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天国の記録
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天国の記録
下村千秋
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Nguyên bản Public Domain
Chapter 1 of 12

一

三月の末日、空つ風がほこりの渦を卷き上げる夕方――。

溝の匂ひと、汚物の臭氣と、腐つた人肉の匂ひともいふべき惡臭とがもつれ合つて吹き流れてゐる、六尺幅の路地々々。その中を、海底の藻草のやうによれ/\と聲もなくうろついてゐる幾千の漁色亡者。

一つの亡者が過ぎて行くと、その兩側の家の小窓から聲がかゝる。遠くから網をなげかけてたぐり寄せるやうな聲、飛びついて行つてその急所へ喰ひつくやうな聲、兩手で掴まへて力一ぱいゆすぶるやうな聲、嘆聲をあげてあはれを賣るやうな聲、哀音をしのばせて可憐さを訴へるやうな聲。

「どうだえ、陽氣なもんだらう。」

先に立つて歩いてゐた辰つアんは、後からついて來る周三とおきみの方へふり向いて、さう言ひかけた。

「まるで何だらう。夏の夜、谷川の道を歩いてると、それ、河鹿てえ奴の鳴き聲が、次ぎから次ぎへと新しく湧いて來る、ちやうどあれ見てえだらう。」

周三もおきみもそれには答へなかつた。周三は、よれ/\の袷の裾下から現はした細い脚をひよろつかせながら、首を縮めて歩いてゐた。おきみは、からだの中に惡寒を感じながら、胸を顫はして歩いてゐた。彼女の耳には、女達の叫び聲が、地獄の底から漏れて來る可鼻叫喚に聞えた。

「何しろいゝ氣持ちのもんだよ。それが毎日毎晩、照つても降つても、三千人からの客がなだれ込むてえんだから、まつたく豪勢なもんだらう。おなじ働くんなら、こんな場所で働かなけりや嘘さ。」

辰つアんはまたそんなことを言ひながら、叫びかける女共の聲へ頓狂な聲で答へたり、呼び込み口へ頭を突つ込んで、げすなことを吐き散らしたりした。

暗い路地は、奧へ入るほど複雜してゐた。それはまるで蟻の巣であつた。辰つアんは、その中を右へ折れ、左へ曲つて、後の二人を案内してゐたが、とある角の青い軒燈のついた家の前へ來ると、その呼び込み口へ、モヂリの片袖を掛けて、

「こんばん」と聲をかけた。と、中から可愛い聲で、

「はい、こんばん、おあがんなさいな。」

「このおたんちん、お客ぢやねえや……ゐるかえ?」

「あら、辰つアんなの、いやに色男に見えたからさ……ゐるわよ、どうぞ。」

辰つアんは、少し離れて立つてゐる周三とおきみの傍へ來て、

「ちよつと待つてゝくんな」と言ひながら、やつと人のからだが入れるほどの路地を、裏手の方へ入つて行つた。が、すぐ出て來て、

「こつちへお入りよ」と二人を手招いた。

二人は、裏手の臺所から、三疊ほどの茶の間へ通された。そこの長火鉢の前には、銀杏返しの變に青つぽく光る羽織をだらりと引つ掛けた女が、いぎたなく坐つて卷煙草をふかしてゐた。

「こちらがおきみちやん、こちらが旦那樣、それからこれが、當家の御主人、お銀ちやん。」

辰つアんは、そんな言ひ方で、双方を紹介した。

「どうぞ、よろしくお願ひします。」

おきみは丁寧に頭を下げた。

「あたしこそ」お銀ちやんと言はれた女はさう答へると、「辰つアん、二階へ案内しなよ。こゝは狹くつて話も出來やしない。」

二疊と三疊と四疊半が二階の全部であつた。二疊と三疊は、彼女達の勞働部屋で、四疊半はひきつけ部屋になつてゐた。二人はそこへ案内された。黒檀まがひのちやぶ臺、眞赤なメリンスの座蒲團、ビーズ細工を飾りつけた電燈、壁に貼りつけた活動俳優のプロマイド、ペンキ畫の富士山の額、一生懸命に明るく華やかに飾りつけてゐながら、そこには塵箱の中のやうなむさ苦しさとむせつぽさとが籠つてゐた。辰つアんは、二人をその中へ坐らせて、

「どうです、見かけによらずしやんとした家でせう。」とふところから出した手で顎を撫でながら部屋を出て行つた。

間もなく階下からは、とき/″\げすな大聲が混つて、辰つアんとお銀ちやんの密談がもれて來た。

周三は壁に凭れて、おきみは、ちやぶ臺の上に肘をついて、ぢつと息を殺してゐた。やがて周三は言つた。

「辰つアんが、こゝの主婦の亭主だといふのは嘘らしいよ。また引つかゝつたかも知れない。」

「そんなこと、どうでも構はないわ。」

おきみは、度胸を据ゑた聲で答へた。

「こんな場所で、お前につとまるかえ?」

「やつて見るわ。だつて仕方がないぢやないの、今更ら……」

二人はそんなことを話し合ひながら、各自の胸の中で――こんなことになる筈ではなかつたがと自分に言つた。と言つて、――ぢや、かうならなければどうなつたのだ? と自問しても、それに答へることは出來なかつた。

十日ほど前の夜のことであつた。おきみは、長野發の終列車で上野へ着いた。そして、省線電車のガード下に待つてゐた周三と一緒になつた。半年ぶりで會へた二人は、互の愛情を現はすために、互の腕を力一ぱいつねり合つた。彼等はそんな場所でものを言ひ合ふことを豫め禁じてゐたのである。

二人はすぐ省線に乘つた。新宿で下車した。その足ですぐ旭町へ入つて行つた。そして狹い路地の中のマルマンといふ木賃宿についた。

おきみは、命がけの仕事をして來たのである。それは、火のついた爆彈を背負つてゐるやうな氣持ちであつた。二人はそのためにいつ粉碎されるかも知れない氣持ちであつた。それは何であつたか?

しかし二人はそれを二人きりの部屋の中でも口へ出さなかつた。あらゆる意力を水の如く冷靜に集中して、その爆彈の火を消さうとしてゐた。

二人は最初一泊二圓の四疊半の部屋で、メリンスの蒲團へ寢た。が、三日目には一泊一圓の木綿蒲團へ移らねばならなかつた。しかしこれも二三日で、こんどは一泊七十錢の、北向きの三疊の、棚も押入れもない、さま/″\の汚物で眞黒になつた疊の部屋へ追ひつめられた。

二人は、この部屋の窓から、灰色の空を眺め、下の路地をうろつく浮浪者を見下し、近くの線路を往復する汽車のひゞきを聞き、木枯の後の海鳴りのやうな都會の喘ぎ聲をきいた。さうして、明日の日の來ることも信じられない眞暗な前途に對し、溜息をもらしてゐた。

一週間ほどするうち、二人は日拂ひの宿料が支拂へなくなつた。當然の結果として、二人はその宿の追ひ立てを喰つた。おきみは、宿の主婦の膝元へひれ伏して、もう五六日泊めておいてくれと願つたが、主婦は、砂利のやうな言葉を吐いて、おきみの頼みをはねつけた。

そこへ一人の男が出て來た。彼等の隣室に泊つてゐる夜店のバナナ屋と稱する男であつた。その男は、これまで廊下などでおきみとぶつかる毎に、へえ/\と頭を下げて馴れ/\しく言葉をかけてゐた。それが出て來て、

「同じ宿へ泊つてゐるよしみです。當分の宿料はわしが立て替へときやせう」と言つた。

さういふその男の魂膽はどこにあつたか? しかしおきみと周三は、その疑問を詮議する前に、背に腹は代へられぬ、といふせつぱ詰つた氣持ちから、とりあへず、その男の厚意を受けずにはゐられなかつた。

と、次の夜、その男は二人の部屋へのそりと入つて來て、おきみへ言つた。

「どうだね、失禮な話かも知れねえが、實ア、わしの女房も働かしとくんでこんな話も持ち出すんだが、一つ、わしの女房のゐる銘酒屋で働いて見ちや。」

おきみはそれを聞くと、ぐつと胸が詰つた。默つてゐると、相手は、

「働くのがいやぢやこれから先、どうして生きて行かうてんだね。こんな木賃宿にいつまでもそんなことをしてゐたら、飛んでもねえ誤解を受けて警察へ突き出されますぜ。」

この言葉に、おきみは思はず顏色をかへた。相手の男はそれを見逃さなかつた。そしてこんどはおつかぶさるやうに、

「そいつが恐かつたら、わしの言ふことをきゝなせえ。惡いやうにはしないよ。」

「…………」

「いやかえ。いやだといふのかえ?」

彼は自分の顏を、おきみの鼻面へぶつけるやうに持つて來た。その顏の眉間には、ヂヤガ芋ほどの瘤があつた。その瘤の下へ暗い影を寄せて、彼はぐいとおきみを睨みつけた。そこには、金と意地とのためには命のやり取りもしかねない無智な狂暴性が自づと浮んで來た。

見てゐた周三もそれにはギクリとした。

おきみは聲をふるはして答へた。

「行きますわ、どこへでも行つて働きますわ。」

さうしておきみと周三は、首に綱をつけられた仔犬の如く、いや應なしにこの世界へ連れ込まれて來たのであつた。その男といふのが即ちこの辰つアんだつたのである。

二人は階下の密談にきゝ耳を立てながら不安の目を光らしてゐた。

そこへ辰つアんが先に、お銀ちやんも上つて來た。お銀ちやんは、ちやぶ臺の上へぐたりと片肘をつき、その上へ、平つたい濁つた顏を載せて、おきみと周三を代る/″\ヂロ/\と見守つてから、

「とにかく、ひも(情夫)つきには困るよ」とふて/″\しく言つた。

「まア待ちねえ」と辰つアんは受けて、いが栗頭をぬつと周三の方へ突き出し、「お前さんといふ男が喰つついてるんで、おかみが文句をいやがるんだよ、ひもつきには懲々してるといやがるんだ。一體全體お前さんのやうなれつきとした一人前の男が、何だつてひもなんぞになつてゐるんだえ、お前さんがぶら下がつてゐるばかりに、この女もこんな所へ身を賣らねばならなくなるし、おまけにそれもうまく賣れねえつてことになるんだ。せめて、自分だけは自分で働いて喰つたらどうだえ。」

「…………」周三は蒼白い顏をねぢ曲げながら視線を亂しておど/\した。それがいかにもあどけなくまた意氣地なく、生れつきのひもらしい感じであつた。

「そんなことを言はないで下さい。」おきみは辰つアんへ答へた。「あたしから頼んで無理にこの人を引き寄せてゐるのですから。あたしは、この人がついてゐるからこそ、どんなことでもする氣になつてゐるのですから……」

「お前の心懸けアそりや感心だが、男の方が、それでいゝ氣になつて働かずにゐるつて法はねえ。」

「働きたくつても仕事がないんですから仕方がないんです。……それに男は、女のやうにからだを賣つて喰ふことは出來ませんもの。」

「そんなら死んでしまやアいゝんだ。」

「……だから、この人は、いく度も死なうとしたんです。」

「…………」

「そいつをお前が助けてるてえわけかえ?」

「…………」

「野暮なことを言ふのアお止しよ、辰つアん」とお銀ちやんが口を出した。「ひもといふもんは癌見たいなもんで、切り離したら生きちやゐられないし、と言つて喰つつけといてもやつぱり、なアんて縁起でもないことを言つて惡いわね。つまりその、花に蝶々、水に魚で、持ちつ持たれつ、その味は辰つアんなんかにアわからないのよ。」

「へん、そんなことを言ふなら、默つてこの花と蝶々と引き取つたらどうだえ?」

「それとこれとは別問題ぢやないの。」

「面白くもねえ……」

辰つアんは、さう言つて、急に、例の眉間の瘤の周圍に、恐ろしい狂暴性を浮ばせ、おきみと周三へ言ひかゝつて來た。

「とにかくお前達に言ふことがあるんだ。といふのア、わしアこのおかみの亭主だと言つたが、そいつア嘘だぜ。先づそれを承知して貰つて、それからわつしの商賣は夜店商人といふことにしてゐたが、ありや内職、本職はこの中の女の周旋屋で、それでおまんまを喰つてる男なんだ。ね、そいつをよく承知してくんなよ。かう言つちまや、お前達がいくらドヂでも覺悟アきまるだらうね。ぶちまけたことを言やア、わしア、お前達がこないだ長野の方から來た終列車で上野へ着いた時から、後をつけてたんだよ。ちやうどわしが張つてる所へ、おめえ達はポンと飛び込んで來たのさ。ねえ、だから、このわしに掴まつてこの中へ連れ込まれりや、もういくらヂタバタしたつてどうにもならねえ、つてことをよく承知しなよ。……ところで、今改めて言ふんだが、お前達ア馬鹿に××つてものを恐がつてるね。いや、そいつアお互だが、そこでその××を恐がるものが隱れて絶對××だてえ所は、廣い東京にも、こゝと××の二ヶ所しかねえんだ。そりやお前達も百も承知で、承知だからこそわつしの言ふなりにこの中へ入つて來たんだらうが、とにかく、××の御用、つて奴が嫌えなら、こゝにぢつとしてゐねえよ。お前達に取つちや、この中は極樂で、この外はどこもかも地獄なんだ、てえこともよく承知しときなよ。そいつを承知してこのおかみの言ふことをきいてりや、第一おめえ達の身が安全だし、こゝん家でも安心して世話をしてくれるし、金も貸してくれるてえわけだ。どうだ、解つたかね?」

「えゝ、よく解りました。」

おきみは、垂れてゐた頭を更らに低く垂れた。

「君もわかつたらうね?」

辰つアんは、周三の顏を覗き込んだ。

「え、わかりました。」

辰つアんはこゝで、お銀ちやんを顧み、

「二人が口を揃へてかう言つてるんだから、どうだ、置いてやりねえよ。」

「……仕方がない。當分置いといて見ようかね。」

お銀ちやんは、生あくび混りにさう答へた。

「ぢや、着物を買ふぐらゐは貸してくれるだらうね。」

「まア、五六日樣子を見てからね。」

「頼むよ」辰つアんは、こゝでもう一度、狂暴性の浮んだ顏でおきみと周三を睨みつけ、

「この中は、田舍のだるま屋たアわけが違うんだからね、こゝからずらからうなどとたくらんだら、脚の一本二本、おつぺしよられると思はなきアいけねえぜ。」

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