Chapter 1 of 4

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九月のある朝。初秋の微風が市街の上空をそよそよとゆれ渡つてゐた。めづらしく平穏な朝で、天と気は澄みわたり、太陽の光りが輝やき充ちてゐた。北輝雄は未だ夏期の暖みの去らない光明を頭からいつぱい浴びながら、無細工な大きな卓机にもたれかゝつていゝ気持でうつとりしてゐた。やうやく三十分前ばかりに眼を醒ましたところだつた。彼の勉強室でもあり、仕事室でもあり、応接室でもあり、また食堂でもあり、一日の働きの疲労をねぎらひ、新しい次の日の精力を恵んで呉れる寝室でもあるその一室には、未だ昨夜からの薄ぎたない寝床がそのまゝに敷かれてあつた。窓際からは、本郷の高台の深い樹木の茂みや折り重なつた建築の断層が蒼い天の下に見え、窓先の無果樹の大きい葉がそれらの視望をゆすぶつてゐた。彼は決して、八畳の部屋に雑然と置かれた卓机や、書架や、一方の壁にはりつけてある世界地図や天体の星図や、地図の上にかゝげてある耶蘇と釈迦の肖像などと部屋の中央に敷かれてある夜具の不調和を見ないわけではなかつた。いつもだつたら彼等自身への申分けのやうに、顔を苦々しくしかめて夜具を押入へ投げ入れ、庭園の井戸端へ出て冷たい水を浴びて来なくては承知しなかつたであらうが、今朝は、ふつと眼を醒ますと、さあつと朝光の流れがまともに彼の頭上に溢れかゝつてゐたのだ。昨夜雨戸をしめることを忘れて寝た偶然が思ひがけぬ喜びの因となつたのである。彼は蒼い天に輝く太陽を仰いだとき自分は祝福されてゐると信じないわけにゆかなかつた。この天と太陽は今朝は自分一人のために自由で無果で偉大で熱烈であるのだと思はずにゐられなかつた。それ故彼はむつくり起き上がつて椅子に腰かけ卓机にもたれかゝつたまゝ、一切から解放された美はしい光輝にうつとりしてゐた。微風がそよぐたびに、無果樹の緑紫の色葉がゆれるほか、この瞬間の彼自身にとつて全宇宙と雖も何するものであらう!

「いゝな。」

と彼は無意識にうなづいた。あゝ、生気と力と美に荘厳されたこのひとゝきの世界よ。

が、このひとゝきは、自ら生じた何故とも知らぬ深い大きい溜息で破られ、彼の魂に不快な暗い陰影が生じて来た。それは魂の高揚と充実がほぐれかゝる空隙にしみいる悲痛な、暗い生活の陰影であつた。(何故自分はこの壮大な歓喜に永住することをゆるされないのであらうか。何故自分はこの悦ばしき高揚に脈うつてゐられないのであらうか。)彼はまた深い大きい溜息をついた。もう歓喜の波は遠のいてしまつて、悲壮な気持が、彼の苦闘と勝利につらなる現実の生活に対し、堅い堅い「きつと勝つて見せるぞ」と云ふ信念となつて相対してゐた。

彼の部屋はある旧華族の有つ果樹園の中の一室きりの平家だつた。以前、この果樹園の持主が本気で果樹の栽培をやつてゐた時分は手軽な休み所として建てたものであつたらしいのを、今年の春以来、自分の住居として借りてゐるのである。都会の真中で新鮮な空気と広大な天地を求めるにはこれより他に道が無かつたのだ。やがて、北は夜具をたゝみ、障子を明けて戸外へ出た。巴丹杏や林檎や蜜柑の樹が雑草の生ひ茂つた荒れはてた庭園いつぱいに枝を交へて、どれも虫がついて早熟したらしい果実が鹿野子色、黄色、緑金色の色合を澄み渡つた秋空にはしらせてゐた。井戸端に来ていつものやうに素つ裸かになつて骨つ節の太い肉附のひきしまつた自分ながら頼もしい皮膚の表面へ肉体をいたはりながら頭からつゞけざまに冷水を浴びる。白い水に日光がきらきら光りほんのり血がのぼつてくる健やかな美しさ。十杯もあびてゐるうちに、身内から凛々たる精気が一種の戦慄となつて湧きのぼつてくる。彼はぶるぶる武者ぶるひをしてしばらく木の間がくれに向ふの丘のあたりに見える建築を眺めてゐたが、そのあたりが大学の在るところなのに気づくと、どう云ふものか刺戟され、「さあ。」といふ気になつて、自分の部屋にかへつた。

朝起きの牛乳屋が寝てゐる間に土間に置いていつた牛乳と堅いパンが北の朝飯であつた。彼は幸福な太陽と大空との恍惚からはなれて、パンをむしりながら、新聞の外国電報欄を注意深く読みながら壁間の世界地図の上にその一字一句を明確に具象化することのたのしみにうつつてゐた。非常に根深い革命の事実は、鉄蹄の下に全地上を蹂躙する帝王や英雄の仕事の楽しみをもつてさへ彼の魂を誘惑しさうでならなかつた。実際近頃彼の心境はナポレオンを一概に批難し去る気にはなれないで、むしろ、あらゆる新聞が軽々しく論決を下す論調に腹立たしさを感ぜずにはゐられなかつた。ほんとうに、国家と国家の戦に流す国民相互の血が一片の理論や解釈によつて片付けられるほどに無意義でもなく、軽々しくもなく、その必然な真義はもつと止むを得ない根本的な命運であり宇宙的な進化であることを認識するならば、階級戦、――上と下との二つの力がきしみあふ革命に流す同胞相互の血を、まるで現代の被征服階級の単なる讐復慾や残忍さ愚昧さやまたは卑劣な野心家の策略などの生みだした仕事だと速断することはあまりに不快でもあり、嫌悪に値することだつた。そこにはもつと重大な深い必然性を認めないわけにはゆかない。お互に血と血を流し合ふことは決して容易なことではない。たとへどんなに野獣のやうな表現をとらうともその厳粛な内面の意義を崇高で悲壮な人類の進化の一歩でないと誰が断言できようか。

凡そ多くの人間の欠点は事実のうはつらだけを見てその事実を裏付けてゐる重大な内面的意義を透観することをしないことにある。このことは凡そ習俗に通有する性質ではあるが、ことに日本人中のある階級の人間はひどいのである。民衆には言葉はなくとも直観があつて、火薬のやうに火のつけられるのを待つてゐるが彼等一部の人間は内容が空虚で、たゞ論理と形式の空音ばかりしかもつてゐない。――が、こんなことは凡そつまらないことのおびたゞしいものだ。自分はもつと緊要な仕事を持つてゐたのだ、と、彼は気づいた。――それに今日は朝寝をして、もう正午に僅か長針の二まわりもない位ではないか。あゝ、それにしてもこの祝福された朝に、自分が全力をそゝいで仕事の出来る幸福さを思つてくれ! 自分は今、何として、幸福なんだらう!

北は新聞を捨てゝ原稿用紙を取り出した、地図の上からは群集も叫喚も砲声も消え失せてしまつた。彼はペンを握つていつものやうに書きはじめたが、たゞ、涙がにじみ出さうでならなかつた。あゝ、にじみ出る涙に無理はないのだ。彼が未だ幼稚で初々しい少年の胸底深くにもあの悲痛な、己れの一生を貧しき者、弱き者の運命のために捧げようとはじめて決心してから何と云ふ永い苦しい燃え立つた年月が過ぎ去つてゐることだらう。その間の艱難と辛苦と忍耐に充ちた放浪の生活が彼には今も生き生きと未だに甦つてくる。其間に出あつた多くの善良な苦しめる人々の魂が今も生き生きと未だか、未だかと迫つてくる。幾度となくかみしめた己れの無智と無力を嘆ける涙よ、あゝ、何時までも不正なゆるしがたいこの現実の事実に指一本さへ触れることの出来ない哀れな自分であるのかと幾度せまつてくる胸を抱いたことであらう。張りつめた一念だけあつて力のない不甲斐なさを嘆き憤る裏から、更に奮ひ立ち湧きのぼる新しい感激の涙があつた。が、今や、かく、言ひ得るよろこびよ。(自分はもはや零ではない。自分はもはや無ではない。自分は完全なる一ではないであらうが、何分の一、何十分の一、何百分の一、何千分の一、何万分の一である。自分の出来る仕事は実にも未だ微小でこの地上に生滅してゐるもろもろの事業に比べては全く見えない位かもしれない。自分は自分の仕事の弱小に羞じよう。しかし、決して、決して、失望はしまい。たとへどんなに微小であらうともこの自分が、この自分の眼で人類の現代と未来を注視してゐるのだ。あるときは涙にぬれながら、あるときは憤怒に燃えて輝きながら、又あるときはかすかなる望みのほゝゑみをもつて、自分は地上に生滅する人間の生活現象の、ほんとうの意味をはつきりさせたがつてゐるのだ。)と。彼は恐ろしい冒険の気持でそれを書きつゝあつた。そして極めて少数の彼の知己がどうにか彼の仕事のために彼の時間を持つことの出来るやうに力を添へて呉れてゐた。まことに文章は彼にとつては地の脊髄である真理をあらはし、虚偽と醜悪を征服することであつた。彼は人間の感覚では想像出来ない凄まじい猛烈さで進行してゐる巨大な生物地球の表面に毒煙のやうにむらがり泥海のやうに氾濫し、毒草のやうにはびこつて人類を苦しめてゐるもろもろの害悪をはつきり識認した。彼はせめて彼の世界に於てでもその害悪と虚偽を洗ひ清めずにはゐられなかつた。もちろん彼はペンと紙によつて、自己の内生活を照破することだけで満足するのではなかつたが、内心に静かに湛えられてゐる認識と思想はやがては地上に新しき風雲と雷電を呼び起す偉大なる実現の地均しであることの信念が彼の足並を乱させなかつたのである。

午前十一時過ぎでもあつたらうか、彼が急流のやうにせきたつ思想に押し流されまいために、筆を止めて窓から何気なく戸外を眺めてゐると、この小石川の高台の庭園の、古ぼけた根の腐つた裏門を開けて、二人の青年がはいつて来るのが見えた。無果樹の葉蔭で向ふからは見えないが彼からはすつかり見える。一人は大学の制服を着けた背の高い脂肪質な、顔色の白い眉の優しい二十四五の男で、もう一人は新しい仕立上げらしい背広に、草色のソフトをかぶつた背の低い、がつしりした体格で、襟元に一文字に結んだまゝ黒いネクタイがその角ばつた髭あとの青い顎によい対照をなしてゐた。藤井と丘だつた。どうして二人がいつしよに来たのかしれないが雑草に蔽はれた小径を歩くたびに二人の靴先に芝草がひつかかつた。

「こゝです。あの小さい平家が北君の住居です。――留守でなければいゝが。」

と、背の高い大学生は立止つて少し微笑して云つた。

「ありがとう。忙しい中をほんとうにありがとう。」

「それぢや、また、この次会はう。明後日は僕の教室で実験があるからもし暇だつたらやつて来たまへ。」

「あ、ありがとう。今日はありがたかつたよ。ほんとうに、君にとつぜん出合つてよかつた。こんなところだとは知らなかつた。」

「なあに、ぢや、さよなら。北さんによろしく。」

「さようなら。」

藤井は途中で出あつて自分の住居を丘に教へたものらしく、裏門のところで別れていつた。あとは言ひようもない静かな、ひつそりした、秋の白日の果樹園だつた。藤井は遺伝専攻の帝大生である。実業家の家庭教師を勤めて可成の苦学をやつてゐた。北が彼に有する興味はその専攻の遺伝学上の博識と苦学をやつてゐる境遇とに於てであつて、脂肪の多い生白いからだや柔やかな人柄ではあるが、怒りも喜びもそをつと秘密にしてをくやうな陰性な極端に悪く云へば男妾的な性格をあまり好いてはゐなかつた。が、藤井は北がはじめて彼の思想上の著作を発表した当時から、奉仕的な友情をさへ見せて近づいて来てゐた。自分の何処が彼にとつて興味があるのか、殊によつたら何かの犬かも知れないぞと北は邪推したこともあつたが、結局、彼とてもよい友人ではあつたのだ。が、太い短い眉毛の下に落ちくぼんだ大きい瞳を光らせて、口ごもりながら二三度頭をゆすつて何か重大事を思ひ込んでゐるらしい強烈な恐ろしい視線を茂みをへだてゝこちらの方へ向けて立つてゐる丘に就いては少し異なるものがあつた。

実は昨夜、先輩のX氏を久しく訪ねなかつた詫びがてら、本郷の街を逍遥した道すがら寄ると、入り口に立つて取次の返辞を待つてゐる間に、高いひきつつたやうな聞いたこともない調子の話し声が襖越しにきこえる。だめかな、と考へながら会ひたくて会へないで帰る淋しさにおそはれかけたとき、襖が開いて乱れた足どりで背広をきた一人の青年がX氏におくられて出て来た。北は背の低いその青年にあまり注意しないで、久しぶりに顔を見るX氏のどこか弱々しい、涙にぬれたあとのやうな笑顔を見た悦びに浸たつてゐた。するとX氏が「丘君、それぢやW氏にお会ひの節はよろしく」と云つた。運命と云ふものは不思議なものでないか。北のもうらうとしてゐた注意がぱつと一瞬に燃えてその青年を照らし出した。あゝ、君だつたのか、と彼は不意な久しい後でのふたゝびの対面の悦びと驚異といぶかる気持とを交錯しながらそこに棒立ちになつてしまつた。

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