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リギ山上の一夜
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リギ山上の一夜
斎藤茂吉
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Chapter 2 of 2

二

帰って来て見ると、部屋は正方形ではなく角のところが少しく欠けている。その部屋に小さい寝床が二つ並んでおり、円い卓が一つと、椅子が三つばかりある。

僕は外套を著、頸に襟巻を巻いて、窓の玻璃に顔をおしつけるようにして山を見ていた。山は旅舎から南方に畳なわるもので、近いところから段々奥の方の山になると既に白い雪が降って水晶の結晶群を見るようである。窓の玻璃が僕のつく息で曇るのを、僕は手の掌で拭いた。

太陽は右手の山の向うに没したらしく、山の色が刻々に変って行った。それから下の方にある湖水の一部分が鉛のように見えたり、深い蒼色に見えたりしているうちに、雲が幾通りにも湧いて来て湖の方へ沈んで行った。暮色のおのずから到ったころ、窓の下を太いズボンを穿いたひとりの若者が煙管をくわえながら通るのが見えた。

そうして僕は沈黙して小一時間も山嶽を見ていただろう。妻は妻で、山嶽などは見なかった。外套を著たまま妻は両手を円卓に突いて顳のところをおさえているうちに自然と両眼を瞑っただろう。山上のこの部屋の小一時間は、二人に調和があるようでもあり、ないようでもあった。

そのうちに電気燈がともった。二人は思出したように相顧みて外套をぬぎ、幾らか儀容をただして食堂に下りて行った。食堂は大広間で立派であった。真夏の頃はこの食堂に客が一杯になるらしいが、きょうはせいぜい三組か五組しかいない。僕らは窓際の食卓に就くと、給仕は其処に電気暖炉を持って来てくれたりした。

料理は凝った旨いものを食べさせた。二人は、白葡萄酒などを飲み、しばらくぶりで静かな夕餐をしたのであった。それからサロンに行って新聞などを見、きょう立ってこの山上にのぼって来た道筋だの、明日立ってこの山をくだる旅程だのを話合った。それから生れ故郷の誰彼に便りを書こうとしたが、ただ独逸にいる一人の友に絵ハガキ一枚書いたに過ぎなかった。

差向き僕らは体の疲を休めようと欲してサロンを辞した。そして廊下で一人の女中に通り過がったが、その女中は僕らに会釈をして通って行った。さらに部屋に帰って見れば、「籠る感じ」である。邪魔するもののない気安さと落付があるに相違ないから、ふたりは突慳に相争うようなことはなかった。けれども今此処を領している静寂はついに二人に情感の渦を起させることがない。ふたりは暫らく無言で部屋のなかにいたけれども、僕は今度は服を脱して床のなかにもぐり込んだ。

そうすると床のなかに湯婆が入れてあった。「おや湯婆が這入っているぜ。……やっぱり山中は何か工合のいいところがあるな」そんなことを僕がいって、足で触ってみると民顕あたりの湯婆とは感じが違うから、引出すと徳利のような恰好をした湯婆であった。

「あたしの方にも入れてあるかしら」

「あら、やっぱし入れてあるわ」

「これはまた妙ね。お酒か何かの入物じゃないの」

「そうだわ。此処に何か号があるんじゃないの。これはまた妙ね」

僕の妻はそんなことをいいいい、徳利のような湯婆を元に戻して、それから何かしている様子であったが、自分の床に這入って行った。僕は初めて維也納で冬を越したとき、宿の婆さんに頼んでようやく四角なブルキ製の湯婆を見付けてもらったのであったけれども、それではやはり駄目であった。そこで僕は欧羅巴の人々は湯婆を余り用いぬものと観念して、冬の夜を宿に帰って寝るまでは大部分カフェで過ごすようにしたのであった。しかるに独逸の民顕に来てみると此処には完全な銅製のものからブルキ製のものまで湯婆が揃っており、また机に向っていて足を暖める電気為掛の装置も出来ていたので、僕は寒さの厳しい民顕の冬を凌ぐことが出来た。

電燈を消してから暫くになるが、妙に僕の目が冴えている。夜は静かで、沁み透るようである。虫の音なんかも聞こえず、雁のこえなんかもしない。妻はいつの間にか幽かな息をしながら寝入ったらしい。

湯婆に触って見ると未だ冷めずにいる。観念のつながりは、所詮僕の妻は、天竺のむかし難陀の妻孫陀利のようには行かぬということに落ちて行った。しかし大迦葉は、清浄な顔をしていた妻の妙賢女と合会することなしに十二年を経たとも聞いている。僕の観念のつながりはそういうところにも落ちて行った。さて僕はやや諸国を遍歴して今アルプス山脈の中にいるのであるが、日本の国土にいるような気もしている。その差別は今の瞬間にはない。

僕は一ねむり二ねむりもしたと思うけれども未だ眠から醒めていない。その時に既に角笛は鳴りはじめていた。はじめのうちは半ば夢のような状態で、間の延びた物哀な角笛の音律を聞くともなく聞いていたのであったが、意識がようやく醒めて来るに従って、節まわしが少し巧者過ぎるから喇叭ではないか知らんなどとも疑ったりした。

けれどもそれは普通の喇叭などでなかったから、目ざめて見れば二たび僕らをばアルプス山上の気持に引戻すのであった。程経て僕らは起きた。それからなるべく寒くないように著込んで階段をのぼって行き、東方にむかう窓のところに佇立して、いまだ黒く明け切らない、山脈の上の空がほんのりと黄色いのを見ていた。

変に凝った雲のかたまりが少しずつ動いているらしく、その上方の鋭い山脈の色合が黒から藍と変って来ても、西洋人どもは誰ひとり見に来なかった。そこで僕は部屋に行って毛布を持って来、二人はそれで寒さを防ぎながら随分辛抱づよく其処に立っていた。

そこで、つまり僕たちふたりは障礙を微塵も受けずにアルプス山上の美しい日の出を見たのであった。僕は独逸文学のことは好く知らずにしまうが、その中には日出写生のいい文章は幾つかあるであろう。山上の美しい日の出は、いわば劫初の気持であり、開運の徴でもある。それに較べると、現に連れ添うている、我執をもつ僕の妻なんかは、実に奇妙な者のような気がしたのであった。

●図書カード

Chapter 2 of 2
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