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鴎外の思い出
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鴎外の思い出
小金井喜美子
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Nguyên bản Public Domain
Chapter 2 of 26

2

「さっきのあそこからは、向島の方は見えないようですよ。曇っているせいかしら。」

「見えないかも知れない、曲っているらしいから。今度は堀切の辺へ行って見ようね。」

「私には歩けないでしょう。」

そんなことをいい合いました。

やがて家へ近寄りますと、叱られはすまいかとびくびくしていました。裏門口に立っていらしったお母さんは、「あ、お散歩のお供をしたの。よかったね。」

お兄様は家へ這入っておしまいになりました、私は包を、「はい、おみやげ」と出しました。

「何なの。」

「葛餅ですの。」

「まあ、そんな風をしてあそこまで行ったの。あなたまでどこへ行ったかと案じて、さっきからここにいたのだよ。よかったね」と仰しゃいました。

夜食後に四角なのを三角に切って、皆で分けて食べましたが、お父様は、「おれは川崎の大師で食べた事があるよ。そこが本家だといっていた。」

お母様は、「それで思い出しました。亀井戸の葛餅屋は暖簾に川崎屋と染めてありました。柔いからお祖母様も召上れ。」

「有難う。だがこれはお国のと違って黄粉がわるいね。」

またお祖母様のお国自慢と皆笑いました。お兄様はやっと思い出したらしく、「そうだ、遠足して池上の本門寺の傍の古い家で弁当を遣って休んだ時、友達が喜んで食べたっけ。由緒のあるらしい古い家だった。」

何ならぬ品も静かな夜の語り草となったので、お土産に持って来た私はにこにこ笑っておりました。

お兄様は早く大学を卒業なすったのですが、まだ若いから何か今一科勉強したいとお思いになっても、経済上の都合もあってそうもならず、陸軍へ出たらと勧める人もありますが、同級生が貸費生としてはや幾人か出ているのに、階級のやかましい処へ今更どうかともお思いになるので、お気の毒にも思案に余っていらしったのでした。ここに書いたのはその頃の或半日の事でした。

赤インキ

森の家が向島小梅村に住んでいたのは、明治十二、三年頃ですから、兄は十七、八、私は十ほど年下で七つ八つ位でしょう。その頃兄は頻に水墨画に親しんでいられました。私の学校通いに被ったあじろ笠に、何か画かれたのもその頃でしょう。どうも先生に就かれたようには思われませんから、何かお手本を見て習われたのだと察します。お画きになるのは休日の静かな午前などで、その絵は重に四君子などでした。とりわけ蘭が多く、紙一ぱいに蘭の葉の画いてあるのもありました。種々な絵の中に、牧童が牛の背に乗って、笛を吹いている顔が可愛らしいので、何枚も画いてもらい、「もっと可愛くして頂戴」といって笑われた事もありました。

程近い旧藩主の邸内に、藩の人たちが御末家と呼ぶお家がありました。御親類つづきなのでしょうか、若い美しい御後室と幼い姫様とがお住いでした。綾子様、八重子様と申すのですが、皆おあや様、お八重様といいました。父が御診察に伺った時、飾ったお雛様を拝見して来て、「実に見事なものだよ。御願いして置いたから拝見にお出で」ということなので、母と一緒に伺いました。お仮住いなので広くはありませんが、床の間に緋毛氈をかけた一間幅の雛段は、幾段あったでしょうか。幾組かの内裏雛、中には古代の品もありました。種々の京人形や道具類がぎっしり並んでいて、あまり立派なので、私は物もいわずに、ただ見詰めておりました。

「よくこれだけのお品を、お国から傷めずにお持ちになりましたこと。」

「私どもがそこに住んでいましても、蔵の品はいつか知らぬ間に減るばかりで、土地を離れたらどうなるやらと、この子もいる事ですから、こんな手狭なのに送ってもらいました。」

「さぞかしお荷造が大変でございましたでしょう。皆よくわかった人たちばかりで、悪い事などいたしますまいに。」

「いいえ、そうでもございません。或朝ふと気がつきますと、金蒔絵の重箱が、紐で縛って蔵の二階の窓から、途中まで下しかけてありました。きっと明るくなったので止めたのでしょう。」

御後室は、にっこりお笑いになりました。人の心のとかく落附かぬ頃、御主人はお亡くなりで、よくお世話する人もなかったのでしょう。その頃御本家では、葵の御紋を附けていられた夫人がお亡くなりで、お子様もなく、寡居しておられました。藩出身で今は然るべき地位にある人が、「ちょうどお似合に思われるから、お後添に遊ばしたら」とお勧めしたそうでしたが御承知にならず、あや子様は何かと人の口がうるさいからと、丈なす黒髪を切っておしまいになりました。お年は十九なのでした。誰も惜まぬ人はありません。その小さいお姫様をよく育ててと、御熱心なのは涙ぐましいようでした。長州からお輿入れになったとの事ですが、ただ美しいといっても、艶なのと違ってお品よく、見飽きないお姿でした。美しいものの好きな母は、いつも歎称しておりましたが、後年兄の嫁をという時に、「おあや様のような方はないものかしら」といって、父に笑われました。

お白酒をいただき、下の段にあったお道具を下さったのを持って帰りました。机の上に並べましたが、ほかには何もありません。

「お雛様でなくても、何かあった小さい品を、詰合せにして持って来ればよかったわね。」

祖母はつくづくいわれました。森は小藩の医者の家で、質素に暮していたのでしたから、東京へ出るといっても、少しの荷物しかありません。家内中戦にでも出るような意気込なのでしたから、お雛様を飾ろうなどとは、夢にも思わなかったのでしょう。

「お兄さんにお雛様を画いておもらいなさい」といわれてお願いしましたが、「そんな絵は画けないよ」といわれました。それでもとうとう画いてもらったのを壁に針で止め、桃の枝を探して生けましたら、母が豆妙を造って下すったので、やっと御雛様らしくなりました。

庭の菖蒲畑の花が綻ぶ頃でした。私は新しい単衣を造って下すったのを著て見ました。そのままじっとしてないで、縁先の下駄を突かけて、飛石づたいに菖蒲畑の傍まで来ましたら、生垣を潜って大きい犬が近寄って来ました。その時つぶてが、いきなり縁先から飛んで来て、私に当ったと思ったら、赤インキの壺でした。蓋が取れて、インキは私の上前一ぱいにかかったのです。「あ」という声が三個所から起りました。一番には私、次は縁に立ってこっちを見ていられた母、次は縁で机に向っていられたお兄様でした。私は呆れて泣きもしませんでした。お兄様は立上って、

「わるかったね。よくそこらを荒す犬が来たから、机の上の物を手当り次第に投げたら、運わるく赤インキだった。新しい著物だと喜んでいたのに可哀そうに。」

「なに粗末の品だからいいよ。」

母は何気なくいわれました。粗末でもなかなか衣類など新調するのではありませんから、さぞ困ったと思われたでしょうが、何があるのとも仰しゃいません。兄上には遠慮していられるのです。何品でしたか、鼠色で一面に草花の模様でした。袖口だけ残して、桃色の太白二本で、広く狭く縫目を外にしてありました。

「ほととぎす殺しという所だね」と次兄のいわれましたのは、後年その話の出た時でした。それは殿の愛妾ほととぎすを憎んで、後室が菖蒲畑の傍で殺すという歌舞伎狂言でした。立っていたのでインキは流れて裏には沁みず、裁縫の器用な祖母が下前と取りかえて、工夫をして下すったので、また著られるようになりました。

兄はその時写生をしていられたのです。松に石灯籠の三つもある庭を、正面から斜面から、毛筆で半紙に幾枚も画かれたのでした。一枚は貰って置きましたが、いつの間にか見失いました。遠い昔のお話です。

衛生学

私と兄鴎外とは年が十ばかり違いますから、物心のついたころは十五、六でしたろう。もう寄宿舍に入っていられました。西氏のお世話になられたのはその前です。私の記憶には何もありません。母や祖母がお国の話をする時に、梁田、水津、大野などの姓を聞くと、西氏の御親戚だと思う位でした。後に私は祖母に連れられて、西氏の三十間堀のお家へ泊りに行きました。夫人(石川氏)は佐佐木信綱氏の歌のお弟子でした。

西氏が前に家塾育英舍を開かれた時の通規に、「読書はなるたけ黙読せよ。昼日は時ありて朗読すとも可なり。唯隣座の凝念思索の妨をなすことを得ず」「人の傘笠を戴き、人の履物をはくことを許さず。紙筆、硯机、煙管、巾櫛の類より、炉中の火、硯池の水に至るまで、その主の許可あるに非ずして使用することを許さず」など、事細かなもので、門人ではなくとも置いて戴いて、外に人もいられたのでしょうから、若いお兄様には窮屈だったろうと思います。

次兄は十一、二歳の頃、漢学を習いに、因州の儒者佐善元立という人の所へ通っておりました。出来がよいと直に特別扱にされます。或日塾の祝日に本邸から藩主代理として来られた川田佐久馬氏が、次兄の態度が気に入ったとて話を進め、佐善氏の仲介で川田氏の養子にきまりました。川田氏は元老院議官で西氏ともお役向の知合です。ところが川田氏があまり次兄を愛されるので、あちらの親戚から故障が出て、譲与の契約の削減の事を仲介者の佐善氏から申されました。その態度に憤慨されたお兄様は、「譲与の額の多寡は問題ではない。男が一旦明言した事を傍の者のために左右せられるのは、弟の将来のために頼もしくない」と、直に川田氏を尋ねて破談を申されたのです。その話を父から聞かれた西氏は、

「なぜ早く聞かせなかった。何とか穏かな方法もあったろうに、何しろ林はまだ若いから」といわれました。

ほんとに兄は若かったのです。

やがて兄の洋行の時が来ました。その報告に父が伺ったら、西氏はひどく喜ばれて、「己も近頃は医者にかかるが、心安くしても相当の謝礼はする。経済上にもよい。専門は何か」と聞かれます。

「何か衛生学とか申しておりました。」

「そうか」と、さも残念そうでした。臨床的な科ならよいと思われたのでしょう。でも過分な御餞別を下さいました。

洋行して帰った時、早速縁談をいわれたのは西氏です。御養子紳六郎氏の姉君、赤松男爵夫人の長女で登志子という方でした。

「小さい時から知っている。林の嫁はあれに限る」といわれるのでした。

その話は順調に進んで、結婚の翌年男の子が生れました。若い方でしたが、お気の毒な結果になりましたのは明治二十三年の秋でした。そのお子が於菟さんです。

そのころ西氏は脳疾で、あらゆる御役を引いて、間もなく大磯へ引移られました。三十年の一月に大磯で薨去され、男爵を授けられました。兄が御遺族の嘱託によって、三月から筆を執って『西周伝』を草し畢ったのはその年の十月中旬です。

西紳六郎氏にお子さんがありませんので、赤松家の末男が今西氏の後嗣です。それは於菟さんの叔父に当る方でしょう。

寄席

千住大橋に近く野菜市場があって、土地の人はヤッチャ場といいました。その市場の左右に並んだ建物は、普通の住宅と違います。どれもがっしりした二階建で、下は全部が大抵、三和土になっていて、住いは二階です。二階は細い千本格子ですから、外はよく見えますまい。外から内はもとよりのことです。

市場の賑うのは朝だけです。近在から集まる農家の人々は、前日から心がけて、洗い上げた野菜を前晩に荷造して車に積上げて、被いをして置き、夜の明方に荷を引出します。ですから寒中には、霜が荷の上に光るのです。前を引くのは皆屈強な若者たちですが、後押しは若い女たちがします。一人ならず二人でもします。ちょいちょい坂もありますから後押も必要なのでしょうし、また毎日土にまみれて働く人々には、町中へ出るというのが楽しみでもあるらしく、女たちは皆小ざっぱりした支度で、足拵えも厳重に、新しい手拭を被り、赤い襷をかけて、ほの暗い道を、車を押して来るのでした。

私の家は北組といって、千住一丁目の奥深いところでしたけれど、まだあたりの白まない内から、通を行く車の音や人声が聞えます。五丁目から一丁目にかけては、市場へ行く重な道ですから、当然でもありましょう。北組をすぎて中組にかかると、市場も程近いというので、後押の人の中には引返して帰るのもあります。家にはまたそれぞれの仕事があるのでしょう。

Chapter 2 of 26
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