はしがき
我国の一大峡流である黒部川の全貌が完全に世に紹介されるに至ったのは、誰が何と言っても、これは立山後立山両山脈の山々と其抱擁する谷々とに限りなき興味を有し、就中立山連峰と黒部峡谷とを礼讃して措かざる冠君の数年に亘りて惓むことを知らない努力の結果であることは、動かす可からざる事実であり、又よく人の知っている通りである。されば纔に黒部の片鱗を窺い見たに過ぎない私などは、いつも之に対して感嘆久しうして止まないのであった。其当時はよく冠君の訪問を受けて、山の話に夢中になってしまった二人は、玄関に置いた靴や冠君の蝙蝠傘を盗み去られたことを、すぐ隣りの室に居ながら少しも知らずにいたことなどもあった。話の落ち行く先は大抵黒部ときまっていた。そして探検の度毎に同君の齎し帰る新しい黒部の秘境に聞き入りつつ私の心は躍った。しかし冠君のように時の自由を持たない私は、残念ながら同君と行を共にし得る機会は一回も無かったのである。
黒部峡谷は斯く大正の末期から昭和の初にかけて、始めて探られたものであるとはいえ、旧加賀藩の時代に於ても山廻り役なるものがあって、数年毎に黒部奥山を巡視し、其間黒部川の一部に触れたことは、記録に存しているし、又天保頃の作と想われる絵図に拠れば、祖母谷以下は流に沿うて道が開け、中流は平より御前谷の下手に至る路ありしものの如く、又針木谷の南沢を遡り、南沢岳より尾根を縦走して鷲羽岳に達し、黒部源流に下り、薬師沢を上りて薬師野(太郎兵衛平)を横切り、有峰を経て東笠西笠両山の間を水須に出る路程、及び平より本流に沿うて東沢に入り、之を遡りて前記の尾根筋に合する路が記入されている。この巡検は軍事上よりも寧ろ森林の監視が主要なる目的であったものと私は考えている。鐘釣温泉の湯壺に浸ったことのある人は、温泉の湧き出している洞門の岩壁が更に大きく穹窿状に拡がろうとする目の高さの処に、慶応三卯八月 山奉行辻安兵衛山廻伊藤刑部と書いた、かすかながらも残っている墨痕を見た覚えはないであろうか。此人々は恐らく最後の山廻り役であったろうと思う。私の北アルプスの旅には常に案内者であり、又冠君の黒部探検にも欠かさず案内者として、其成功に貢献する所の大きかった宇治長次郎の父は、山廻り役の人夫として同行したことがあるということを、同人からも弟の岩次郎からも聞いたのであるが、それがこの慶応の時であったかと云う事はさて措き、山行の様子などに就ても少しも知るに由なかった。
登山者の間で最も早く黒部下廊下の探究に心を惹かれた者は、私の知っている限りでは、友人中村君であった。而し斯ういう事には後になって其権利を主張する多くの人が現われて来るものであるし、又それが正しかった場合も稀にはあるから、私は自分の知っている範囲と断って置く必要がある。勿論黒部川を横断したり或は其一部を上下した人は、以前にも少くないが、これは黒部川が目的ではなかった。
中村君は大正四年の七月から十月まで鐘釣温泉に滞在して、画作の傍附近を跋渉し、其折案内者として同伴した音沢村の佐々木助七から、黒部に関する多くの知識を得て、益々下廊下探査の素志を堅くしたらしい。其後幾度か計画が立てられて私も之に与った。しかし予想以上に嶮難の恐ろしいものがあると思われた為に、容易に実行の運びに至らなかったが、遂に大正八年七月下旬を期して二人で之を決行することになったのであった。
今から当時を追想して見ると、私達の準備には多くの欠陥があった。綱なども三十米のものを一本しか携帯しない、夫も本式の物ではなかった。天幕も五人用のもの一張に過ぎない。それに中村君は油絵の材料を忘れなかった。これに身廻りの品を合せると、五人しかいない人夫の中から一人を要した程の重さであった。私達は何と暢気なことであったろう。これと云うのも前途に少しの油断を許さない、緊張した態度が絶対に必要である困難で危険な行程が幾日にも亘って続くであろうなどとは考えていなかったからである。つまり認識不足に陥っていたのであった。夫には理由がなくもなかった。私は曾て書上君から同君の訳した『マッターホンを争う』と題する書を贈られて之を一読し、気持が悪くなって読了するのが厭になったことを覚えている。今其轍を蹈んで、無邪気な山人の心を勝手に忖度し、而も夫を以て自己の不明を弁解するの具に供しようとすることは、真に恥ず可きの至りであるが、この際暫く読者の寛恕を得て筆を進めたい。
案内者助七の話では、平の小屋まで一週間あれば行けるとの事で、自身も一、二度通ったことがあるらしい口振りであった。但し断言はしなかった様であるが、余分の荷などを持って行ける所ではないという注意も、亦危険の程度やその場所に関して、具体的の説明若くは指示をも受けなかったので、私達の危惧と不安とは畢竟するに自己の想像の所産であるかの如くさえ思われた。唯仙人谷の出合で右岸に渡り、棒小屋沢(助七は之を東ゴリョウと呼び、それに対して劒沢を西ゴリョウと称していた。劒沢もツルギといわずツルガと発音した)を過ぎると再び橋を打って左岸に移るのであるが、此橋の打てるか打てぬかが遡行の可能不可能を決するもので、うまく打てればいいがと幾度も気懸りらしくつぶやくのであった。私達は仙人谷から先へは行かなかったので、其架橋地点が果して何の辺であるかを確め得なかったが、冠君の蹈査した結果から推せば、仮に架橋し得たとしても、左岸の山側を辿って平に出ることは、黒部別山を踰えでもしなければ不可能である。そして黒部別山に登ることも其辺からは絶望に近い。それで私は果して助七は平まで通ったことがあるのであろうかとの疑が後に生じたのであった。勿論山谷の跋渉に慣れ切った者が身軽で歩けば、七日で足りるにしても、荷物のあることを考に入れて、相当に準備することを怠ったものとすれば、案内者としては手ぬかりであったことを免かれないであろう。邪推すれば或は助七の黒部に関する既知の範囲は棒小屋沢附近迄に限られていたので、仙人谷まで案内して行程を打切る意図を初めから持っていたのではないかと想われるような曖昧な態度がないとは云えなかった。斯様な臆測はしかしよくない事だ。
此外私達の不注意からして人夫の調和が欠けていた事も見逃せない。黒部のような処へ入るには、谷歩きに熟練した者の一人でも多い方が心強い。それで多年同行して其技倆を信頼している気心の知れた大山村の宇治長次郎と、他に山田竹次郎の二人を呼び寄せた。助七は同じ村の佐々木作松と佐々木清助という二人の若者を連れて来た。勿論知らぬ同志であるから多少気まずい点はあろうと考えていたが、斯く迄に排他的であろうとは全く予想しなかった。例えば食料品を持った若者の荷は、日毎に其量を減じて、果ては殆ど空身にも等しくなるが、天幕や毛布などでいつも重い長次郎等の荷を分担しようとはしない。私は見兼ねて或朝、どうだね少し分けて貰ってはと言うと、助七は気色ばんで言下に「お前等荷を分けた時に、どれを背負うかと聞いたら、それを背負ったのではないか、初からの約束だ」とはねつけたような次第であった。
案内者として頼みに思う助七であるから、黒部といえば自己の領域ともいう可き強味さえ加わって、我意に募ったとて止むを得ないにしても、目的達成という見地からすれば、可なり重大な関係のある事であるのに、夫に就ては何の顧慮も払われていないらしいことが分ったので、私の心は暗かった。
身贔屓な助七の言動につれて、二人の若者までも長次郎等を侮っていた。無口で暢気ではあるが、山や谷歩きにかけては誰に劣る可くもない自信のある長次郎は、心の中ではさぞ癪に触っていた事であろう。口数の多い助七の前に、温和しい長次郎は愈々無口となって、如何にも無能らしく唯黙々と随伴するのであった。
一度、仕合谷の南を限る山の鼻を踰える際、崖を下って汀を辿れば三時間も近廻りとなるというので、私は下ろうではないかと長次郎に勧めて見た。ここで長次郎の技倆を発揮させて見たいと思ったのである。上部は幾分オーバーハングしてはいるが、四、五尺下に離れて、別に足場の確かな岩壁が屹立している。いつもの長次郎ならば、上を廻ろうと言っても「なに案じはねえ」と自ら進んで下ることを主張する筈であるに拘らず、例になく「荷は重いし、慣れぬ人夫衆が居るだで」と浮かぬ顔して断った。従順を装う彼の心の底から「今度はおとなしく何処までも引込んでいるぞ」と固き決意の閃きを感じて、これはしまったと思った。両雄併び立たず、私は流を見詰めたまま暫く憮然としていた。二人を一緒に連れて来た事が間違っていたのであった。それは兎もあれ助七が初めて私達を比較的困難なく仙人谷まで導いて呉れた功労は、之に依って没しさる可きものではない。私は今も深く感謝の意を表している。
此年は又丁度古河合名会社で、餓鬼の田甫から棒小屋沢までの路を作る最中であった。この一行には黒部の紹介に力を入れていた『高岡新報』の記者が同伴して居たらしい。それで私達を恰も競争者であるかの如くに思い違え、且一行の案内を頼まれた助七が夫を断って置きながら、先約ではあったが、私達の案内者となったことも刺戟となってか、よくは知らないが何かと盛に書き立てたそうである。このはしがきは当時を記憶している人の参考ともなるであろう。