Chapter 1 of 3

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――私はたいていうなだれて、自分の足もとばかり見て歩いていた。けれども自分の耳にひそひそと宿命とでもいうべきものを囁かれる事が実にしばしばあったのである。私はそれを信じた。私の発見というのは、そのように、理由も形も何も無い、ひどく主観的なものなのである。誰がどうしたとか、どなたが何とおっしゃったとか、私はそれには、ほとんど何もこだわるところが無かったのである。それは当然の事で、私などには、それにこだわる資格も何も無いのであるが、とにかく、現実は、私の眼中に無かった。「信じるところに現実はあるのであって、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」という妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いていた。(太宰治「津軽」)

私は昭和二十三年の六月十六日に、「ダザイオサムシンダ」という電報を受取った。私は北海道の夕張炭坑にいた。そこでは、その翌日の新聞に初めて記事が出た。死体はまだ見つからぬという記事であったが、私は死んだと思った。十八日の朝夕張を立った。二十日の朝上野に着いて駅前で新聞を買った。死体が発見されたという記事が掲載してあった。三鷹の家に着いて、飾ってある、あの暗い眼差しをした太宰さんの写真を見た。

私は一年半、太宰さんに会っていなかった。二十二年の一月の末に、私は北海道へ行った。私は太宰さんがはじめ甲府に、その後金木に疎開中、ずっと独りで三鷹の家に留守番をしていた。二十年四月から二十一年十一月までの期間である。二十一年の十一月の中旬に、太宰さんは金木を引き上げて、また三鷹の家に戻った。私は二月ほど同居して、北海道へ行った。行く前の晩、三鷹の映画館で一緒に映画を見た。翌朝、出かける時には、雑誌記者の客が来ていた。「では、行ってきます。」と云って、私は玄関に出た。そのとき奥さんがふと思いつかれて、ちり紙の束を私に渡した。私は障子のかげで、「躯に気をつけて。」と云う太宰さんの声だけを聞いた。それが最後になった。

同居していた二月の間に、奥さんの親戚にあたる少年で入院した人がいて、手が足りないため私が附添として行き、しばらく病院生活をしたことがある。同室の附添人に面白い年寄りの女の人がいたが、私が冗談を云うと、腹を抱えて笑った。三鷹の家に帰ってから、私が土産話のようにその話をして、「僕がここを先途とバカなことを考えて話をすると、みんな大笑いをするんです。」と云ったら、太宰さんは目を光らせて、「君は僕たちをちっとも笑わせてくれないじゃないか。笑わせてくれよ。」と口を尖らせた。十年の師に対して、私がいつも飼われたばかりの犬のような顔をしているのが、物足りない気がしたのであろう。私が附添をしていた少年は、入院してから目方を量る度毎に体重が増えていき、食慾もあって、その後の経過は順調であった。私が「やっぱり板前がいいせいでしょうね。」と自慢顔をしたら、太宰さんは顔を綻ばせて、「いや、それは必ずや抵抗療法というものに違いない。小山の板前じゃ思いやられるよ。」と応酬した。二人で夜帰ってくる道で、「家庭というものはいいものだよ。」と私に云ったこともある。

北海道へ行ってから、私は長い間便りをしなかった。私の筆不精からであったが、一つは躯を悪くして生活が順調に行っていなかったので、つい便りをする気にならなかった。

しばらく御無沙汰をしていたが、太宰さんの許に預けてきた私の原稿の一つが、ある雑誌に採用になった時、太宰さんから葉書をもらった。その稿料を送るについて、私の住所を確めるものであった。「塚より外に住むばかり」という文句があった。私は電報為替で至急送金してくれるように電報を打った。「コウビン」としたが、それっきり手紙も葉書も出さなかった。電報為替が来ないので、私は重ねて催促の電報を打った。それには「ヤマイ」と書いた。日を置いて、太宰さんからは為替を封入した書留が届いた。

それは、私が北海道へ行った年の八月のことであった。私は夕張炭坑の坑夫になっていたのだが、五月からずっと仕事には出ず休んでいた。心臓が悪いので、労働に堪えられなかった。病名は「僧帽弁閉鎖不完全症」という大層なものであった。病院通いはしていたが、いつになれば働ける躯になれるというものではなかった。私はいつか麻雀賭博に耽けるようになった。病みつきになってしまって、毎日町の麻雀屋に入り浸った。私は配給になった衣服などを売ったり、借金をしたり、無理算段をして続けた。私は元手の金が欲しくて、夢中になっていたのである。初めて採用になった原稿であり、また初めて得た稿料であったが、私はそれほど嬉しくなかった。私にはそれを嬉しく思う心の余裕がなかった。太宰さんにもまたその雑誌の編集者にも、お礼は云わずじまいであった。送ってもらった稿料は焼石に水のようにすぐ消えてしまった。

その後十一月の末に、同じ寮にいた少年で廃業して内地へ帰るのがいて、三鷹に寄るついでもあったので、私は手紙を託す気になった。その手紙で、北海道へ行ってからの身の上を初めて知らせた。また私のつもりでは、少年の口からこちらの様子を聞いてもらえると思っていた。けれども、少年は太宰さんに会わなかったようである。単に留守宅に手紙を置いてきたに、止まったようである。いまから思えば、それも無理からぬことである。手紙に喀血したと私は書いたが、それは喀血と云うほどのものではなかった。血の唾が出たのを誇張して云ったのである。物と交換するのだからと云って、きざみ(煙草)を送ってくれとも書いた。

少年が立った翌日、未知の青年から手紙が来たが、それは私の原稿がまた一つ採用されたのを知らせてくれたものであった。私はそのときは嬉しかった。自分の書いたものが陽の目を見ていく嬉しさを味った。私は太宰さんに追いかけて葉書を出した。お礼を云い、それから、稿料を立替えて送ってくれなどまた書いた。私は困ってもいたから。私は麻雀は義理悪く勝負の負債を残したまま止めてしまっていたが、相変らず仕事には出ず休んでいた。日を置いて、太宰さんから返事の葉書が来た。それを見ると、太宰さんも大変な様子であった。稿料のことは雑誌社に至急送るように云ったと書いてあり、これにも亦、塚より外に住むばかりとしてあった。私が北海道にいる間に太宰さんからもらった便りは以上の二通だけである。

逝くなられたので上京したとき、三鷹の家で、机のわきにある馴染の小抽出の中に、私宛の出さずにしまった葉書のあるのを見つけた。私が電報を打った当時のものであるが、夢は枯野の状態という文句がある。

夕張は山の炭坑町なので、雑誌など思うようには手に入らず、太宰さんのその後の作品もろくに読んでいないので、簡単な葉書の文面だけでは様子も知れなかった。太宰さんはふだん軽く冗談のような物云いをするので、こちらもつい軽く聞き流してしまうことがある。もらった葉書のどっちにも判で押したように、塚より云々としてあるのを見て、私は変な気持がした。無心除けのお呪いではないかと僻んだことを考えたりした。二度目の葉書には、病気になった上に、女の問題がいろいろからみ合い、文字どおり半死半生の現状也など書いてあったが、私はそれを半分は惚気だと思った。それでも私は心配にならないことはなかったが、遠く離れ過ぎていて、飛んでいくというわけにも行かなかった。私は「塚より」も「病気」も「半死半生」も、それを文字どおりに取らなかった。割引して軽く考えていた。いまにして思えば、太宰さんとしては、相当弱音を吐いていたわけなのである。青年の手紙には、太宰さんが私の病気を心配していると書いてあった。電文の「ヤマイ」を心に懸けていてくれたものと見える。その後の「喀血」も文字どおりに取ったようである。二度目の葉書には「恢復を祈っている」と書いてあった。

太宰さんの許にある私の原稿がまた一つ売れて、私は編集者から手紙をもらった。二十三年の五月の中頃であった。その頃私はどうやら一息ついていた。私はその三月から、坑内に新設された道具番に職を得て、働きに出ていた。労働をする仕事ではないので、私にもやれたのである。この分ならばもう一、二年は頑張れると思い、そのつもりになっていた。私はあんな僻地にまで行って、一年を有耶無耶のうちに過ごしてしまったが、それでも新しく出直したいと思っていた。私はその便りを太宰さんにしようと思いながら、筆不精からつい億劫にしていた。私は少年に託した手紙では、自分の躯ではこちらに長くいるというわけには行かないので、来年の九月頃までには内地に帰りたいと伝えていたのだ。太宰さんから来た葉書には、それに対する返事としては、東京の生活難は、いよいよひどい、貸間の権利金一万円などと言っているとだけしか書いてなかった。私は編輯者から手紙をもらった機会に、また便りをしようと思いながら、また出しそびれてしまった。気不精、筆不精というものは仕方のないものである。出しそびれているうちに電報が来た。

私は遠く離れていたので、太宰さんの最後の時期の生活を全然知らない。上京して、逝くなられる前の写真を見たが、どれも、なんて悲しい顔をしているんだろうと思った。

死ぬ前に一度会いたかった。

太宰さんの仕事部屋には、私の原稿を包んだ紙包が残っていた。表には北海道の住所と私の名が書いてあった。私にとっては未知の女性の筆になるものであった。見覚えのあるものではなかった。

私は太宰さんが逝くなられた年の十月の始めに、東京に帰ってきた。少年に託した手紙で、太宰さんに云ったような工合になった。

私は東京に帰ってきて、昨年の十一月まで、板橋区のはずれの成増に住んでいた。裏はすぐ小川を隔てて埼玉に隣りしているような閑静な処である。いい天気の日など窓をあけて外を眺め、ああこんな日は三鷹訪問なんだがと思う。外を歩くとあちこちに新築家屋が見られる。こぢんまりした三間位の家が多い。庭先に山吹の花なんか咲いているのを見かけると、私はと胸を突かれる。しめきった障子の静かなたたずまいに気を惹かれ、すぐには去り難い思いのすることがある。太宰さんを訪ねるようになった頃の三鷹の家のことが思われてならないのである。

私が初めて太宰さんを三鷹の家に訪ねたのは、太宰さんが甲府から三鷹へ移った翌年で、昭和十五年の十一月の中旬であった。ちょうど太宰治さんが新潟の高等学校から招かれて、講演に行く直前であった。

私はその頃、下谷の竜泉寺町にある新聞店の配達をしていた。太宰さんを訪ねる前の晩、私は吉原の馴染の女の許へ行った。部屋で女の来るのを待っている時間に、私は唐突に明日太宰治を訪ねようと心をきめた。そのとき女は少し私を待たせすぎたのである。私は前に、砂子屋で発行した「女生徒」の奥附に甲府の御崎町の住所がしるしてあるのを見て、甲府へ行ってみようかと思ったこともある。その後、新聞の消息欄で三鷹へ移られたことを知り、その住所を書きとめて置いた。私にはよそゆきと云っては久留米絣の袷があるきりであったが、それはいつも質屋の蔵に入っていた。私は太宰さんを初めて訪ねるに際して、その袷を着て行きたいと思ったが、質受けの金の都合がつかなかった。止むを得ず、ふだんのジャンパー着のままで出かけた。私は思いたったことは短気に実行せずにはいられない性分なのである。三鷹で下りると、駅前に同業のA新聞の店があったので、早速そこでおおよその道順を訊いた。それでも、尋ねあてるまでにはかなりまごついた。

玄関の戸をあけて、「ごめん下さい。」と云うと、すぐ太宰さんが立ちあらわれた。蓬髪、長身であった。「初めてお伺いした者ですが、ちょっとお目にかかりたくて。」と云うと、かるくうなずいて、「お上がり。」と云った。私は上がった。私が黙っていると、「三鷹ですか?」と云った。「いいえ、下谷です。」と私は云った。太宰さんは少し怪訝な面持をした。そして、下谷には砂子屋と云う本屋がありますねと私がそれを知っているかどうかを確めるような調子で云った。それから、「尾崎一雄がいますね。」と云った。下谷には尾崎一雄がいるのに、なんで下谷の住人がはるばると三鷹くんだりまでやってくるのかという口ぶりであった。私が持参の原稿を取り出したら、太宰さんは興覚め顔をした。それでも、私の原稿が鉛筆書きなのを見て、自分も鉛筆を用いたことがある、しかし鉛筆は疲れるような気がするとも云った。話のとぎれた瞬間に、太宰さんは一旦傍に置いた私の原稿を取り上げて、書き出しの二、三行を読み、うなずいて、「いいものかも知れない。」と云って、また傍に置いた。しかし太宰さんが読んだのは私の文章ではなかった。私は自分の作品のエピグラフに、かつて愛誦していた「絵なき絵本」の一章を抜萃していたのである。私はちょっと可笑しさを感じたが、べつに断りはしなかった。後で知れることである。「原稿を読んだら、葉書をあげますから、そのときまた来給え。」と太宰さんは云って、私に所書を書かさせた。私がY新聞内と書きかけたら、太宰さんは顔色を曇らせたように見えた。ともかく太宰さんが一寸表情をしたのが、俯むいている私にもわかった。私のジャンパーの胸部にはY新聞のマークが着いていたのである。

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