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一人の医者が死んだ。それは彼の従姉のつれあひであつた。その男は、左のコメカミに大きな紫斑をにじませて、長い白木の箱に入れられて、鉄の運搬車に載せられて、火葬室の鉄扉へ足を向けて横たはつてゐる。はげしい火気で赤錆びの出た鉄扉がずらりと並んだ中で、ひときは大きいその扉には、特別一等の名誉のために、給仕頭のお四季施よろしく、銀色の唐草模様が絡んでゐる。運搬車の枕もとには、臨時の焼香台が据ゑられて、香煙が機械的に立ち昇つてゐる。紫の衣をきた小柄な老僧が、さつきから黄色い声で経をよんでゐる。それが、ひよいと懐へ手を入れかけて、あわてたやうに左後を振りかへつた。こんどは右後を振りかへつた。そして彼――繁夫をみとめると、手の平を上へ煽ぐやうにした。忘れてゐたのである。繁夫は制服のポケットから、折りたたんだ巻紙をとり出すと、進み出て手渡した。偈である。
議論ずきで洒落で、すつ頓狂なところさへある洪天和尚は、さつきいよいよ出棺の間ぎはになつて、偈を失念してゐたことを思ひだした。「こりやあかん、あかん」と、わざと大阪弁で言ひ、診察室へ飛びこんで、あり合せの巻紙にさらさらと書き流した。「火急の際ぢや、ええと何かいい文句はないかいな」と呟いたところを見ると、文句もどうやら有り合せらしいが、墨痕は淋漓としてさすがだつた。書き終へると繁夫に渡して、「君、持つててくれたまへ。このそそつかし屋が、また落すといかんでな」
繁夫は遺族の後列に戻ると、瓦灯窓に肩をもたせて目を伏せた。経が終つて、偈になる。声が沈んで、話しかけるやうな調子だ。どこかで女のすすりあげる声がした。偈は進んで末段にかかる。
会スヤ 明月清風 自己ノ三昧
青山緑水 打成一片
モト自カラ地獄ナシ
アニ又 天堂アランヤ
モシ未ダ会セズンバ
山僧ガ提携シ去ルヲ看ヨ……
洪天さんの右肩が、ぐいとあがる。いきなり抹香をつかむと、パッと香炉へ投げこんだ。飛び散る火花の幻覚が繁夫の眼を射る。間髪をいれず、
木鳩火裡ニ啼ク。……喝!
とたんに繁夫の眼のなかで、火花が炎々たる劫火に変る。炎々と火が燃える。その向うで、洪天さんは小まめな中腰になつて、棺の覗き窓をあけると、畳んだ今の紙をマーガレットの花の上へ押しこんだ。焼香がめぐる。女のすすり泣き。天才教育で有名な中学の制服で、よれよれの黒ネクタイをした長男の透が、神経質な眉をヒクつかせて帰つてくると、つづいて故人の後妻の梅代が、着なれぬ喪服の裾をばくばくさせながら、青ぶくれの顔の眼のふちを真赤に染めて帰つてくる。やがて鉄扉がひらく。運搬車が動きだし、棺が吸ひこまれる。鉄扉がしまり、響き高く錠がおりる。
それが静寂かと思ふと、さうではなかつた。繁夫はわが耳を疑つた。つい先刻までは、劫火は眼のなかで燃えてゐた。それが今では消えて、こんどは耳の中で轟然と鳴りだしたのである。凄まじい音だつた。まるで火葬場ぜんたいが、唸りだしでもしたやうである。棺が吸ひこまれて錠が鳴つた瞬間、鉄扉の向うで点火された気配はたしかにあつた。だがそれにしても音が大きすぎた。十幾つも左右に並んだほかの鉄扉は、どれもみんなシンと静まり返つて、手で触つてみたわけではないが不思議なほど冷えはててゐた。それが一どきに、みんな点火されたのだらうか。多分そんなことはないだらう。といつて、幻聴では勿論ない。木鳩、火裡ニ啼ク……と、洪天さんは歌ふやうな声で下語した。だが、いま棺のなかで焼けだしてゐる故人が、鳩になつてこんな大きな声を立てるなんて、およそ考へられない。今頃は泰然と坐禅でも組んで、燃えさかる炎の脈を取つてゐるかもしれない。そんな恰好が一ばん似合ひさうな児玉院長だつたと、繁夫は不思議な音のためそろそろ頭痛のしだした頭で考へるのである。
彼は一ばん後から中庭へ出た。七月末のくるめくやうな炎天だが、空気は黄ばんで重かつた。焼場特有の異臭が、風はあつても澱んでゐるからである。その中で、鳥取県の山奥から急いで出てきた故人の実兄が、夏袴の前をまくつて、椎の樹に小便をしてゐるのが見えた。
ひろい休憩所の中は、児玉家の一行だけで、へんにガランとしてゐた。洪天さんは早速、紫の衣をぬいで、白無垢の胸をはだけて気ぜはしく扇子を使ひながら、黄色い声で何やらしやべり立てはじめた。相手は仙波といふ、K学院の理事をしてゐる男で、ある国粋団体の相当な顔役だといふ噂である。現に今日の告別式にも、揃ひの黒羽織に肩をいからした学生を十名ほど引率して来て、その代表に壮重な悼詞を長々と読ませ、号令一下、列立焼香の礼を執らせたのはこの人である。K学院と児玉院長との関係が、ただの校医と学校との関係ではないらしいことに、繁夫もうすうす感づかないではなかつた。しかしその底に一たい何があるかは、二十三歳の工科の学生である繁夫の与り知るところではない。無関心といふより、薄気味わるさから来る敬遠であつた。当の仙波氏は、長いこと大陸を放浪して来た人ださうで、その丸々した童顔には、顎の右のところに古い刀疵らしいものがあつた。いつも端然と羽織袴に威儀を正してゐるが、その物腰はむしろ温厚そのもので、手入れのいい薄い口髭と小さな眼のへんに、人懐こい微笑を絶えずただよはせてゐた。声を荒らげて議論する向きの人ではなく、児玉院長にたいしても、聴き役に廻つてゐた。そして、ごく稀に小さな眼をキラリと光らせて、何やら結論めいたことを滑らかな声でぽつりと言ふのである。
この二人に、小便を済ませて来た故人の実兄が加はつた。この人はまづ絶対に口を利かない。弟とは似もつかない長身で、その謹直な馬面をまつすぐに立てて、いつまでも他人の話をじつと聞いてゐる。分つたのか分らないのか、まつたくの無表情である。笑ひまでが無表情だつた。そんな調子で、一週間でも十日でも泊つてゆく。地方の徳望家で、四五年まへ郡役所が廃止されるまでは、長いこと郡長を勤めてゐた。それで陳情などのため時たま上京してくるのである。山村の水呑百姓の出だが、畜産改良で、一頃はなかなかの羽振りだつた。全盛時代には妾宅が三つもあつたり、島根芸者に入れあげたりしたものださうだ。そこで政界に野心が出た。といふより、その野心は生れつきのものだつたらしい。若い頃、彼は弟の簡治に家業を押しつけて、自分は家を飛び出さうと目論んだところが簡治は百姓ぐらしを嫌ひ抜いて、兄と大喧嘩をした挙句、逆に飛びだしてしまつたのである。そして上京して医者になつた。出奔して来たのだから、もちろん苦学である。その苦学がやつと実を結びだした頃には、兄は立てつづけの選挙の失敗ですつかり財産をすつてしまひ、山奥の郡長でくすぶることになつてゐた。この兄弟の間には、いつか和解が成立してゐたらしい。しかし弟は唯の一度も故郷へ帰つたことがない。
そんな経歴みたいなことを繁夫が小耳にはさんでゐるのは、時たま従姉の照子が伯母のところに来て、内輪ばなしをするのを聞いてゐたからである。少年時代、繁夫はこの伯母の家に厄介になつてゐたのだ。
「軍縮会議があんなことになつて、若槻さんも財部さんも帰つてみえたが、さてこれで丸く収まりますかな。枢密院は鵜のみにするらしい模様だが、軍方面の不平は相当なものらしいですなあ。こりやあ一荒れ来ずばなるまいと、わしなどもさう思ひますよ。何しろ失業者はふえる一方だし、濱口さんは緊縮々々の一点ばりだし、餓地に満つとでも言ひますか、こんな深刻な世情を、わしはこの歳になるまで見たことがない。まるで袋小路みたいなものぢやありませんかな。……」
洪天和尚が、そんなことを喋つてゐる。仙波氏は「ハア、ハア」と、畏こまつたやうな相槌を打つてゐる。
「そこでな、一雨ざアと来なけりやならんとなると、さしづめ第二のローマ進撃といふことになるが、どうです、そろそろ来年あたりは。……共産党も、をととしにまた昨年と二度の鉄槌ぢや、足も腰も立たんですからな。こんどはあんたがたの番ですわ。児玉院長もしきりに気をもんでゐたが、一体そのローマの進撃は……」
「いやまあ、さう簡単には……」と、白扇を大きく使ひながら、仙波氏は眼を細めて微笑した。
「行かんと仰しやる。しかし、それで済みますかな。われわれ禅家の立場からすると、あのムッソリーニのやり口は、いささか南泉斬猫のきらひもある。なんと言うても、あの際は趙州の方が上手でしてな。けれどな、その後のムッソリーニの施策を見てゐると、こりや児玉院長の受け売りになるが……」あとは一しきりムッソリーニの礼讃になつた。仙波氏は、にやにやしながら聴いてゐる。
その三人からだいぶ離れて、休憩所の奥まつた席には、梅代をはじめ遺族が黙然と坐つてゐる。長男の透が中学の五年生で、あとは長女のサキ子、次男の慎、次女のユキ子、三女のシゲ子。それに梅代の腹で、ことし四つになる末子の晋。さつき焼香のとき、晋は白衣の看護婦に抱かれて棺前へ進んだが、今では母親の膝でおとなしくしてゐる。梅代に似て青くむくんだ顔をして、ひどく動作のにぶい子だ。泣声もほとんど立てない。口を歪ませるだけである。繁夫は透の横に座を占めながら、その孤独な心のすみで、七人の遺族たちを、薄明りのなかの影絵のやうに感じてゐる。
入口に近い片隅には、万年薬局生の金井を中心とする一団が、言葉すくなに丸テーブルを囲んでゐる。金井は年のころ四十ぐらゐ、疣々だらけの黒い四角な顔に度の強い近眼鏡をかけた、ずんぐりと背の低い男である。それから運転手の柳澤。これはここ十何年といふもの、今にも解体しさうなおんぼろフォードを、院長のため忠実に運転しつづけて来た男である。もつと高級な自家用車へ住み替へる機会は幾らでもあつたのだが、この謹直な男はつひに「節」をまげなかつた。そのうちに世の中が不景気になり、今また院長の死に会つたのである。それに若い看護婦が二人、ハイヤーの運転手が三人。
要するにそこには、現在の児玉家を内と外から形成してゐる全員が、一応もれなく揃つてゐるのだ。この人たちが、とつぜん中心人物の死に会つて、新たな分解と集合の過程に出発しようとしてゐるのだ。……『この中で、一ばん深い後悔に打たれてゐる人があるとすれば、それは柳澤よりむしろ梅代さんだらうな。この人には女医の資格がある。若いころ、どういふ歴史のあつた人か知らないが、われわれの目の前に現れた時には、人生にたいする興味も人間にたいする愛も、(初めから持つてゐたかどうかは別として)少くもとうの昔にどこかへ置き去りにして来たやうな、まるで不感症の典型みたいな人だつたものな。もしあのままでゐられたら、それが一番よかつた人なのだ。院長の後にしたがつたり、あるひは院長の代理で、あの重たい目蓋の垂れかかつた切れの長い眼に、どんより睡さうな色をたたへて、重病人のカルテを取つたり、さも厭々さうに聴診器を当てがつたり、そんな動作だけ繰返してゐれば、よしんば幸福でないまでも、とにかく不幸ではなかつたはずの人なのだ。いはば生活といふものから動植物的なものの一切を根こぎにして、あとの鉱物質だけで生きてゐるみたいな人だつた。さう。ものうい機械人形。……ところがその人が、三十八にもなつてから、児玉院長の旺盛きはまる生活力に押されて、強引に「生活」の場へ引きずり出された。むりやり後妻に直らされて、おまけにあの生まれつき失語症みたいな子まで産まされてしまつたのだ。悲惨きはまる事故だ。そればかりか、個人の病院としては非常識も甚だしいあの五階建の重苦しい病院と、恐らくその建物の重さの二倍もありさうな莫大な借金までも、背負はされてしまつた上、そこでぽつくり逝かれてしまつたのだ。もちろんその借金は、実際問題としては彼女のものではないだらう。それはあの病院が、結局彼女のものでないのと同じことだ。もしその気になれば、彼女は再び「他人」として、いつでも家を出て行ける。女医の資格は、あの晋を飢ゑさせはしないだらう。だが、それだからと言つて、ふたたび彼女が元の機械人形に還れるものかどうか、それは大いに疑問だ。事故にしろ暴力にしろ、とにかく一たん印された「生活」の爪痕は、何かしら人間的なものへの開眼は、わが子を産むといふ女の体験は、自分もやはり女だつたのだといふ恐らく今さら迷惑でもあり意外でもあつたに違ひない自覚は――引つくるめて言へば欲といふ毒物の強制接種は、さう易々とは彼女に元の冷めたい自由を返してはくれないだらう。気の毒な人だ。あの人の涙は、単なる悲しみの涙とは見えない。後悔の涙といふより、いつそ怨恨の涙だらう。そしてあの表情は、すつかり涸れてゐたと今まで思つてゐた自分の涙嚢から、胆汁のやうににがい涙がしぼり出されるといふ生理自体への驚きと憎悪の表情だ。……』
繁夫が若い頭のなかで、得手勝手な想念をこねまはしてゐるうちに、風向きが変つたらしく人肌の焼かれる例の異臭が、重たく休憩所のなかに澱みはじめた。梅代が急に咳きこんで、あわててハンカチを口に当てると、座を立つて奥のガラス戸の向うへ消えた。嘔き気がついたのかも知れないな、と繁夫はぼんやり考へた。
その異様な臭ひは、彼にとつてもちろん今日はじめて嗅ぐ臭ひではない。祖母の火葬へは恐らく連れて行かれなかつただらうが、父の時のことはよく覚えてゐる。別府の病院の、きたならしい畳の上で死んだ父は、曇つた秋の朝、ひと気のない砂丘のかげで焼かれた。火葬場などいつたものではなく、莚で囲つた小さな掘立小屋であつた。その夕方、長々と斜陽のさす田圃みちを、俥に揺られて骨拾ひに行つた。砂丘のかげの小屋には、母と子と、それに中年の隠亡と、そのほかに誰もゐなかつた。いやもう一つ、ふしぎに崩れずに残つた父の髑髏があつた。その髑髏を隠亡が、長い火箸のさきで突き崩した。そのとき風が立つて、小屋の莚囲ひのなかから、かすかな異臭を運んできた。父の残り香である。
十歳の少年にとつて、それがなんの臭ひかを嗅ぎ当てることは、大してむづかしいことではない。けれど父の秘密――あるひは大人の秘密を、そんな形で見せつけられるのは、やりきれない気持だつた。そのうへ少年には、べつの心配もあつた。少年は、母にその臭ひを感づかせたくないと思つた。もしそれが不可能なら、せめてもその臭ひを自分が嗅ぎ当てたことだけでも、母にさとられたくなかつた。……この秘密ずきな少年にとつて幸ひなことに、母はそのとき全くほかのことに気をとられてゐた。母は、父が入れてゐた金歯の数をよく覚えてゐて、どうしても一つ足りないと言ひ張つてゐたのだ。欲ではない。持前の江戸つ児かたぎの意地だつた。そしてたうとう、隠亡が自分の前に掻き寄せてゐた灰の山のなかから、火熱で黒ずんだその最後の金歯を杉箸の先でほじくり出すと、さも誇らしげに高々と持ちあげてみせて、骨壺のなかへ落した。少年は隠亡に恥かしかつた。その羞恥をかくすため、わざと砂丘を登つて海を見るふりをした。曇つた海に、潮鳴りがしてゐた。
その秋の夕方の記憶は、もう十三年前のことである。それから今日まで、彼は何べんか火葬の臭ひをかぐ機会があつた。わりあひ死者に縁のある少年だつたのだ。荼毘の煙をかぐごとに、少年は心のどこかでかすかに、あの潮鳴りを聞き、潮の匂ひを感じる癖がついてゐた。聖なる記憶などと言つたら嘘になる。むしろその反対だ。十歳の少年にとつて、父は遠い人であつた。少年はあまりにも父を知らなすぎた。その少年に、荼毘のけむりの残り香がはじめて父の生身をさとらせたのだ。そこには、大人の秘密をのぞいた罪の意識がまつはりついてゐたとはいへ、潮の香との結びつきによつて、やはり一種の思慕にちがひなかつた。後悔の苦味のまじつた思慕である。古代の日本人にとつて、海のかなたに思念されるのは妣の国だつたと言はれる。繁夫の場合はちがふ。父はもつと近くに、潮鳴りの中に、潮の香のなかに、ただよひ生きてゐた。彼が焼場の臭ひに嫌悪や畏怖を大して感じず、無常感にもほとんど誘はれることがなかつたのは、そんなためであつた。
ところが今日は、だいぶ様子がちがふ。告別式のあつた日本橋濱町の児玉医院から、繁夫は小さな娘たちや金井と一緒に、柳澤の運転するぼろフォードで葬列の殿りをつとめたのだが、三の輪の車庫をすぎて間もなく、ごみごみした横町へ折れこんだ時から、彼はおびやかすやうな異様な感覚に襲はれつづけたのだ。暗い横町だつた。午後二時の日ざしが烈しければ烈しいほど、ますます暗闇に沈んでゆくやうな町並みだつた。片側からは、すえた野菜の臭ひが、片側からは皮革工場の発散するどす黒い悪臭が、はげしく襲ひかかつてきた。その中を、屠殺場へ曳かれて行くらしい牛の列がだらしなく続く。自動車は立往生する。葬式がばらばらに引離されたすきを見て、わつとばかり乞食の群が車をとり巻く。車の行手に寝ころがつて、ぺろりと舌を吐く半裸の少年。老婆の皺手が、窓の中へ伸びてくる。ハンドルにしがみついて離さない腰巻ひとつの赤毛の女。
「こいつは全然、貧民一揆だ」と、平生にやにやばかりしてゐる万年薬局生の金井が、上ずつた声を出した。「人の弱味につけこみやがつて! いや、柳澤君、何もやつちやいかん。つけ上るばかりだ。それよか、思ひきつてぶつ飛ばすんだ。」
片手をポケットに入れかけた柳澤は、顔を赤らめてもぢもぢする。『貧民一揆なんていふものぢやない。賤民の組織化された暴動だ』と、繁夫は思つた。こんな光景を、ずつと子供のころ、台北のどこかの町はづれで見たやうな気もした。
そんな騒ぎが何べんかあつて、車はやつと火葬場の門をくぐつたのだ。その手前で、最後の一団の襲撃を受けたとき、荼毘の異臭が重たくよどんできて、繁夫は嘔気をもよほした。はじめての経験であつた。……
いつのまにか、休憩所の中はしんとしてゐた。見ると、洪天さんたちの席に梅代が加はつて、ひそひそ話になつてゐた。首をしきりに振りながら、何やらささやき続けてゐるのは洪天さんである。梅代は無表情な上目づかひで、時々そつとうなづいたり、きつぱり首を様に振つたりする。異臭はさつきより薄くなつてゐた。劫火のうなりも耳遠くなつてゐた。『でもやつぱり地獄なのだ』と繁夫は考へる。『どこが?』いま児玉院長の肉体を猛火でつつんでゐる鉄扉の向う側か? げたげた笑ひながら投銭を強請する人々の住むあの暗い横町か? ひそひそ話をしてゐる四人のゐる席か? 影絵のやうに黙つて円陣を作つてゐる遺児たちの周囲か? それとも、この十何年かの間まつたく児玉家の一部をなして来た柳澤や金井たちのゐる場所か? いやそれとも、そもそもこんなことを考へてゐる自分の中がそれなのか?『それとも……』と、繁夫は一座をうつろな眼で見まはしながら、ほとんど声を出してつぶやいた。――『それとも、かつて児玉の家の成員であり、ここ十年あまりの歳月に次々に死んでいつた人たち、その二人、あるひは四人、あるひは六人……その人たちの生がそもそも地獄だつたのか?』
まつたく意外なほどの鮮明さで、その死者たちが眼のなかの闇に起ちあがつてくるのを繁夫は見た。それとともに、自分の少年時代の思ひがけない断面が、まるで鬼火に照らしだされでもするやうに、次々に現れはじめた。彼は回想の世界へのめりこんで行つた。行手に見知らぬ島々への漂流をひかへてゐる航海者のやうに。……