9.魔の呼び声
――付,幻聴・幻視などのこと
山中で聞く怪しの呼び声
山の中などで何者とも知れぬ者に呼ばれることがある.そういうときは,すぐに返事をするものではない.最初は聞き流し,二度目にも聞き流し,三度目に,いよいよ人間の呼び声だなと分ったら,はじめて返事をする.それも,山の中では特別のことばを使う.ふだん里で人を呼ぶときには,名を呼んだり,「アイロー」(おーい)とか「エカチー」(おーい)とか言って呼ぶのだが,山の中ではかならず「ハンペー」と言って呼ぶ.また返事をするのにも,里では「ホーイ」とか「オーイ」とか答えるのだが,山の中ではやはり「ハンペー」と答える.「ホーイ」「オーイ」などと答えると,魔にもその意味が分って,人間の方へやって来る.ところが,「ハンペー」では何のことか分らないので諦めて行ってしまう.これは北見国美幌部落で使う山ことばだが,胆振国穂別部落では「カッチー」ということばを使う.
(kampe は「父」,kati は「せがれ」の訛り)
神々の名を呼びあう声
山の中で,自分の名ではなく,誰か知らぬ人の名が呼ばれるのを聞くことがある.それは実は神の名で,神々が山を隔てて名を呼びかわしているのだ.そういう名を聞いたら,それを自分の子どもにつけるとその子は長命を保つという.
そら耳ということ
何かしているとき,ふと自分の名を呼ばれたような気のすることがある.方言によって「オア・イヌ」「オワ・イヌ」「オハ・イヌ」(空聞きの意)などという.これは,あの世の人にも,この世の人と同じ名があるものなので,あの世の人々どうしで名を呼びあっているのだ.そういうのを聞いて,うっかり返事をしたときは,かならず改名しなければならない.
イコトナシ婆さんの横死
明治のはじめ頃,美幌の部落にイコトナシという婆さんがいた.その婆さんがある日,引網をしていると,イコトナシと呼ばれたような気がしたので,うっかり「ホオ?」と返事をしたら,誰もいなかった.ふしぎに思いながらも,そのまま名も変えずにいると,数年後にとつぜん原因も分らずに死んでしまった.
カクラ婆さんの話
室蘭の絵鞆部落に明治十年頃の生まれでカクラという女がいた.「カクラ」(kakura)とは,昔の支那そばの出しによく入って来たフジコのことだ.この婆さん,幼女のじぶんは,さっぱり成長せず,フジコのようにごろごろしていたので,そんな名がついた.十四のとき,日高国の幌泉の浜へウニを捕りに行き,捕ったウニを岩の上に上げて,昼食をとりに帰っていると,沖の方でカクラ と呼ぶ声がした.ホーと返事して浜へ出て見たが誰もいない.魔に呼ばれたんだというわけで,カクラという名を捨てて,ソーピリカ(潮が引いている)と改名した.この人は,私が昭和十八年の夏,樺太も東海岸のずっと北の方にある新問の部落で会ったときは,相当いいお婆さんであったが,まだ元気で働いていた.
魔物に狙われるということ
日高国沙流郡平取部落で,昔ある婆さんが眠っていると,夜の引き明け頃に,戸外で自分の名を呼んだような気がした.二度呼んだ.こんど呼んだら返事をしようと思っていたら,それっきり呼ばない.起きて戸外に出て見ると,地面に薄く雪が降っていて,足跡がない.「イコンヌコアン」(ikonup-ko-an ばけものに狙われた)のだと分って,ぞっとしたという.
これも平取部落での話
ある婆さんが,たそがれどき,炉ばたで独り針しごとをしていると,納屋の隅から突然「メノコ」(おい,女)と呼ばれたので,立って行って見ると,誰もいない.そのとき,急に体じゅうざわざわと寒むけがした.これも「魔に狙われた」のだった.
魔は一声しか呼ばない
幽霊でも魔でも,人を呼ぶときは一声しか呼ばない.だから,山でも里でも沖でも一声しか呼ばれなかったときは,決して返事をするものではない.よく耳をすましていて,三度目にいよいよ人間の声だと分ったとき,はじめて返事をするものだ.という教訓がどこのアイヌにもある.
粟を搗く音
炉ばたで寝そべっているときなど,ふと地下で盛んに粟なぞ搗いている音が聞えてくることがある.そういう年は豊年だなどという.
また,枕に頭をつけていると,戸外の幣場のかみての方に当って,粟つきの音が聞えることがある.その音が臼に綿でも入れて掲くように静かに聞えれば,その年は豊年だが,空臼をつくような音だと,その年は冷害などで穀物がとれぬという.
また,その音がはるか沖の方に聞えることがある.それを「津浪の魔の物搗き音」と称して,そういう音が聞えればその年は津浪に襲われるといい,その音がはるか山の奥の方に聞えるときは,それを「山津波の魔の物搗き音」と言って,山奥の魔物どもが酒を造って酒盛をして大挙して押寄せて来る準備で,その年はかならず山津浪があるという.
兎と津浪
胆振国幌別郡幌別町内に富岸という部落がある.ここに昔,大きなアイヌ部落があって,六人の首領が住んでいた.ある時,日高のトヌウオウシという人がここを通ったら,丘の上に兎が一匹立っていて,沖の方へ手をつき出して,しきりに何物かを招きよせるような身振をしていた.彼はそこでトンケシの部落に向って,
オレプンペ 津浪が
ヤン ナ 来る ぞ
ホクレ キラ 早く 逃げろ
と叫んだ.六人の首領たちは,たまたま酒宴をしていたが,いっせいに立ちあがって,
ホッ へん
オレプンペ 津浪なぞ
ヤン チキ 来て見ろ
タプネ アカル こうしてやる
アンノ アカル ああしてやる
と言いながら,刀を抜いてふりまわしていた.
トヌウオウシは呆れて,そのままいっさんに虻田の部落の方へ走り去った.そのとき彼の背負っていた鞄が背中のうしろで一直線になったまま落ちなかったほど物凄い速力だった.彼が有珠の部落まで来たとき,はるかうしろで津浪のまくれ上る音がした.この津浪で古いトンケシの部落は亡びてしまったという.
兎と波は実は無関係ではない.一般にアイヌは,海上に白波が立つのを「イセポ・テレケ」(兎が・とぶ)と言い,沖では兎の名を口にしない.うっかり兎の名を言えば,波が出て来て海が荒れる,と信じているからだ.
幌別では,岸打つ波を見せて,赤ん坊をあやしながら,
オタカ タ 海辺 で
イセポ うさちゃん
ポン テレケ ぴょんと とぶ
ポン テレケ ぴょんと とぶ
と歌う.富岸の丘ではその兎の大将が仲間を呼んでいたのである.
オハインカル(幻視)ということ
ついでだから書いておくが,山野を行く際など,突然あらぬ場所に山や川などが現われて行く手をさえぎることがある.そういうときは,かならず神に祈りながら引返さなければならない.さもないと,悪いクマに会って殺されるか,種々の凶変に会うという.
モシリシンナイサムというばけもの
幻視というのは,やはり「魔に狙われた」(イコンヌコアン)の一つの場合だ.たとえば「モシリシンナイサム」(国のばけもの)というのがあって,クマにもシカにも牛にも馬にも化ける.路ばたなどで,ふと大きな雄鹿が草を食っているのを見たと思ったら,次の瞬間にはもうどこにも姿がない,などというのは,このおばけに狙われているのである.そういうときには,その人を戸外のごみ捨てば,または井戸の傍などへ引っぱって行って,「路ばたの神様がごらんになったのですから,神さまにおまかせします」と唱えてから,フッサ フッサ と息吹きをかけながら,手草でその体をたたき清める.
(このおばけは“moir-innaysam〔国の・ばけもの〕kotan-innaysam〔村の・ばけもの〕”と対にして用い,また“moir-ikonnup〔国の・ばけもの〕kotan-ikonnup〔村の・ばけもの〕”ともいう.「シンナイ」は「別の」「異っている」の意.「シンナイ・サム」(別な・側)は,もと他界から来る異類をさしたものらしい.樺太でばけものを意味するオヤシという語も,「オヤ」(oy)は「別な」「他の」の意味で,「オヤシ」は,もとはやはり「オヤコタン」(他界)から来る異類の意味だった.
イコンヌは,今は「ばけもの」の意になっているが動詞「イコンヌ」「エイコンヌ」は「予兆する」「前兆となる」「予兆で人に知らせる」の意味をもち,語原は i-ko-nu-p〔神・に対して・聞く・者〕-i-ko-nu-p〔それによって・神・に・聞く・者〕で,もと「巫者」あるいは「巫者の憑神」をさしたものと思われる.)