こういう病気の蔓延には、我が国の多くの県下町は気候が頗るお誂えむきである。万一こんなことから、後継者も残さずこの世を去るようなことがあっては大変だと思ったので、彼はその三四日は大事をとって部屋に引きこもっていたのである。その数日のあいだ、彼は絶え間なく、無花果を浸した牛乳で含漱をしては、後でその無花果を食べてしまい、加密爾列の煎汁と樟脳の湿布を頬にあてていた。彼は時間つぶしに、買いこんだ農奴全体の詳細な表を新らしく拵らえたり、旅行鞄の中から捜し出した*10ラワリエール公爵夫人の著書を読んだり、手箱の中からいろんな持物や書附を出して調べたり、二三の書類を改めて読み返してみたりしたが、何をしても矢張りひどく退屈だった。彼には、この市の役人連のうち、誰ひとり安否を訊ねに来てくれる者もないのが、何としても不可解であった。また最近までは、やれ郵便局長だ、やれ検事だ、やれ裁判所長だといって、入れかわり立ちかわり、始終いろんな馬車が旅館の前に停っていたものじゃないか。彼はただ部屋の中を歩きまわりながら、肩をすくめるより他はなかった。それでも、やっとのことで気分が少しよくなり、これなら新鮮な外気にあたっても差支えないと分った時、彼は何とも言いようのない歓喜の情に駆られたものだ。そこで一刻の猶予もなく、さっそく彼は身仕舞に取りかかった。まず例の手箱を開けて、コップに一ぱい湯を注ぎ、髭ブラシと石鹸を取り出すと、やおら顔を剃りにかかった、これは併し、もうずっと前から必要に迫られていたことで、手をちょっと顎に触れながら鏡を一目見るなり、彼は、『ひえっ、まるで林みたいに髭ぼうぼうじゃないか!』と、口走ったほどである。まさか、林というほどではないまでも、一面に頬から顎にかけて、春蒔の麦のように濃い髭がツクツクと伸びていた。顔を剃りおわると、今度は服を著けはじめたが、あまりせかせか急ぐものだから、ズボンが今にもずり落ちてしまいそうだった。ようやく、ちゃんと服を著け、オーデコロンをふりかけて、暖かく外套に身をくるむと、用心のために頬を包んで、さっさと街路へ出て行った。久しぶりに戸外へ出た彼の心は、ようやく恢復に向った病人が皆そうであるように、ひどく陽気だった。出っくわすほどのものは家でも、行きずりの百姓でも、何もかもが自分に向って笑いかけてくるように思われた――その実、彼がすれちがった二人の百姓は、かなり険悪な顔をしていて、その一人は既に仲間の横っ面に拳骨を一つ喰らわせたところであった。彼は最初に先ず、知事を訪問してやろうと思った。道々も彼の胸にはさまざまな思いが浮かびあがり、例の金髪娘の姿が頭の中でぐるぐると渦を巻き、ちょっと悪戯をしてやりたいような空想さえ頭をもたげて、疾くも彼は自分を少しからかってみたり、にやにやと一人笑いをしたりしはじめたものである。そうした上乗の御機嫌で、彼は知事邸の玄関さきに姿を現わした。さっそく玄関へ入って、手早く外套をぬぎすてようとした途端に、『お通しすることは出来ません!』という、まったく思いもかけぬ門番の言葉に、彼はすっかり度胆をぬかれた。
「なに! どうしたと! 君はどうやら、わしを見違えてるんだな? ようく顔を見るがいいぞ!」と、チチコフは相手に言った。
「どうして見違えるもんですか! 何も、初めてお目にかかる訳じゃなし。」と、門番が言い返した。「あなただけは、確かに、お通ししてはならないんです、他の方なら、いっこう差支えありませんがね。」
「これはしたり! そりゃどうしてだね? 何故だね?」
「そういう咐なんですからね、どうもしようがありませんのさ。」そう言ってから、門番は『ふん』と一言つけ足したが、それから先きは平気な顔で相手の面前に立ちふさがったきり、前にはあんなにいそいそと外套をぬがせながら、よく示した、あの愛想のいい態度などは露ほども見せなかった。どうやら、彼はチチコフを見ながら、肚の中では、へっ! 旦那がたに門口から追い返されるようでは、どうせこいつも、いい加減の碌でなしに違いない!とでも考えているようだった。
さっぱり分らない!と、チチコフは心の中で考えた。そしてすぐその足で裁判所長のところへってみた。ところが裁判所長も彼の姿を見ると、ひどく狼狽してしまって、一言として辻褄の合った話が出来ず、両人とも照れくさくなるような頓珍漢なことを言いだしたものだ。裁判所長の家を出たチチコフが、道々、所長はいったい何を思っているのだろう、彼のいった言葉にはどんな意味があるのだろうと、とつおいつ、その真意を明らかにしようと躍起になって考えてみたが、結局、何一つ了解することが出来なかった。それから彼は、他のいろんな連中のところ、つまり、警察部長だの、副知事だの、郵便局長だのの家へも寄ってみたが、どれもこれも、彼に玄関ばらいを喰わせたり、又たとえ通しても、変な態度で、まるで奥歯にものの挟まったような不可解な口をききながら、妙にそわそわするばかりで、何もかもがひどく妙竹林なことになってしまい、果てはチチコフの方で、こりゃ、どいつもこいつも頭が変なのじゃないかと疑いだしたほどであった。彼はなお二三の人を訪ねて、せめてその理由だけでも突きとめようとしてみたが、結局なんら得るところはなかった。夢に夢みる心地で、彼はフラフラと目的もなく市じゅうを歩きまわりながら、これは一体、自分の頭が狂っているのか、それとも役人どもの気がふれているのか、これは夢の中の出来ごとなのか、それとも夢にも劣らぬ馬鹿げたことを現でやっているのか、頓と見当もつかない為体であった。おそくなって、もう殆んど暗くなりかけた頃、さっきはあんなに上乗の機嫌で出かけた我が宿へ、ようやく立ちかえると、退屈まぎれに、お茶を持って来るように言いつけた。彼がじっと考えこんで、自分の変てこな立場について、とつおいつ空しき思いをめぐらしながら、やおら茶を注ぎにかかった時、不意に部屋の扉があいて、まったく思いがけもなく、ノズドゥリョフがぬっと姿をあらわした。
「そら、諺にもいうだろ、惚れて通えば千里も一里ってね!」そう言って彼は無縁帽をぬぎながら、「今この側を通ると、窓に灯りが見えるじゃないか。ようし、一つ寄ってやろう! きっとまだ起きてるに違いない、と思ったのさ。おや! こいつは素敵だ、お茶が出てるんだね、喜んで一杯御馳走になるぜ。きょうは昼飯にいろんなしつこいものを自暴につめこんだため、胃の腑の中がじわじわしてるんだよ。なあ、そういって煙草を一服つめさせてくれよ! 君の煙管はどこにあるんだい?」
「だって、僕は煙草をやりませんからね。」と、チチコフは素っ気なく言った。
「馬鹿な、君が煙草のみだってことをおれが知らないとでもいうのかい。おうい! 君んとこの下男は何とかいう名前だったねえ? おうい、ワフラーメイ、ちょっと!」
「ワフラーメイじゃない、ペトゥルーシカですよ!」
「なんだって? でも以前、君んとこにワフラーメイってのがいたじゃないか?」
「ワフラーメイなんて下男は、僕のとこにいたことがありませんよ。」
「うん成程、ワフラーメイってのは、デリョービンのうちにいる下男だ。デリョービンっていえば、奴は素晴らしい幸運を掴みおったぞ。奴の伯母さんがね、なんでも息子が農奴の娘と結婚したとかいうので、かんかんに怒って、今では遺産をすっかり野郎に譲ることに遺言を書きかえっちまったというのさ。おれも子々孫々のために、そんな伯母さんがせめて一人あったらと思うねえ! ときに兄弟、君はどうしてそう引っこんでばかりいるんだい? どこへも顔出しをしないじゃないか。そりゃ、おれだって、君が時々、学問上の仕事に追われてることや、本を読むのが好きだってことぐらいは無論、知ってるけどさ。(ところでノズドゥリョフが、どういうところから我等の主人公が学問上の仕事に携わっていたり、本を読むのが好きだなどと断定したのか、それは正直なところ、我々にはさっぱり分らない。チチコフにしては尚更のことである。)あっ、そうそう、チチコフ! 君があれを見たのだったらなあ……。それこそ屹度、君の諷刺的才能の素晴らしい材料になったのだがなあ。(どうしてチチコフに諷刺的な才能があるというのか――これもやはり分らない。)実はねえ、リハーチェフっていう商人のところでゴルカをやったのさ。その時だよ、大笑いをやらかしたのは! おれと一緒だったペレペンジェフの野郎がね、『こいつあ、チチコフがいたら、持ってこいだがなあ!……』って吐きやがるのさ。(ところがペレペンジェフなんて、チチコフにとっては、生まれてこのかた聞いたこともない名前だった。)それはそうと、兄弟、君はまったく卑劣きわまるインチキをやったじゃないか、そら、おれと一緒に将棋をさした時にさ。ありゃ、おれの勝だったんだからなあ……。おれはただ、君にまんまと挙足を取られたというだけの話さ。しかし、どういうものか、おれは頓と怒るということの出来ない性分でね。つい近頃も、裁判所長と一緒に……。うん、そうそう! これは是非、君の耳へ入れておかなきゃならんが、市ではどいつもこいつも君のことを糞味噌に言ってるぜ。奴らは君を贋金づくりだろうと言って、しつこくおれに耳こすりをしやがるのさ。で、おれは極力、君の肩をもって――君とは学校も一緒だったし、君の親爺のこともおれはよく知ってるって、大いに弁じておいたよ。うん、何のことはない、彼奴らをすっかり煙にまいてやったのさ。」
「えっ、僕が贋金づくりだって?」と、チチコフは椅子から飛びあがりながら、喚いた。
「だが、君はどうして、ああ彼奴らを嚇しつけたんだい?」と、ノズドゥリョフは言葉をつづけた。「彼奴らは、君、怖ろしさのあまり気が狂っちまったようなんだぜ。君のことを、やれ強盗だの、やれ探偵だのと、そりゃ大騒ぎなのさ……検事なんぞは、あんまり吃驚したために死んじまったじゃないか。あす、お葬いだよ。君は参列しないのかい? 実をいうと、彼奴らは新任の地方総督を怖がってるんだよ。君の口から何かばれやしないかと思ってさ。だが、おれは、地方総督って奴についちゃあ、こういう意見を持ってるのさ――もし奴さんが反り身になって、威張りちらしたりすれば、貴族階級は手に負えなくなるにきまってるんだ。貴族ってやつは、ちやほやして貰うことが無性に好きだからさ。そうだろ? そりゃ無論、じっと書斎の中にとじこもっていて、舞踏会なんぞ一度も開かなくたって構わないさ。あんなことをやったって、いったい何になるんだい? そんなことで何一つ得になる訳はないじゃないか。それはそうと、チチコフ、君もずいぶん危ない芸当を企らんだものだなあ。」
「え、危ない芸当って?」とチチコフは、不安そうに訊ねた。
「知事の娘を連れて逃げようってやつさ。尤も、実をいえば、それをおれは待っていたんだがね、いや、まったくの話さ! 初めて、いつか舞踏会で、君とあの娘とを一緒に見た時、おれはすぐそう思ったよ、ははあ、チチコフの奴、どうも只事じゃないぞ……ってさ。だが、君があんな娘に白羽の矢を向けたのは、どうかと思うなあ。おれはあんな娘なんて、ちっとも好いとは思わないよ。好い女といえば、ビクーソフの親類に一人、素敵なのがあるぞ、あいつの妹の娘なんだがね、そりゃ素晴らしい娘だぜ! ああいうのこそ、ほんとうの上玉っていうやつさ!」
「そりゃ又、いったい、君は何を変なことをいうんです? 僕が知事の令嬢と駈落をするんだって? そりゃ、いったい何のことです?」と、チチコフは眼を丸くしながら言った。
「ううん、そんなこたあ、もう沢山だよ。君はずいぶん白っぱくれることの好きな男だなあ! 実はそのことでおらあやって来たんだぜ、何なら君に一臂の力を貸そうと思ってさ。なあに、構うこたあない、結婚式も挙げさせてやろうし、馬車や替馬のこともおれが引き受けようぜ、但し一つ条件がある――おれに三千ルーブリだけ貸してくれるっていう条件なんだ。なあ、兄弟、今おれはどうしてもそれだけ要るんだよ!」
こんな風にノズドゥリョフが、べらべらとくだらぬことを喋っている間じゅうチチコフは、これは夢の中で聞かされているのではないかと、それを確かめようと思って何度も眼をこすったものだ。贋造紙幣の犯人だの、知事の娘の誘拐だの、どうやら自分が原因になっているらしい検事の急死だの、さては地方総督の赴任だのといった、まったく思いもかけぬいろんな話に、彼はすっかり驚かされてしまった。ふん、いよいよそんなことになったとすれば、と彼は肚の中で考えた。もう何も、かれこれぐずついていることはない、こんなところは一刻も早く逃げ出さなきゃ駄目だ。
彼は早々にノズドゥリョフを追っぱらうと、直ぐさまセリファンを呼んで、翌る朝の六時には間違いなくこの市を出発できるように、馬車に油をさしたり、その他、万遺漏なく、夜明けまでによく調べておくように言いつけた。セリファンは、『はい、畏まりました、パーウェル・イワーノヴィッチ』と答えたが、そのくせ暫らくのあいだは扉口でもじもじしていて、すぐには立ち去る様子も見せなかった。旦那はそれにはかまわず、早速ペトゥルーシカに言いつけて寝台の下からもうかなりひどく埃のつもっている旅行鞄を曳っぱり出させると、二人がかりで、靴下だの、シャツだの、肌着の洗ったのや洗ってないのだの、長靴の型木だの、カレンダーだのを、手当り次第に詰めこみはじめた。何もかも無茶苦茶に片づいてしまった。彼は翌日になって何一つ差障りの起きないように、ぜひ前の晩にすっかり用意を整えておこうと思ったからである。セリファンは二三分間、扉口にもじもじしていたが、ようやく、のろのろと部屋を出た。まったくのろのろと人間の頭で想像の出来る限りの、ゆっくりした足どりで、磨りへった階段に、濡れた長靴の跡をベタンベタンとつけながら階下へ降りると、彼はまた長いこと後頭部をボリボリ掻いていた。彼が頭を掻いたのは一体どういう訳だろう? いや一般にこういう手合いが頭を掻くのはどういう時だろう? 明日あたり、何処かお上の酒を売る居酒屋で、見苦しい毛皮外套の上にぎゅっと帯を緊めた兄弟分と出会うつもりでいたのが、不意におじゃんになって忌々しいというような時だろうか? それとも新らしい土地で好いたらしい女と懇ろになり、毎晩、宵闇が町を包んで、赤いシャツをきた若者たちが召使どもの前でバラライカを掻き鳴らし、仕事を了えた平民どもが低い声でぼそぼそと語りあうといった頃おい、いつもの門口に立って女と逢曳をしたり、その白い手を心ありげにぎゅっと握ったりするのも、いよいよこれでおしまいだというような時だろうか? それともただ、下台所のペチカの側で、毛皮外套をかぶってごろ寝をした、ポカポカと暖かい古巣にもお別れなら、都会風の柔らかい肉饅頭を添えた玉菜汁に舌鼓を打つのも今日限りで、明日からはまた、雨や泥濘や、あらゆる道中の労苦を忍びつつ、旅をつづけて行かねばならないというような時だろうか? いずれとも神ならぬ身には知る由もない。ロシア人が頭を掻くのには、その場合々々によって、実にさまざまな意味があるのである。
*1 十二年の役 一八一二年、ナポレオン一世の率いるフランス軍がロシアに侵入した時の戦いをいう。*2 クラースヌイ スモレンスク県下の町。一八一二年露軍が仏軍と会戦したところ。*3 ライプツィッヒ ドイツのサクソニヤにある有名な市。一八一三年にこの市の附近でナポレオン軍と露独同盟軍との間に激戦が行われた。*4 シェヘラザーダ 『アラビヤン・ナイト』で一千一夜に一つずつの物語をする美女の名前。*5 セミラミーダ 古代アッシリヤの伝説的な女帝で、首都ニネヴィヤの市に、天の浮園という荘麗無比な大厦高楼を造営したといわれる。*6 青紙幣 五ルーブリ紙幣のこと*7 プーデル 剛毛で耳の垂れた犬の一種。非常に賢いけれど猟には向かない。*8 黙示録の神秘の数 ヨハネの黙示録第十三章十八節に出ている神秘の数六六六のことで、暴君ネロの名前をユダヤ文字に当てはめると、この数が出てくるというのであるが、ここではネロの代りにナポレオンという名前をその数にこじつけて、ナポレオンを反基督者と断定したというのである。*9 メデリャンカ 大型でずんぐりした猟犬の一種、熊狩等に用いられる。*10 ラワリエール公爵夫人 ルイズ(1644-1710)フランス王ルイ十四世の寵妃で、四人の子女までもうけたが、王の愛がモンテスパンに移るに及んで修道院へ入り、そのまま世を終った。彼女の書簡及び自伝が著書として世に流布された。