長いもの
家へ帰ったら、妻が、
「あらまあ、お早いんでございますね」
と驚いた。それもその筈、いつもは夕刻なのに、小学校帰りの長男と一緒に敷居を跨いだのだった。
「少し具合が悪くて、早目に仕舞って来た」
「それはいけませんでしたね。何うなさいましたの? お風邪?」
「然うかも知れない」
と私は靴を脱ぎながら溜息をついた。
「直ぐお休みになったら宜うございましょう」
「さあ」
「お医者さんを呼びましょうか?」
と妻は電話口へ進もうとした。
「それにも及ばない」
と私は和服に着替えながら、この電話も召し上げられてしまうのだと思った。
「あなた」
「何だい?」
「本当に何処かお悪いのでございますか?」
と妻はもう察したようだった。
「ハッハヽヽ」
「厭でございますよ、又、あなた」
「あゝあ」
「又いけないんでございましょう?」
「分ったかい?」
「直感したんですけれど、子供の前で滅多なことは申上げられませんから」
「いけないんだよ」
と私は失業の名人だから、言うことに権威がある。妻は文字通りに信仰して、
「今度こそもう大丈夫と思って、安心していましたのに」
と鼻声になった。
「未だ泣くには早いよ」
「辞令を戴いて来たんじゃございませんの?」
「うむ。しかし大抵いけないと思っていれば間違ない」
「何うなさいましたの? 喧嘩?」
「喧嘩ならこの頃は誰としても負けないんだが、肝心の大将を憤らしてしまった」
「まあ!」
「馬鹿なことをした」
「何をなさいましたの?」
「それまで立ち入らなくても宜い」
「はあ」
「何うにかなるよ。お前達に餒じい思いはさせない」
と私はイラ/\した。八つ当りの気味だが、仕方がない。
「…………」
「あゝあ」
「…………」
「しかし今度のは惜しい。トン/\拍子に行っていたんだけれど」
「…………」
「確かに増長した。詰まらないことをしてしまったよ」
「…………」
「お美津、お前は何故黙っている?」
「申上げるとお憤りになりますから」
「憤りゃしないよ」
「それじゃ私、申上げますわ」
「何でも申上げなさい」
「私、今晩松本さんのところへ御相談に上ります」
「いや、松本君も一緒だ」
「まあ!」
「松本君と一緒だから、全く脈がないでもない」
「社長さんにあやまってお帰りになりましたの?」
「いや、カン/\で迚も寄りつけないそうだから、そのまゝ逃げて来た」
「松本さんは?」
「同じことさ。今晩、中島さんにつれられて、二人で赤石さんへあやまりに行く」
「あら、赤石さんでございましたの?」
「赤石さんと大将さ。二人を憤らしてしまった」
「念入りね」
と妻は呆れたように言ったが、内容は尋ねなかった。
「考えて見ると憤るのも無理はないんだ」
「…………」
「話そうか?」
「宜うございますわ。公務は女の立ち入る限りでございませんから」
「いや、公務じゃないんだ」
「それなら、承わりましょう」
「社長と赤石さんをエレベーターの中で驚かしたんだ」
と私は委細を説明した。
「そのエレベーター・ボーイは本当に首?」
「うむ」
「それじゃ矢っ張り駄目でしょう」
「駄目かも知れない。中島さんも辞令を出せと言われたくらいだから」
「あなた方の?」
「うむ。出せばそれっきりだから、兎に角早く帰れってのさ。社長も赤石さんも悉皆血圧を上げてしまって、迚も手がつけられないと言っていた」
「困りましたわね」
「松本君も今まで随分社長の感情を害している。俺は可なり努めた積りだけれど、何分自叙伝係って役で、会社の事務は真の形式丈けだから、社長の御機嫌が変ればそれっきりだ。これは事によると覚悟をして貰わなければなるまいよ」
「私、覚悟丈けはいつでもしていますわ」
「流石におれの女房だよ」
「実は内証で月掛貯金に入っていますの。早晩斯ういうことがあるだろうと思いまして」
「有難い」
「半年ぐらいは平気の積りですが、この頃は失業者が多くて、ナカ/\口がないんですってね」
「何あに、何うにかなるさ。おれは失業しても直ぐにある。然う/\、三好さんへ御無沙汰していた」
と私も三好先生を思い出す時はいつも形勢が悪い。
間もなく松本さんから電話がかゝって来た。
「何うだい?」
と気の所為か力のない声だった。
「有難う。覚悟を極めている」
「此方はカン/\だよ」
「え?」
「カン/\。家内がカン/\だ」
「御道理だよ」
「馬鹿なことをしたね、考えて見ると、実際」
「今更仕方がない」
「今、中島さんへ電話をかけたんだよ」
「何んな具合だったい?」
「ガラマサどんもカン/\。赤石さんもカン/\。しかしね」
「うむ」
「今晩上るからって、足止め丈けはして置いたそうだ」
「赤石さんかい?」
「うむ。それから七時に中島さんのところへ行く筈だったが、あやまるには早い方が宜いそうだから、六時ってことにしよう」
「よし/\。しかし六時に中島さんが帰っているか知ら?」
「中島さんが然う言ったんだから大丈夫だ」
「それじゃ六時に行く。僕も何なら早い方が宜い。斯うやって何方つかずに待っているのは厭なものだよ」
「本当にね。何うなるんだろうなあ?」
「さあ。なるようにしかならないと思っていれば宜い」
「仕方がない。これ丈けだよ、報告は」
「有難う」
「さよなら」
と松本さんは切った。
私は六時少し前に中島さんへ出頭した。松本君はもう来ていた。
「熊野君、今松本君にも断ったんだが、僕は責任を負わないよ。唯一緒に行く丈けだ。宜いかね?」
と中島さんは早速問題に触れた。
「はあ。しかしお口添えを願います」
「無論、それが主眼で行くんだけれど、赤石さんが首を横に振れば、それまでの話だからね」
「仕方ありません」
「早い方が宜い。直ぐ出掛けよう」
「宜しくお引廻しを願います」
と私は坐ると立つと殆んど一緒だった。
時を移さず、一同赤石さんの邸宅へ乗りつけた。直ぐに客間へ通されたが、主人公、ナカ/\出て来ない。成程、重役だったと今更気がついたところを見ると、私も余程上っていた。三十分ばかり待った時、
「やあ。お揃いだね」
と言って、赤石さんが現れた。私達は座蒲団から辷り下りて平伏した。
「不都合者をつれて上りました」
と中島さんは早速用件に取りかゝった。
「今日は飛んだ御無礼を申上げて、何とも申訳ございません」
と松本さんと私が後に続いた。
「中島君」
と赤石さんは私達の方を見向いてくれない。
「はあ」
「頻りに足止めをするから、大方こんなことだと思っていたよ」
「夜分押しかけて参りまして、飛んだお邪魔を申上げます」
「宜いさ。久しぶりだ」
「毎日お世話になっていながら、正月以来御無沙汰申上げています」
「少しひどいぜ」
「恐れ入りました」
と中島さんは額に手を当てた。要領が好くて出世の早かった人だから、私達は大いに学ぶ必要がある。
「その後豪いものを掘り出したよ」
と赤石さんは床の間の双幅に目を向けた。
「これでございますか?」
「うむ。それもその一つだ」
「結構でございますな」
「天下の絶品だよ。よく見てくれ給え」
「拝見させて戴きます」
と中島さんは床の間へ進んで端坐した。
「社長が垂涎万丈さ」
「寒山拾得って形ですな?」
「寒山拾得だよ」
「はゝあ。余程お古いものでございましょう?」
「足利時代だ」
「誰でございますか?」
「兆殿司さ」
「成程。支那人でございますな」
「冗談言っちゃいけない。日本人だよ」
「はゝあ」
「明兆といって、豪いお坊さんだ」
「成程」
「東福寺の大道禅師についていたが、絵を描いてばかりいてお勤めを怠るものだから、首尾が悪かった。或時、禅師の不在を幸いに、不動尊の絵を描き上げたところへ禅師が戻って来た。明兆は慌てゝ、膝の下に匿したが、名筆の力は恐ろしいものさ。巨勢金岡の描いた馬が夜毎に抜け出して苗代田を荒したという話を君は知っているだろう?」
「はあ」
「明兆も金岡に劣らない。膝の下に匿した絵から忽ち不動明王の炎がポッポ/\と燃え上った。幾ら押えても消えない。大道禅師は驚いた。『申訳ございません』と明兆が出して見せると、禅師は感に入って、少時言葉もなかった。以来、明兆が絵を描くのを大目に見てくれたという」
「豪いものでございますな」
「後に東福寺の殿司になって、兆殿司と号した。種々と逸話のある人だよ。貧乏で絵の具が買えなかった頃は近所の川から五色の石を拾って来て、それを砕いて使ったという」
「成程」
「その石の粉で描いた涅槃像が現に東福寺の宝物になっている」
と赤石さんは講釈を始めた。談義が長いので皆辟易する。次は青磁の香炉だった。この二品で一時間余り喋り続けた。その間、私達二人は身動きも出来ない。これくらい窮命すれば堪忍して貰う値打が充分あると思った。
「ところで……」
と中島さんは度々切り出したが、赤石さんは受けつけない。
「これによってこれを見るに、社長が何と言ってケチをつけても、この品は政宗青磁さ」
「はあ」
「伊達家に伝わっているのと全く同じものさ」
「はあ」
「故きを温ねて新しきを知る。この意味に於ても書画骨董の趣味は大切なものだよ」
「種々と承わって、好い学問を致しました」
「何うだね? 一つ入門しないかい?」
と赤石さんは斯道の最高権威をもって任じている。
「迚も駄目でございます」
「何故?」
「ハッハヽヽ」
「笑って答えずか? 何か仔細がありそうだね」
「条件つきでお弟子になりましょう」
「はてね」
「重役に抜擢して戴きます」
「ハッハヽヽ」
「骨董を買う資格が出来次第、御門下に加わりましょう」
「買わなくても宜いんだよ。俺のところの品物を見て、俺の講義を聞いていれば宜いのさ」
「これからは度々お邪魔を申上げましょう」
「必ず得るところがあるよ」
「資格のつくまで差当り講習生でございます」
「然うさ。目を肥して置けば宜いんだ」
「ところで、赤石さん、今晩の用件でございます」
「何だっけな?」
「この二人でございます」
「二人が?」
「今日大変な失礼を申上げました」
「うむ/\/\」
「お詫に上ったのでございます」
「何とも申訳ございません」
と松本さんと私は存在を認めて貰うことに努めた。
「あゝいうことをしちゃいけないね」
と赤石さんは漸く私達の方へ向いてくれた。
「はあ」
と松本さんが代表して、私も頭を上げない。
「これから気をつけるさ」
「必ず慎みます」
「宜いよ、もう、心配しなくても」
「しかし赤石さん」
と中島さんが遮って、
「社長は大変な御立腹で、二人とも甚だ首尾が悪いんでございます」
と経緯を詳説した。
「何うしてもいけないと言うのかね?」
「はあ」
「それは困ったね」
と赤石さんは首を傾げた。
「常務には何とも申訳ございませんが、社長は然うお憤りになる理由がないんです」
と私は説明の必要を認めた。
「何故?」
「社長は松本君に『我輩は度胸が据っているから物に動じない。驚かして見ろ』と仰有ったんです」
「はゝあ」
「一昨日でした。然うです。地震が揺って、私は聊か狼狽した為めお小言を戴いたのでございます。丁度常務が入ってお出になった時でした」
「成程」
「松本君は大変だと言って叱られたのでございます」
「あの時言ったんじゃないよ」
と松本さんは何方でも宜いようなことを問題にした。
「いや、あの時さ。家が潰れると大変だと言った」
「後から然う言ったんだ。地震最中じゃない」
「然う/\。朝は朝で叱られて、下見からお帰りになってから又叱られたのでございました」
と私は訂正した。
「よく叱られるようだね、君達は」
「はあ。私達も届かないんですが、社長もナカ/\……」
「やかましい人さ」
「大変という言葉がお気に召さないのです。『昔の武士は殿様御切腹、お家断絶以外を大変と言わない。松本君はインキをこぼしても大変と言うじゃないか?』と仰有いました。松本君も好い心持は致しません」
「成程」
「それでは社長は物に動じませんかと訊いたのでございます」
「松本君がかい?」
「はあ。社長は決して動じないとお答えになったばかりか、驚かしても宜い、決して大変と言わないと仰有ったのでございます」
「ふうむ。成程」
「御立腹になっては困りますと松本さんは念を押したのですが、社長は『決して憤らん。憤るようなら度胸が据っていないのだから、手を拍って笑うが宜い』と仰有いました」
「それじゃ約束じゃないか?」
「はあ」
「しかし俺はそんな約束をしなかったよ」
「真に申訳ございません。常務のは全くの巻き添えでございました」
「好い面の皮だ」
「恐れ入りました」
「いや、俺はもう宜しい。然ういう事情なら尚更のこと意に介さない」
「…………」
「と突っ放されたんじゃ困るんだろう? ハッハヽヽ」
「実はお詫かた/″\折入ってお願いがあるんでございます」
と松本さんが切り出した。
「俺から社長へお詫の口添えでもしてくれというのかね?」
「はあ」
「それでございますよ。私も間に入って困りぬいています。これから社長の宅へ伺う積りですが、私一人の手では迚も見込がありません」
と中島さんが頼み入った。
「宜しい」
「お供を願えましょうか?」
「明日でも宜かろう?」
「いや、明日から出て来るに及ばんと仰有るんでございます」
「ひどくお冠を曲げたものだね」
「カン/\でございます」
「よし。出掛けよう」
と赤石さんは電鈴を鳴らして女中を呼んで、
「社長さんのところへ電話をかけておくれ。これから一寸伺いますが、御都合は如何でございますかって」
と命じた。社長が家にいてくれないと私達は明日の出勤が叶わない次第だ。益こだわる虞がある。
「お待ち申上げますとございました」
と女中が取次いだ時、私達はホッと安心の溜息をついた。
社長の新邸へは赤石さんの自動車で乗りつけた。西洋間へ通されて待っている間に三味線の音が聞えた。
「おや、今日は金曜日だったよ」
と赤石さんが中島さんに囁いた。
「然うでしたな」
「美事担がれた」
「成程」
と中島さんが小膝を拍った。
「何うしたんですか?」
と私が訊いた。
「何あに、何あに」
と中島さんは誤魔化した。
「何だって?」
と松本さんが私の方へ耳を寄せた。
そこへ社長が入って来て、
「やあ」
と反り返った。社長のお辞儀は下らないで上るという評判だ。それは宜いが、
「これは何処の人達だね?」
と然も不思議そうに私達を見返ったのには驚いた。
「お詫につれて上りました」
と赤石さんが言ったのを合図のように、私達は、
「今日は飛んだ御無礼を申上げまして、何とも申訳ございません」
と頭を下げた。行く先々で器量の悪い話だけれど仕方がない。
「御同難の俺がもうコン/\言い聞かせて来たんですから、今日のところは水に流してやって下さい」
と赤石さんが口を添えてくれた。
「馬鹿につける薬はない」
と社長は椅子にかけて腕組をしたようだった。私達は頭を下げたまゝ只管恭順の態度を取った。
「…………」
「以来気をつけることだね」
「はあ」
「我輩は驚かして見ろと言ったのだ」
「はあ」
「嘘をついて見ろとは言わない」
「はあ」
「我輩は君達を自分の手足のように信用しているのだ。それが嘘をついたんじゃ安心して仕事が出来ない」
「はあ」
「驚かす分なら幾らでも歓迎する。我輩は決して動じない」
「はあ」
「松本は元来馬鹿でいかん」
「はあ」
「熊野もこの頃少し増長している」
「はあ」
と私達は一々頷くばかりだった。
「宜しい。掛け給え」
と社長は中島さんに目くばせをした。中島さんもお附き合いで立っていたのはお気の毒だった。
「さあ、掛け給え」
と中島さんが模範を示した。
「これから気をつけるさ。職務上の手落があったんでもないんだから、安心して勤め給え」
と赤石さんが劬るように言ってくれて、事済みになった。
「時に赤石君」
「はあ」
「君が来たら一つワッと言わせようと思って、匿して置いたものがある」
「何ですか?」
「啓書記だ」
と社長はもう御機嫌が直っていた。又しても書画骨董の話かと思って、私は松本さんと顔を見合せた。
「拝見しましょう」
と赤石さんはもう立ち上った。
「社長、私達はもうこれで……」
と中島さんが弱い努力をした。
「いや、君達にはもう少し話がある」
「それではこゝでお待ち申上げましょう」
「赤石君」
と社長は赤石さんを誘って日本間の方へ行った。
「中島さん、種々と有難うございました」
「お蔭さまで危いところを助かりました」
と私達は中島さんにお礼を言った。
「何あに、一向」
「今度は実際いけないのかと思いました」
と松本さんは額の汗を拭いた。
「君は時々喧嘩腰になるのが宜くないんだよ」
「以来気をつけます」
「何んな無理なことを言っても社長だからね」
「はあ」
「長いものに巻かれていなければいけない」
「はあ。もう懲りたから大丈夫です。しかし嘘をつかないで驚かせってのは理窟に合いませんな」
「それが悪いんだよ」
「成程」
「社長は行きがかり上、もう驚かすなとは言えない。それで驚かすのは結構だが、嘘をついてはいけないと言っている」
「不可能な註文ですな」
「無論不可能なことを言っているんだ。要するにもう驚かしてはいけないということに帰着する」
と中島さんは分り易いように説明してくれた。
「先ずもって無罪放免か? あゝあ」
と私は伸びをした。
「いや、未だ安心出来ないよ」
と中島さんが笑った。
「何かあるんですか?」
「これから話があると言ったろう?」
「はあ。しかしお説法は毎日会社で聞いていますから平気です」
「お説法じゃない」
「それじゃ何ですか?」
「義太夫だよ」
「はゝあ」
「金曜日だからね。お師匠さんが来ている」
「成程」
「皆逃げてばかりいるものだから、斯ういう時だと思って、二段ぐらい聞かせるよ」
「おや/\」
と私はウンザリした。
「矢張り唯じゃ堪忍してくれないな」
と松本さんが歎息した。
「社長は勘定高いからね」
「はあ」
「昼間の中からその積りでいたのかも知れない」
「はゝあ」
「それじゃ、あやまりにつれて来いとでも仰有ったんですか?」
と私は訊いた。
「さあ。兎に角、癖になるから一番取っ占めてくれという御註文さ」
「成程」
「迷惑なのは僕だよ」
「決してお恨みには存じません」
「恨まれて溜まるものか」
「ハッハヽヽ」
「何の罪もないのに、赤石さんから書画骨董の講釈を一時間余り聞かされた上に、これから義太夫を二段聞かされるんだからね」
「お気の毒ですな」
「飛んだ巻き添えさ」
「巻き添えといえば、エレベーター・ボーイの河野は何うなりますか?」
と松本さんが思い出した。
「あれは譴責で事済みさ」
「それは好い塩梅でした」
「君達は若いな」
「何故ですか?」
「社長があれぐらいのことで人を首にするものかね」
と中島さんは今頃になって保証してくれた。
大分待たされた。
「それは然うと長いですね」
と私は安心すると共に欠伸を催した。
「天狗同志の鼻突き合いで夜が明けるかも知れないよ」
「本物でしょうかね? 皆」
「さあ。此方には皆目分らない」
「何方が目が利いているんでしょうか?」
「それは赤石さんさ」
「唯貰っても感心しないようなものが二千円の三千円のってんですから驚きます」
「此方とは違う。金の使い道に困っているんだからね」
「好い身分ですな」
「神妙に勤めてあやかることだよ」
「赤石さんも義太夫を聞いて行くんでしょうか?」
と私は何なら道連れにしてやりたかった。
「いや、逃げるよ。こゝを立った時、僕に目くばせをした」
「はゝあ」
「それで僕もあゝ言ったんだけれど、矢っ張り身分が違う。社長から義太夫を聞かされる間は未だ幹部じゃない」
と中島さんは会社の不文律を教えてくれた。
「逃げれば宜いじゃありませんか?」
「いや、逃げられない。蛇に見込まれた蛙のようなものだ」
「はゝあ」
「逃げられるようになれば幹部さ」
「成程」
「妙なものだよ。覚悟をしてい給え」
「はあ。殊更不首尾の折からですから」
と私は大して異存もなかった。