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第一義の道
島木健作
「もう何時かしら」と眼ざめた瞬間におちかは思つた。思はずはつとした氣持で、頭を上げて雨戸の方を見た。戸の外はまだひつそりとして、隙間のどの一つからも白んだ向うはのぞかれはしない。安心して、寢返りを打つたが、まだどこか心の焦點のきまらぬ氣持で眼をしばたたいてゐると、闇のなかに浮動する樟腦の匂ひがかすかに動いた部屋の空氣につれてほのかに鼻さきににほうて來た。すると急にさめてきた心にどきんと胸をつく強さで今日といふ一日の重さが感じられた。血がすーつと顏から引いて、動悸がしだいにたかまつて來た。おちかは布團をずり下げ、上半身を乘り出して手をのばして枕もとをさぐつてみた。ゆうべ寢るとき取り揃へておいた衣類やその他身のまはりのものがそのままそこにある。それらを一つ一つさぐつてみてゐるうちに、昨夜夜ふけてひとり起き、羽織の乳に紐を通しなどしたとき胸にわいた思ひが、今またしみじみとしたものとして生きかへつて來るのだつた。その思ひにあたためられ、六十を越えた齡にあけがたはもうかなりに冷えをおぼえるこのごろの季節なのが、今朝はさほどの苦にはならなかつた。手足をのばし、おちかは少時うつとりとしてゐた。が、すぐに小きざみにからだがふるひ出し、ふるひは容易にとまらなかつた。根のゆるんだ齒がかたかたと音をたてて鳴つた。汗さへ流れでて來るやうであつた。ふたたび寢がへりをうち、のばしてゐた手足をまるめて何かだいじなものを抱くやうな氣持と姿勢でおちかはぢつとたへてゐるのであつたが、それはなにも寒さからではなかつた。間もなく時計が五時をうつた。
おちかは掻卷のまま寢床の上に起き上つた。肩をすぼめ、首を垂れ、兩手を胸のあたりで組むやうにして坐つた。自然に祈りの心になつた。はずんで來る呼吸のみだれをととのへることができなかつた。たうとうその日が來た、と、さうせねば一度つかみかけたものも手からずり落ちてしまひさうなあやふやな氣持で、おちかは自分に言つて見た。なんといふ長い五年の月日であつたことだらう! 今となつてふりかへつてみれば、ただもうわるい夢を見つづけて來たやうなものだが、五年前のその日はるかに今日の日をのぞみみたときには、考へてみただけでもう精魂の盡きはてるおもひがするのであつた。
「なあに、過ぎ去つてみれば短いもの、案じるほどのことはありやしない、よしんば案じてみたところでなるやうにしきやならないんだから。」
からくもふるへる聲で自分自身に言つた。そばかすのある顏は青ざめ、眼はどこかあらぬ方を眺めてゐるやうであつた。今までとても世のいざこざのすべてをその考へ一つで押し切つて來た六十年の老の經驗が、この際も一應はおちかの氣をしやんと立てなほしたかに見えたのであつたが、さてその日から實際にはじまつた一日一日は信じがたいほどの重さでのしかかつて來た。一日明ければもうその瞬間から明日の日を待ちのぞんでゐるのであつた。仕事のあひまには一日に何度も暗がりにしやがんで息をつき、その都度肩や腰のあたりからからだの精が拔けおちて行くやうな氣持だつた。昭和×年十月××日と、檜のうす板に書いて、自分の居間になつてゐる四疊半の神棚に上げ、朝夕それを見あげるごとに針を持つ手もふるへがちな此頃の身の衰へをおもつた。はたしてその日まで、向うは無事でもこつちはどうであらうとおちかは心細がつた。しかし人に向つてはかたくななほどにぷつつり口をつぐみ、慰めの言葉をもらつても一と通りの挨拶で受けるだけで、その挨拶にも顏のいろにもつつぱねたものが感じられた。いろいろとかきくどき、うはずつた聲でいふだらうと豫想して來た人達にはなにかもの足らぬ感じを與へたのである。
「なんて情のこはい婆さんだらう。なるほどね、息子もあれに似たんだね、業さ、業たかりだよ。」
人々はそつと陰口をたたいた。自分には直接かかはりのない人間の不幸を、一定の距離をおいて眺め、やさしい言葉をかけることのなかに感じる殘酷な喜びを裏切られた憎らしさがそこにはこめられてゐた。おちかは人の眼のとげを感じながら、だまつて目立たぬやうに生きて行つた。さうして自分ひとりでぢつとたへて來た心の重しは、五年後の今日、今はかくしきれぬものとなつてあらはに肉體に刻み殘されてゐる。痩せるだけ痩せ、顏は小さくなり、眼だけがこれを限りと一つものにしがみつく必死な光を放つてゐた。
おちかは立ち上つて着ものを着かへた。坐つた當初から心の隅にきざし、しだいに大きくひろがつて來た不安にもうぢつとしてゐることができなかつた。この手にたしかに握れると約束はされながら、そのものを現實にしかと握つてみないうちは、その約束の時が近づけば近づくほどかへつて益々大きなものになつて行くあの不安である。おもひもかけない何らかの障害が、今、渇望の滿されようといふその瞬間にふいにどこからか割り込んで來てすべてをぶちこはしにしてしまふ、いためつけられ通しの六十年の過去にさういふ事實は一再にとどまらなかつた。その暗いかげにおちかはおびえた。
おちかは雨戸を一枚だけあけ、空をうかがはうとからだをのり出した。さつと音もなく繁吹きが來て顏をぬらした。あ、雨か、と今はじめて氣づいた。うつすらと向うから白みかけて來る空のなかに細い雨脚がみだれてゐる。
おちかはそつと廊下を行き、臺所へ來て、ことこととひそかな音をさせながら朝の支度にとりかかつた。
「ねえさん、もうそんな時間なの。」
茶の間につづく座敷に寢てゐるひさがねむさうな聲でいつた。
「さあ、何時だやら、眼がさめたんですぐに起きてきたんだけれど。」
何氣ないふうをよそほつて言つた。やつぱしその日の朝となればおちついて寢ても居れんぢやないか、平氣らしく構へてゐるのはうはべばかしさ、とあざわらひの氣持で心の底をのぞかうとしてゐるものたちがゐる。
夜明けから降りだしたらしい雨は小止みなしに、晝すぎからは風さへ出て來た。壁は濕氣を吸ひ込み、火鉢の欲しいやうな寒さは、腰の神經痛にひとしほこたへしんしんと疼き出すのであつた。この部屋は狹いせゐかあつたかだね、と玄關に近い三疊の小女の部屋にひきこもり、小女相手におちかが雜布を刺してゐるのにはわけがあつた。新市域にはいつてから近年この界隈にはめつきり家がふえ、驛につづく表の街道は人通りも増し、午後になると圓タクがひつきりなしに往き來した。姿は見えないが、その一つが家の前近くとまるとき、この小さな部屋にゐてはつきりそれとわかるのである。その度ごとにおちかはどきんとし、からだぢゆうの神經を一つにして、聽耳を立てるのだ。くぐりを開け、砂利を踏んで來る足音をとらへようと焦るのである。そつと音のせぬやうに廊下へ來て、襖を半ばあけ、のぞきこんで、そんなおちかを眼で弄ぶやうにじろじろ見ながらひさが言つた。
「さうさう、今日は順吉さんが歸つて來る日だつたのねえ。今氣がついた。停車場まで迎ひに行つてあげたらいいに。」
通りしなにふと氣づいて襖をあけたらしくつくろつてはゐるが、實はわくわくする興味をおさへかねてわざとのぞきに來たことをその眼は語つてゐる。たつた一人の甥の喜びの日を忘れてゐたといふ、それだけでもう自分の薄情をさらけだしてゐる、事實はしかし一ヶ月も前からおちかとはちがつた關心から今日の日のことを考へ、それにのみこだはつて來たやうなひさであつた。
「子供ぢやないんだし、それに着く時間もわからないしするから。」
ぼそぼそと低く口のなかで答へた。針を持つ手の細かなふるひが剥ぐやうな意地わるな眼に映りはしないかとおそれるのだ。だらしなくスリツパをひきずるやうにして足音が遠ざかると、家ぢゆうの誰彼をつかまへて、電報一本うたぬ息子も息子だし、迎ひに行かうともしない親も親だと陰口をきいてゐるひさが眼に見えるやうである。ときどき空に眼をやり、街路の音に氣を持ちつづけ、つひに日暮れちかくなつて車が一臺この家の塀の曲り角に近くとまつた。たしかにそれとすぐに胸にぢかに來た豫感があつた。おちかは急いで立つて、街路がそこからまつすぐ見通せる玄關横の應接間にはいつて窓から見た。行李を地におろし、こつちに背を見せながら若い男が金を拂つてゐる。季節にはまだ早いはねあげたとんびの袖の間からは、あきらかに自分が手がけて縫つた着物の柄がのぞかれた。おちかは部屋を出ると、臺所にかけてあつたはたきと箒を手にして二階へ上つて行つた。もう夕方の掃除の時間が來たと、なにげなく見せかけるふうではあつたが、胸はわれるやうに早鐘をうつてゐた。しばらくすると下の方に、廊下を往き來する足音と、ひさに女中、それに男の聲がまじつて話すこゑがきこえた。バタバタと子供が走つてくる音がすると、「花子や、をばさんにね、順吉さんが歸つたからすぐにいらつしやいつて、」と、ひさがいつてゐる。
「をばさん、どこ?」「さあ、お二階でお掃除かしら。」
すぐにそこの階段の中程に足をかけ、くりかへす花子のこゑがきこえて來た。
「をばさん、をばさん、順吉さんがお歸つたからすぐにいらつしやいつて。」
塵もないそこらあたりにはそはそはと箒をあててゐたおちかは、あい、今行きますよ、と高く答へながらそのこゑははつきりふるへてゐた。
下の座敷へ下りてみると、順吉はそこにきちんと膝を重ね、叔父夫婦と向ひ合つて坐つてゐた。後ろ向きにやや斜に坐つてゐる順吉の、のばしかけてまだいくらにもならない髮の毛が子供のそれのやうにぽやぽやと細く柔らかに、色はうすく赤味がさし、榮養のわるい感じで、額が目立つてぐつと禿げあがつてゐるのが、まつさきにおちかの眼をとらへた。足音に母親と知ると、順吉は顏をかへしてまつすぐにこつちを見た。正面からおちかの顏にじつと見入り、しつかとすわつたその眼つきはおちかがかねて心のどこか奧の方で豫想してゐたものよりは、はるかに強いものであつた。こはばつた表情で受けとめ、ふたたび視線のそれるまでの瞬間の激情におちかはからくも踏みこたへたのである。
「御挨拶はすんだのだね。」
おちかのはじめての言葉であつた。順吉は靜かにうなづいた。
「おまへ、ちよつと失禮をして着ものを着かへたら……」
隅の方に坐つて、臆病さうにおちかはまた言つた。同時に、これがあの五年のあひだ夢寐にも忘れることなく待つてゐたその瞬間かとおもへば嘘のやうな氣もし、崩をれて行く心の疲れをどうすることもできなかつた。
歸つて來た順吉の心をおちかはどうにもはかりかねるのであつた。その夜、二人だけの四疊半にはいり、向ひ合つて坐ると、順吉は母の前に手をついて言つた。
「ほんとうにお母さん、長いあひだいろいろ御心配をおかけして、……」
言葉はそこでぷつつりときれ彼はおもはずこゑをのんだ。しばらくしてから、身體はこのごろどうですか、神經痛はやつぱり出ますか、とさういふことをやさしくいたはるやうにきいた。その言葉にこもるしみじみとしたものに感じておちかは見失つたわが子をふたたびこの手につかんだとおもつた。が、さう思つた次の瞬間におちかはもう不安であつた。五年のあひだの恐ろしい生活に少しも挫けて見えぬはげしい意地の張りがおもひもかけず順吉の眉目にひらめくからである。順吉の無事の歸宅を祝ふ意味で、かたばかりの祝ひの膳にその晩一家ぢゆうのものがついたとき、思つたより順さんは元氣に見えるといひ、ひさはしきりにはしやいで見せた。叔父の奎吾もその言葉を受けて大きくうなづき、近しくしてゐる府會議員の某が、收賄で十ヶ月はいつたときのやつれやうなどは見られたものでなかつた。やはり氣一つのものと見える、などと話した。順吉は尾頭づきの魚の鹽燒に箸をつけて、何年ぶりでたべるかとわらひ、酒はお愛想に一と口受けただけで二人が話しかける言葉を口數すくなく受け流すのだつた。さういふ彼を側に見ながらおちかは人知れずひとり氣をもんだ。奎吾やひさの饒舌はなにも順吉にたいする好意からではない、向ひ合つて坐つてゐる順吉にはきびしい感じで迫つて來るものがあり、ふとした言葉のとぎれにはとくに重々しくのしかかつて二人はその氣づまりにたへないのである。垣をつくつて力んでゐるふうは少しもないのにそこからさきはよせつけぬといふところがあり、うかつに順吉の過去にふれることを阻むものがあつた。請負師といふ家業が持ついやしさに滿ちて人を人とも思はぬ奎吾の面魂をはじきかへして見える順吉を見ることは、うちひしがれ、卑屈になつた彼を見るより何程の喜びであるか知れはしない、だが今後どれほどの期間かここにこのまま世話にならねばならぬ母子の生活をおもへば、たとへ表向きだけでももちつと調子の合せやうもあらうにとおちかは氣兼ねなのである。さういふ順吉がおちかと二人きりでゐるときにもひよいひよい顏をだした。心弱く挫けて母の膝に泣きくづれるやうな子であつたらと、そんな順吉がむしろのぞましいものにおもはれさへするのだ。完全にこの手のうちに戻つたとまだいひ切ることのできぬ氣がする。もう二度とどこへも行かないでおくれ、その言葉がのどまで出ながら、それをぐつと押し戻すものが順吉のどこかにまだ殘つてゐた。