Chapter 1 of 15

座主流し

治承元年五月五日、叡山の座主、明雲大僧正は、宮中の出入りを差しとめられた。同時に、天皇平安の祈りを捧げるために預っていた、如意輪観音の本尊も取上げられた。更に検非違使庁を通じて、神輿を振り上げて、都へ押し寄せた張本人を摘発せよという命令もきていた。

こうした、矢次ぎ早の朝廷の強硬策は、先の京の大火事に原因と理由があったろうが、もう一つには、とかく、法皇の信任厚い西光法師が、あることないこと、山門の不利になることばかりを、後白河法皇に告げ口したためであった。そのため、法皇は、ひどく山門に対する心証を害されているようだった。

唯ならぬ事態の変化を読み取って明雲は、早やばやと、天台座主を辞任してしまった。

変って、鳥羽天皇第七皇子、覚快法親王が、天台座主となった。

その同じ日に明雲は、前座主の職を取上げられた上に、監視までつけられ、水さえもろくろくのまされず、まるで罪人扱いであった。

十八日には、この明雲の処遇問題に就ての会議が開かれた。

誰もが、法皇の前をはばかって、これという意見を出す者がなかったが、一人、左大弁宰相の藤原長方がひざをのり出し、

「法律家の意見に依れば、死罪を一等減じて、流罪ということになっている様でございますが、とにかく、前座主、明雲大僧正は、他の者とは事変り、その学問の深さ、天台、真言両宗を会得した当代稀なる名僧で、行ないは清浄、戒律を破った事のない徳高い人です。その上、我々にとっては、お経の師でもあり、高倉帝には法華経を授けられた師でもあります。これ程の人を流罪にする事は、決して穏便な事ではござりません。何卒、もう一度お考え直しになった方が良いのではありますまいか」

と、苦々しげな顔を一層硬ばらせている法皇の前で、恐るる色もなく述べたてた。

一座の者も誰一人反対する者はなく、我も我もと賛成したのだが、しかし、法皇のお憤りは、寵臣から焚きつけられているだけに根深いものがあり、誰一人法皇の心を柔らげる事ができなかった。清盛も、何とか、法皇の気持をとりなそうと参内したけれど、風邪気だからと体のいい玄関払いを喰う始末で、この一件だけは、徹頭徹尾、法皇の無理が通ってしまった。

ここに前代未聞の座主の流罪が決ったのである。明雲大僧正は、僧籍をとりあげられ、俗人の扱いをうけ、大納言大夫藤井松枝という俗名をつけられ、伊豆国へ流される事になった。

この明雲大僧正は、久我大納言顕通の子で、仁安元年座主となり、当時天下第一と言われる程の智識と高徳を備えた人で、上からも下からも、尊敬されていた人だったが、ある時、陰陽師の安倍泰親が、

「これ程、智識のある人にしては不思議だが、明雲の名は、上に日月、下に雲と、行末の思いやられるお名前だ」

といったことがあったが、今になってみると、その言葉もある程度うなずけるものがある。

二十一日は、座主の京都追放の日であった。執行役人に追い立てられながら、座主は泣くなく京をあとにして、一先ず、一切経谷にある草庵に入った。二十三日がいよいよ、東国伊豆に向って出発する日である。さすがに日頃住みなれた都を離れ、恐らくは二度と、帰れぬであろう関東への旅に立つ大僧正の心の内には、様々の想念が渦巻いていた。

一行は、夜あけがた京都を立ち、やがて、もう大津の打出の浜にまで来た。そこからは、比叡の山の青葉若葉の萌えたつような色どりの中に文殊楼の軒端が白々とみえる。朝夕なれ親しんできた、その姿をみると、座主の目は忽ち涙でかき曇ってしまい、それからは二度と顔をあげて振り返ろうとしなかった。澄憲法印は、余りにも痛わしい座主の嘆きをみかねて、粟津まで送ってきた。しかしどこまでも送っていくわけにもいかないので、そこで別れを告げることにした。澄憲の気持に感激した座主は、年来、心中にあった一心三観の教義――これは釈迦相伝の大事なもの――を伝授された。もちろん、澄憲はこれを大切に心中におさめて帰京したのである。

山門ではこの度の沙汰は不満どころか、全山、憤慨の極にあった。それも西光法師親子の告げ口のせいだとばかり、西光法師親子の命をとり給えと呪い続けていた。

いよいよ座主が伊豆送りされた二十三日、山門では、大会議が開かれていた。

「初代義真より今日まで五十五代、座主が流罪になるなどという不法は行われなかった。いかにこの様な乱世末世の時代とはいえ、栄えある当山をないがしろにするやり方だ。即刻座主をうばい返そう」

勢の良いこれらの言葉はまるで、はやてのように全山に拡がり、われもわれもと、わめき声をあげて、東坂本にかけ下りてきたのである。ここで再び会議が開かれた。

「とにかくここにいる誰もが、粟津に行って、座主を取り戻したいと思っているのは確かだが、役人がついている以上、果して無事に取り返せるかどうかが心配だ。それには先ず、山王権現のお力を借りる以外に手がない。もし我々を助けて、無事に座主を取戻せるものなら、先ずここでその兆をみせて頂こう」

という提案で、老僧達は一心不乱に祈り始めた。すると、山門に使われている鶴丸という少年が、急に体中から汗をふき出して苦しみ始めた。

「私に十禅師権現がのり移ったのです。どんな事があっても当山の座主を他国へ追いやる事は許せません。そんな事になっては、私がこのふもとに神として祭られていても、何の意味もない事です」

左右の袖を顔にあてはらはらと涙を流す。この不思議さに、

「お前が本当に、十禅師権現だというのなら、私共が証拠の品を渡すから、元の持主に返してみるがいい」

と老僧四、五百人の手にした数珠を、床の上に投げあげた。少年は走り廻って拾い集めると、一つの間違いもなく持主に返した。ここに、全山の衆徒は勇気百倍し、座主を取り戻す決意を新たにしたのである。

「これ程の神のご加護があるならば、恐るることはない。命をかけても、座主を連れ戻そう」

海からも山からも、座主の跡を追いかけてくる、雲霞の如き衆徒の群に肝をつぶした護送役人は、座主をうっちゃって、命からがら逃げ出してしまった。

驚いたのは、明雲大僧正である。元々、道理一点ばりの人だからここに及んでも、喜ぶより先に、この事件の行末を気にかけていた。

「私は、法皇の勅勘を受けて流される罪人なのですから、少しも早く、都の内を追い出されて、先を急がねばならぬ身です。お志は有難いが、貴方方に迷惑はかけたくない、早くお引き取り下さい」

と言う。しかし、このくらいで引き下る衆徒ではない。何が何でも山に戻って貰わねば、山の名誉にもかかわるとばかり、座主の決意を促した。

「家を出て山門に入ってからというもの、専ら、国家の平和を祈り、衆徒の皆さんをも大切にしてきたつもりですし、我が身にあやまちがあろうとは思われず、この度の事でも、私は、人をも神仏をも誰一人お恨み申してはおりません。それにしても、ここまで追いかけてきて下さった衆徒の皆さんの志を思うと、何とお礼を申し上げてよいものやら」

後は唯涙をぬぐうばかりで、荒くれ男の多い衆徒達も一様に涙を誘われた。

「とにかく早くこれにおのり下さい」

衆徒の一人がせきたてると、

「いや昔は三千の衆徒の上に立つ主でも今は罪人の私、輿などはもったいない。たとえのぼるにしてもわらじばきで、貴方方と一緒に」

といって輿にも乗ろうとしない。すると先程からこの様子にみかねたのか、西塔の阿闍梨で、祐慶という、名うての荒法師が、白柄の大長刀を杖について、七尺の長身を波うたせながら、人の列をかきわけて前に出てくると、

座主に向って、

「そう理屈ばかり仰有るから、今度のような事にもお遭いになるのですよ。とにかく、さっさと乗って下さいよ」

とせかせたので、座主も、今はと諦めて、御輿に乗った。

無事に座主を取り戻した嬉しさに、衆徒一同は喜び勇んで、けわしい山道も難なく越えて、叡山へ帰ったのである。

叡山に戻った明雲前座主を一先ず、大講堂の庭に置くと、再び会議が開かれた。

「勅勘を蒙って流罪と決まった前座主を取り戻したはいいが、果して再び座主として我らの頭上に頂くべきであろうか? 一体如何いたしたものであろう?」

これを聞いて先の祐慶は、再び前に進み出ると、かっと見開いた両眼から、はらはらと涙をこぼしながら、

「皆の方々、よく承れ、この叡山はそもそも日本に二つとない霊地であり、鎮護国家の道場である。当山の衆徒の意見は、世間からも尊重され、決してあなどられた例しはない。まして、高貴高徳の人である三千の衆徒の主が、無実の罪をうけた事は、当山はもちろん、世の人々が、憤ってやまない事なのじゃ。この罪なき人を、何で主と崇めて悪いことがあろうか、もし、又これがため、朝廷よりおとがめある時は、この祐慶喜んで罪に服すつもりでいるのじゃ」

全山に轟くばかりの大音声は、山々の峰にこだまして、なみいる大衆の心をゆさぶった。前座主は、東塔の南谷、妙光坊に入られる事になった。これ程有徳の人物でも、たまには災難にあわれることもあるのである。

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