Chapter 1 of 17

厳島御幸

治承四年正月一日、法皇の鳥羽殿には、人の訪れる気配もなかった。入道相国の怒り未だとけず、公卿たちの近づくのを許さなかったし、法皇も清盛をはばかっておられたからである。正月の三日間というもの、朝賀に参上するものもいなかったが、僅かに桜町中納言とその弟左京大夫脩範だけが特に許された。

正月二十日は東宮の御袴着、ついで御魚味初というので、宮中はめでたい行事で賑ったが、落莫とした鳥羽殿の法皇にはほとんど別世界の出来事のように思われた。

そして二月二十一日、高倉天皇のご譲位があり、東宮が即位された。高倉天皇は別にご病気でもなく、ご欠点もなかったのであるから、清盛の強引な政策の仕業ともいえよう。平家の一門は、時節到来とわが世の春を謳歌し、またこれに対する非難の声はひそかに京の街を流れたのである。

ご即位とともに、三種の神器、八坂瓊曲玉、草薙剣、八咫鏡は新帝の御所へ移され、公卿たちは古例に則った儀式をとり行なったが、このあと、公卿の控所に顔を出した左大臣藤原経宗が、ご譲位の真相を告げたので、心ある貴族たちは、悲憤し、たがいに涙を流したという。自らすすんでのご譲位でも、やはり哀れさはつきまとうものである。まして無理強いの譲位であればと、上皇のご心中を思って涙に咽ぶ人々が多いのも当然のことといえる。すでに上皇の御所からは歴代の宝物は新帝の所へ移されてある。灯火の数も少く、時を告げる役人の声すら、ここでは聞くことがない。新帝の即位という華かな祝宴の中に、高倉上皇の閑院殿はひっそりと暗い翳を落していた。

新帝安徳天皇、ときに御年三歳。そして、旧帝への同情を交えた「余りにも幼なすぎる」というささやきが身辺にくり返されていたのである。噂を耳にした平大納言時忠は、憤怒の面持で、故事をひき先例をあげて、即位の正当なることを述べたが、その声は、むしろ怒鳴るのに近かった。もちろん、時忠が新帝の乳母、帥典侍の夫であることもその原因の一つであろう。時忠はいった。

「新帝が若すぎるというのは愚かな話だ。異国の例はいくらもある。周の成王三歳、晋の穆帝は二歳、本朝をみるなら、近衛院三歳、六条院二歳である。みなおむつに包まれていたため、装束を正すことができなかったのは残念だが、いずれも摂政が背に負うとか、母后がお抱きになるとかして、即位の式はとどこおりなく行なわれている。これはすべて書物に明記されてあるではないか。何の不都合もないのだ」

この歴史的弁護論は当然、「そんな勝手なことがいえるのか」とか、「先例はすべて善例なのか」といったような反論を貴族の間によび起したが、しかしいずれも私語の域は出なかった。

新帝の即位は、皇室との親族関係樹立という清盛永年の悲願をかなえさせた。入道相国夫婦は天皇の外祖父、外祖母である。ともに准三后の宣旨をうけ、年官年爵を頂戴した。絵や花で飾られた衣をまとった公卿たちでごった返す入道邸は、院の御所を思わせた。そこには、殿上人を召使いのごとく頤で使う習慣のついた、そのくせ満面の笑を浮べる入道夫婦がいたのである。

この年の三月上旬、位を譲られた高倉上皇が、安芸の厳島へ御幸になるという話が伝わった。ご退位後の諸社への御幸始は、八幡、賀茂、春日などであるから、先例を破られてのご決意だったわけである。不審に思う人は多く、さまざまな臆測も例によって行なわれたが、すべて的は外れていた。上皇の安芸御幸は深い祈願が秘められてのご決意であった。厳島は平家の守護神として、別格に崇敬されている社である。これに参拝されれば、平家への協力への証しともなろう、清盛の心を和らげることもできよう。が、これは表のことである。上皇の心中には、鳥羽殿に幽閉同然の毎日を送られている父法皇を、この参拝で救いたかったのである。

しかし、この御幸は思わぬところから横槍が入って一時延期された。厳島神社に先をこされた叡山衆徒の憤激である。面子をつぶされた衆徒どもは、先例を楯にとった。

「天皇ご退位後の御幸始は、八幡、賀茂、春日にあらずば、わが叡山の山王にお出になるべきである。はるばる安芸の厳島とは奇怪なこと、いかなる先例もない。ご強行になるとあらば、神輿を振り奉って、断固お止め申せ」

出発は延引されたが、上皇御幸の主旨、まことにもっともと相好を崩した清盛のあっせんが功を奏し、御幸出立は三月十七日にきまった。

その日、八条大宮へ御幸になられた上皇は、夜になると、ただちに厳島明神の御神事を始められ、翌十八日清盛邸へ入られた。この夕刻、上皇は前右大将宗盛を御前によばれた。

「明日厳島へまいるが、その途次久々に鳥羽殿へ法皇をお尋ねしたいと思うが、この旨、入道へ知らせておかねば悪いであろうか」

すでに、安芸御幸の決意のとき、このお気持があったことは明らかである。宗盛はつつしんでこたえた。

「その儀、ご無用に存じまするが」

「それでは、早急に今宵、鳥羽殿へ参り、このことを伝えてくれ。使いは卿がよろしかろう」

使いとなって、その夜輿をとばした宗盛の知らせに、法皇は夢ではないかと喜んだ。

翌十九日、大宮大納言隆季の徹宵の準備で御幸はつつがなく行なわれた。三月も半ばを過ぎている。霞に曇る有明の月おぼろな空の下、御幸の一行は、地に淡い影を落しながら鳥羽殿へ向った。鳥の声、空を渡るのを見上げれば、遥か北陸を目指す雁の群である。一群消えればまた一群、哀れをもよおす雁の声は、御幸の者の胸にひびいた。鳥羽殿についたのはまだ未明であった。御車より上皇は降り、門を開いて進んだ。

すでに春は暮れなんとしている。薄暗い木立、人の気配すらない。木々の梢の花色あせて、樹葉は早くも夏を告げる装いをしている。鳴く鶯の声も力なく老いていた。上皇の胸には、われ知らず去年の盛儀が思いだされてきた。正月六日、朝覲のための法住寺殿への行幸である。訪れた上皇を迎えて、笛、鐘、太鼓が一斉に乱声の楽を奏した。正装の諸卿は列を正してこれを迎え、六衛府の官人が幔幕を張った門を開けた。先ず上皇を迎えたのは、すでにわが季節の去り行くのを知った鶯の年老いた声である。

法皇は知らせを受けて、寝殿の階がくしの間に上皇を待っていた。高倉上皇、今年二十歳、夜明けの月の光をやわらかに浴びて立っていた。青年の優美な姿は、上皇に息子の母、故建春門院のありし日を偲ばせた。涙にくれた法皇は、この暁、二人の人にあったのである。その一人はわが子であり、他の一人は、かつての寵妃である。父と息子との対面は静かに行われた。間近かに設けられた座についた法皇、上皇の御前に伺候したのは尼御前ただ一人、二人の話し声は低かったが、夜が明け陽が高くなるまで続けられた。

法皇に暇を告げられた上皇は、草津から海路、安芸へ向われた。

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