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「お嬢さんを見ると、先生のことを思出します。ほんとにお嬢さんは先生によく似てお出だ」
蜂谷はおげんの旦那のことを「先生、先生」と呼んでいた。
「蜂谷さん、あれももう四十女よなし」とおげんは言って見せた。
「もうそうお成りですかいなあ」と蜂谷も思出したように、「私が先生の御世話になった時分はお嬢さんもまだ一向におちいさかった。これまでにお育てになるのは、なかなかお大抵じゃない」
「いえ、蜂谷さん、あれがあるばかりに私も持ちこたえられたようなものよなし。ほんとに、あれのお陰だぞなし。あれは小さな時分からすこしも眼の放されないようなもので、それは危くて、危くて、『お新、こうしよや、ああしよや』ッて、一々私が指図だ。ゆっくりゆっくり私が話して聞かせると、そうするとあれにも分って、私の方で教えた通りになら出来る。なんでもああいう児には静かな手工のようなことが一番好いで、そこへ私も気がついたもんだで、それから私も根気に家の仕事の手伝いをさせて。ええええ、手工風のことなら、あれも好きで為るわいなし。そのうちに、あなた、あれも女でしょう。あれが女になった時なぞは、どのくらい私も心配したか知れすか」
「全く、これまでに成さるのはお大抵じゃなかった。医者の方から考えても、お嬢さんのような方には手工が適しています。もうこれまでになされば、小山さんもご安心でしょう」
「そこですテ。私があれに干瓢を剥かして見たことが有りましたわい。あれも剥きたいと言いますで。青い夕顔に、真魚板に、庖丁と、こうあれに渡したと思わっせれ。ところが、あなた、あれはもう口をフウフウ言わせて、薄く切って見たり、厚く切って見たり。この夕顔はおよそ何分ぐらいに切ったらいいか、そういうことに成るとまるであれには勘考がつかんぞなし。干瓢を剥くもいいが、手なぞを切って、危くて眼を放せすか。まあ、あれはそういうものだで、どうかして私ももっとあれの側に居て、自分で面倒を見てやりたいと思うわなし。ほんに、あれがなかったら――どうして、あなた、私も今日までこうして気を張って来られすか――蜂谷さんも御承知なあの小山の家のごたごたの中で、十年の留守居がどうして私のようなものに出来すか――」
思わずおげんは蜂谷を側に置いて、旧馴染にしか出来ないような話をした。何と言ってもお新のような娘を今日まで養い育てて来たことは、おげんが一生の仕事だった。話して見て、おげんは余分にその心持を引出された。
蜂谷は山家の人にしてもめずらしいほど長く延ばした鬚を、自分の懐中に仕舞うようにして、やがておげんの側を離れようとした。ふと、蜂谷は思いついたように、
「小山さん、医者稼業というやつはとかく忙しいばかりでして、思うようにも届きません。昨日から私も若いものを一人入れましたで。ええここの手伝いに。何かまた御用がありましたら、言付けてやって下さい」
こう言って、看護婦なぞの往ったり来たりする庭の向うの方から一人の男を連れて来た。新たに医学校を卒業したばかりかと思われるような若者であった。蜂谷はその初々しく含羞んだような若者をおげんの前まで連れて来た。
「小山さん、これが私のところへ手伝に来てくれた人です」
と蜂谷に言われて、おげんは一寸会釈したが、田舎医者の代診には過ぎたほど眼付のすずしい若者が彼女の眼に映った。
「好い男だわい」
それを思うと、おげんは大急ぎでその廊下を離れて、馳け込むように自分の部屋に戻った。彼女は堅く堅く障子をしめ切って置いて、部屋に隠れた。
九月も末になる頃にはおげんはずっと気分が好かった。おげんは自分で考えても九分通りまでは好い身体の具合を恢復したと思って、それを蜂谷にも話し、お新や婆やにも話して悦んで貰うほどであった。そこでいよいよ彼女も東京行を思立った。「小山さん、小山さん」と言って大切にしてくれる蜂谷ほどには、蜂谷の細君の受けも好くなくて、ややもすると機嫌を損ね易いということも、一層おげんの心を東京へと急がせた。この東京行は、おげんに取って久しく見ない弟達を見る楽しみがあり、その弟達に逢ってこれから将来の方針を相談する楽みがあった。彼女はしばらくお新を手放さねば成らなかった。三月ばかり世話になった婆やにも暇を告げねばならなかった。東京までの見送りとしては、日頃からだの多忙しい小山の養子の代りとして養子の兄にあたる人が家の方から来ることに成った。
出発の前夜には、おげんは一日も離れがたく思う娘の側に居て、二人で一緒に時を送った。
「お新や、二人で気楽に話さまいかや。お母さんは横に成るで、お前も勝手に足でもお延ばし」
とおげんは言って、誰に遠慮もない小山の家の奥座敷に親子してよく寛いだ時のように、身体を横にして見、半ば身体を起しかけて見、時には畳の上に起き直って尻餅でも搗いたようにぐたりと腰を落して見た。そしてその度に、深い溜息を吐いた。
「わたしは好きな煙草にするわいなし」
とお新は母親の側に居ながら、煙草の道具を引きよせた。女持の細い煙管で煙草を吸いつけるお新の手付には、さすがに年齢の争われないものがあった。
「お新や、お母さんはこれから独りで東京へ行って来るで、お前は家の方でお留守居するだぞや。東京の叔父さん達とも相談した上で、お前を呼び寄せるで。よしか。お母さんの側が一番よからず」
とおげんが言ったが、娘の方では答えなかった。お新の心は母親の言うことよりも、煙草の方にあるらしかった。
お新は母親のためにも煙草を吸いつけて、細く煙の出る煙管を母親の口に銜えさせるほどの親しみを見せた。この表情はおげんを楽ませた。おげんは娘から勧められた煙管の吸口を軽く噛み支えて、さもうまそうにそれを燻した。子の愛に溺れ浸っているこの親しい感覚は自然とおげんの胸に亡くなった旦那のことをも喚び起した。妻として尊敬された無事な月日よりも、苦い嫉妬を味わせられた切ない月日の方に、より多く旦那のことを思出すとは。おげんはそんな夫婦の間の不思議な結びつきを考えて悩ましく思った。婆やが来てそこへ寝床を敷いてくれる頃には、深い秋雨の戸の外を通り過ぎる音がした。その晩はおげんは娘と婆やと三人枕を並べて、夜遅くまで寝床の中でも話した。
翌日は小山の養子の兄が家の方からこの医院に着いた。いよいよみんなに暇乞いして停車場の方へ行く時が来て見ると、住慣れた家を離れるつもりであの小山の古い屋敷を出て来た時の心持がはっきりとおげんの胸に来た。その時こそ、おげんはほんとうに一切から離れて自分の最後の「隠れ家」を求めに行くような心地もして来た。お新と婆やは、どうせ同じ路を帰るのだからと言って、そこまで汽車を見送ろうとしてくれた。こうして四人のものは、停車場を立った。
汽車は二つばかり駅を通り過ぎた。二つ目の停車場ではお新も婆やもあわただしく車から降りた。
養子の兄はおげんに、
「小山の家の衆がみんな裏口へ出て待受けていますで、汽車の窓から挨拶さっせるがいい」
こう言った頃は、おげんの住慣れた田舎町の石を載せた板屋根が窓の外に動いて見えた。もう小山の墓のあたりまで来た、もう桑畠の崖の下まで来た、といううちに、高い石垣の上に並んだ人達からこちらを呼ぶ声が起った。家の裏口に出てカルサン穿きで挨拶する養子、帽子を振る三吉、番頭、小僧の店のものから女衆まで、殆んど一目におげんの立つ窓から見えた。
「おばあさん――おばあさん」
と三吉が振って見せる帽子も見えなくなる頃は、小山の家の奥座敷の板屋根も、今の養子の苦心に成った土蔵の白壁も、瞬く間におげんの眼から消えた。汽車は黒い煙をところどころに残し、旧い駅路の破壊し尽くされた跡のような鉄道の線路に添うて、その町はずれをも離れた。
おげんはがっかりと窓際に腰掛けた。彼女は六十の歳になって浮浪を始めたような自己の姿を胸に描かずにはいられなかった。しかし自分の長い結婚生活が結局女の破産に終ったとは考えたくなかった。小山から縁談があって嫁いで来た若い娘の日から、すくなくとも彼女の力に出来るだけのことは為たと信じていたからで。彼女は旦那の忘れ形見ともいうべきお新と共に、どうかしてもっと生甲斐のあることを探したいと心に思っていた。そんなことを遠い夢のように考えて、諏訪湖の先まで乗って行くうちに、汽車の中で日が暮れた。
おげんは養子の兄に助けられながら、その翌日久し振で東京に近い空を望んだ。新宿から品川行に乗換えて、あの停車場で降りてからも弟達の居るところまでは、別な車で坂道を上らなければならなかった。おげんはとぼとぼとした車夫の歩みを辻車の上から眺めながら、右に曲り左に曲りして登って行く坂道を半分夢のように辿った。
弟達――二番目の直次と三番目の熊吉とは同じ住居でおげんの上京を迎えてくれた。おげんが心あてにして訪ねて行った熊吉はまだ外国の旅から帰ったばかりで、しばらく直次の家に同居する時であった。直次の家族は年寄から子供まで入れて六人もあった上に、熊吉の子供が二人も一緒に居たから、おげんは同行の養子の兄と共に可成賑かなごちゃごちゃとしたところへ着いた。入れ替り立ち替りそこへ挨拶に来る親戚に逢って見ると、直次の養母はまだ達者で、頭の禿もつやつやとしていて、腰もそんなに曲っているとは見えなかった。このおばあさんに続いて、襷をはずしながら挨拶に来る直次の連合のおさだ、直次の娘なぞの後から、小さな甥が四人もおげんのところへ御辞儀に来た。
「どうも太郎や次郎の大きくなったのには、たまげた。三吉もよくお前さん達の噂をしていますよ。あれも大きくなりましたよ」
とおげんは熊吉の子供に言って、それから弟の居るところへ一緒に成った。
しばらく逢わずにいるうちに直次もめっきり年をとった。おげんは熊吉を見るのも何年振りかと思った。
「姉さんの旦那さんが亡くなったことも、私は旅にいて知りました。」
と熊吉は思出し顔に言ったが、そういう弟は五十五日も船に乗りつづけて遠いところから帰って来た人で、真黒に日に焼けていた。
「ほんとに、小山の姉さんはお若い。もっとわたしはお年寄になっていらっしゃるかと思った」
とそこへ来て言って、いろいろともてなしてくれるのは直次の連合であった。このおさだの言うことはお世辞にしても、おげんには嬉しかった。四人の小さな甥達はめずらしいおばあさんを迎えたという顔付で、かわるがわるそこへ覗きに来た。
おげんが養子の兄は無事に自分の役目を果したという顔付で、おげんの容体などを弟達に話して置いて間もなく直次の家を辞して行った。その晩から、おげんは直次の養母の側に窮屈な思いをして寝ることに成ったが、朝も暗いうちから起きつけた彼女は早くから眼が覚めてしまって、なかなか自分の娘の側に眠るようなわけにはいかなかった。静かに寝床の上で身動きもせずにいるような隣のおばあさんの側で枕もとの煙草盆を引きよせて、寝ながら一服吸うさえ彼女には気苦労であった。のみならず、上京して二日経ち、三日経ちしても、弟達はまだ彼女の相談に乗ってくれなかった。成程、弟達は久しぶりで姉弟三人一緒になったことを悦んでくれ、姉の好きそうなものを用意しては食膳の上のことまで心配してくれる。しかし、肝心の相談となると首を傾げてしまって、唯々姉の様子を見ようとばかりしていた。おげんに言わせると、この弟達の煮え切らない態度は姉を侮辱するにも等しかった。彼女は小山の家の方の人達から鋏を隠されたり小刀を隠されたりしたことを切なく思ったばかりでなく、肉親の弟達からさえ用心深い眼で見られることを悲しく思った。何のための上京か。そんなことぐらいは言わなくたって分っている、と彼女は思った。
到頭、おげんは弟達の居るところで、癇癪を破裂させてしまった。
「こんなに多勢弟が揃っていながら、姉一人を養えないとは――呆痴め」
その時、おげんは部屋の隅に立ち上って、震えた。彼女は思わず自分の揚げた両手がある発作的の身振りに変って行くことを感じた。弟達は物も言わずに顔を見合せていた。
「これは少しおかしかったわい」