4
「何、こつたらもの!」
*
二人は、畑道に出た、源吉はこんなに澤山とれるとは思つてもゐなかつただけ、子供のやうに上機嫌でゐた。が、勝はビク/\してゐた。この歸り道で、もし、出合頭に役人に會はないか、そのことで、勝の心は、後首でもひつつかまれてゐるやうだつた。何處もまだ/\暗かつた。だしぬけに牛が、すぐ側の眞闇から起つたとき、勝は、聲を出すところだつた。
前から提灯が見えた。
「源、提灯。」勝は後から源吉に言葉をかけた。
「うん。」源吉は、すぐ道を外れて、畑の中に入つて行つた。十間程道から離れると、立ち止つた。二人はさうやつて提灯を行き過ごさした。じつと見てゐると、何處を見たつて一樣に眞暗な、ところが、提灯の動いてくる、火のとゞく一部分だけが見えた。草藪がちらつと光つたと思ふと、すぐ、道の兩側の畑の一部が見えたり、道の水たまりが見えたり、提灯がゆれると、その見える處が左に或ひは右に廣くなつたり、狹くなつたりした。
行き過ぎると、二人は又道に出た。
「役人なんて、提灯ばつけてくるけア。」と源吉が笑つた。
「んだら、なほおつかねべよ。鼻先さぶつつかるまで、分らねえでないか。」
「んだら、こら。」さう云つて、身體を半分後にねぢ曲げて、勝の鼻先に、さつきの棍棒をつき出した。「これよ。」
勝は、その棍棒から血なまぐさい臭ひがその時來たのを感じた、と同時に、ギヨツとした。
「馬鹿な!」勝は自分でもをかしいほどどもつて云つた。
「この村で、これで三ヶ月も一疋の魚ば喰つたことねえんだど。こつたら話つてあるか。後さ行つて、川ば見てれば、秋味の野郎、背中ば出して、泳いでるのに、三ヶ月も魚ば喰はねえつてあるか。糞ツたれ。そつたら分らねえ話あるか。それもよ、見ろ、下さ行けば、漁場の金持の野郎ども、たんまりとりやがるんだ。鑑札もくそもあるけア。」
勝はだまつてゐた。
源吉はさういふ事になると、心の中から、ヂリ/\と苛立つてくる不思議な怒りを感じた。こんな時役人にでも會つたら、彼は、鮭殺しに使つた棍棒をきつと、そいつの腦天にたゝきつけたかも知れない。
「俺、すきこのんで、こつたら事すると思つたら、大間違ひだで!」
勝は源吉には變に、「底恐ろしさ」があるのを知つてゐたので、それを思つて、恐ろしくなつた。役人に會はないでくれゝばいゝと思つた。それは、役人に會へば、源吉がきつと、――本當に、きつと――役人を打ツ殺す、と思つたからだつた。
勝は源吉のことで知つてゐることがあつた、それが今思はれた。餘程前、源吉の父親が内地からはる/″\この熊の出る北海道に渡つて來て以來、身體を土の上にえびのやうにまげて働きに働きつくしたお蔭で、やうやく一人前の土地になつた、――その土地をある金持のために押へられたことがあつた。その日になり、どうしても駄目で、その金持の手に渡さなければならなかつた。父はがつくりして、頭が痛いと云つてゐた。
金持や役人などが二、三人どし/\入つてくると、父親に、ある書面に印を押さした。父親はまるで、ぼんやりして、印をとりに奧の間に入つて行くのに、その障子の前で、何かものでも忘れたやうにウロ/\した。
丁度父親が印を押した時だつた。その書面の上に、身體をまげて、その方にばかり氣をとられてゐた金持が、うむツ! と云つて、後へふんぞりかへつた。皆はびつくりして、はね上つた。と、その時十一、二であつた源吉が、金持の足にだきつきながら、その毛のない脛にかじりついてゐた、のを皆は見た。身體をひきつけのやうに震はして、眼の色をかへながら、源吉が喰らひついてゐた。父親や役人が吃驚して、いくら離れさせようとしても、離れなかつた。大きな男の金持は、ワナにかゝつた兎のやうに、身體をごろ/\のたうつた。大聲をあげて泣きわめいた――。
それまで――その日まで、源吉は一言も、畑のことについては云ひもしないし、父親が心配してゐるときでも、別に變つたことがなかつた。たゞ、かへつて何時もよりは無口に、おとなしくなつてゐた。それが、さうしたのだつた! この事件には隨分尾鰭がついて、部落内にひろまつた。勝もそれをきいた。
源吉は何か事件があつても、じつとしてゐた。他の者なら、それについて何か云つたり、云ひあつたりする。源吉にはそれがなかつた。そして他のもの等が、その癖、結局は何もせず、ワイ/\してゐるとき、ノソ/\と出掛けて行つて、獨りで、とてつもない大きなことを仕出かした。歸つてきて、しかも、そのまゝ、そのことは一ツ言も云はずに、むつしりしてゐた――かういふことがいくらもあつた。ウスのろだから、さうではなくて、何か、深い、しつかりしたのがあるので、さうなのだと、勝には思はれた。
今、勝は、だから若し、源吉が役人と、ひよつこり會つたとしたら、勝はすぐ昔金持の脛にかぶりついた源吉であることを考へ、源吉が、あの棍棒で、てつきり、やらかすとしか思はれなかつた。それがまるで、「恐怖」のさそりみたいに勝の心にかぶりついてしまつた。
二人はだまつて歩いた。ぬかる道を歩く足音だけがピチヤ/\/\と續いた。それが時々、くぼみに足を落して、身體を前のめりにのめらせたとき、亂れるだけだつた。さうしながら、勝は(勿論源吉も)前の方に氣を張つてゐた。勝が自分の家に來たとき、身體から急に力が拔けて、ヘナ/\になる程、氣を使つてゐたことを知つた。「助かつた」と思つた。
「一年振りだべ。ほら、お母ば喜ばせてやれよ。」
源吉はさう云ふと、もう勝には見えなかつた。足音だけが暗闇でし、それが、一寸聞えてゐたが、ぽつちり消えてしまつた。草原のある路を曲つたらしかつた。
それから、勝が裏口にまはつた。裏口のすぐ側にある納屋に、自分の荷物をおろしてゐると、誰かぬかる道を歩いてくる足音をきいた。勝は、自分の身體が丸太棒のやうに、瞬間、なつたのを感じた。
「勝。」――源吉だつた。
勝は、分つても、然し、すぐに口に言葉が出なかつた。「――源吉――か。」
「うん」さう云ふと、のそりと大きな身體が、源吉――か、と云つた言葉をたぐつて、寄つてきた。
「あのなア、朝になつたら、お前え、こつから川岸の家まで、一匹づゝ配るんだど。さうせ。誰も食はねえでるんだから。――買つて來たツて云へば、それでえゝ。俺の方は石田の方まで分けるよ。當り前の事だんだ! なあ。」
「うん。」
「分つたべ、んだら、行ぐど。」
そして歸つて行つた。
勝には、何か、かう力強い、一つ/\どつしりした足音であるやうに思はれ、源吉のもどつて行くのを、じつと聞いてゐた。
三
雪が今にも來る、さういふ天氣と思はれたのが、上つた。
秋の終りの、空が高く晴れた氣持のいゝ日が、それから續いた。
畑も、草原も、稻村も、林も、西の方だけに、遠くに見える低い山脈も、皆狐色になつてしまつてゐた。それが、澄んだ青空にくつきり對照されて、涯もなく廣がつてゐるのを見て、百姓たちは何んだか、目新しい、急に見せられたものゝやうに思つた。
今度は本當にくる冬のために、村の人達が畑に出て仕度をし始めた。雜穀を背負つて、停車場のある町まで出て、それからその近邊をふれて賣つて歩くために、娘達が四、五人朝早く荷馬車に乘つて出掛けて行つた。お文もそれに加はつた。キヤツ/\と馬車の上で騷ぎながら、農家の前にくる毎に、一軒々々外から言葉をかけた。その女達は暗くなつてから、腰卷や襦袢の布などを買つてもどつてきた。いゝ聲で、何人もで、歌をうたつてくるので、それとすぐ、家の中にゐる人には、
「あ、今歸つてきたとこだなア」と分つた。
停車場のある町から、荒物屋の小僧がよく、田舍道を自轉車に乘つてやつてきた。畑で働いてゐる百姓達は、その度に腰をのばして、見た。小僧は時々言葉をかけて行つた。
漬物の仕度をする女達は石狩川の堤を下りて行つて、拔いて來たすぐの土のついた大根を、繩ツ切れでこしらへたたはしでごし/\こすつて洗つた。そこは、河の曲り目などで、水流の關係で、砂洲になつてゐた。堤の上で働いてゐる百姓に、そこから、色々の女の歌が聞えてきた。
山方面に出來た農産物、――主に、青豌豆など――を運ぶために、發動機船が、うるさく音をバタ/\たてゝ流れに逆つて河を上つて行つた。子供達は、その音が、遠くから少しでも聞えると、どん/\川岸の道を走つた。そして、川岸の堤に腰をかけて、足をブラ/\させながら、發動機船の通るのを待つてゐた。子供達は天氣さへよければ、いつでもそれをした。發動機は「上り」だと、音ばかりして中々見えなかつた。然し河が曲りくねつてゐるので、かへつて思ひがけなく、ひよツこり現はれることがあつた。子供達が、喜んで、手をふつて、「萬歳」などゝ云つた。と、船から、青い、油じみた服を着た人が、時々帽子を振つた。子供達が、然し、いくら萬歳などゝ呼んでも、船から誰も相手をしてくれないと、彼等は、つまらなさうに、だまつて、その後を見送つてゐることもあつた。發動機は荷物を積んだハシケを引張つてゐる時は、シキリなしにバタ/\やりながら、その度に身體をエンサ/\といふ風にゆすつて、進んでゐるとも分らない程の早さで、子供達の前を通つて行つた。「あら、モーター、汗かいて、ハアハア云つてる。」――子供達がさう云つた。
由が隣りに坐つてゐる仲間の手をつかんで、自分の心臟にあてさせ、「分るべ。ドキ/\つて云つてるべ。」と云つた。「あのモーターの、バタ/\ツていふの、人間のこれど同んじだつて、うちの姉云つてたど。」
皆は「んか」「んか」と云つて、てんでに今度は自分の胸に手をあてゝ見た。そして「んだ。」「んだ。」と云つた。
發動機船が通り過ぎると、子供達は、畑にゐる親達に、手傳ふために、てんでに走つて行つた。
二、三日して、小學校に、町からワザ/\呼んだ坊さんの説教があつた。それは、この一帶の地面をもつてゐる親方が、百姓の精神修養のために、一年に二度必ずそれをやつた。年寄つた百姓達はそれを待つてゐた。そして、かういふ事をしてくれる地主を、有難い方だ、と云つて、喜んでゐた。地主は、その度に若い娘にも「必ず」出るやうにと云つた。だから、若い男もそれに引かれて行くこともあつた。
その日になると、何十年といふ百姓仕事で、風呂敷のやうに皺くちやになつた、曲つた錆釘のやうな年寄が、朝から、各誘ひ合つて出掛けて行つた。表へ小便にも行けない老婆も、行かなければならないものだとしてゐた。七つ、八つの小娘や、十七、八の女が手をひいてやつた。それで眞黒い顏に、不似合に綺麗な赤の目立つ着物を着た人達が、畑と畑の道路に見えた。
源吉の母親は、自分の夫が死んでからは、説教は決して缺かさなくなつた。娘のお文をも、その度に、連れて行きたがつた。が、お文は相手にしなかつた。「罰當り奴」と、母が云つた。
説教が始まる頃、學校の、机や椅子をとり除けた教室が一杯になつた。集つたどの百姓も長い苦しい生活でどこか、無理矢理にひし曲げられたところがあつた。――どこか片輪だつた。年寄は、土から出てきた蟇のやうだつた。皆、久し振りで顏を合はせるものばかりだつた。同じ處にゐてさう會ふことがなかつた。色々な話が出た。煙具を出して、煙草を喫ふものもあつた。一緒に來てゐる孫達がお互にいたづらをし合つたり、年寄の圓い背を跳ね越して騷いでゐた。變に甘ずつぱい空氣で、教室がムンとした。
坊さんは、こゝから四里ほどある村(それはこの東村よりもつと村らしい村だつた。)から來ることになつてゐた。坊さんは衣を着たまゝ自轉車に乘つてきたり、箱のついた荷馬車に、座布團をしいて、それに乘つてくる事もあつた。今度は、雨が上つたばかりなので荷馬車で來た。眼のひつこんだ、眉の濃い、そのくせ頭がてらりと禿げた、背の低い四十を越した男だつた。ザラ/\した聲で、大聲で説教をした。説教をしながら、たえず落着きなく、そのひつこんだ眼でギロ/\、あたりを見はす癖があつた。――その、この前來た坊さんと同じ坊さんだつた。
村の百姓達は、坊さんの云ふ一言々々に、「南無阿彌陀」を云つて、ガサ/\した厚い、ひびのよつてゐる掌でじゆずをならした。