7
冷吉は看護婦に名を呼ばれて暗室に這入つたが、昨夜の事が、何か目に變つた徴候を來してはゐないだらうかと、急にそれが心配になつた。
さうしてるところへ、冷酷にこの不安を襲ふためのやうに、院長がついと這入つて來た。もうどうなるものかと思ふ。神經のせゐか、どうも目がもや/\するやうな氣がする。
「どうですか。」と言ひつゝ、院長は繃帶を解いて、看護婦が點したランプに左の瞼を開けた。冷吉は探られるのを隱れてゐるやうに、息を殺してじつとしてゐた。
「ふゝん。どうも相變らず……。併し餘程よくなりましたよ。もう、少し視力が出やせんかと思ふんだが。――この指を見て御覽なさい。見えますか?――見えない。ではこつちを見て御覽なさい、火の方を。――どうです、同じ茫うとしてると言ふにも、先頃よりは火の影が少し明るいやうでせう? さうぢやありませんか?」
「はじめよりか幾らか違ふやうですが、でも昨日と較べたら同じです。」
「もう一度こつちを向いて御覽。まだびり/″\瞳が動くけれど、併しあなたのやうに幸運なのはありませんよ。どうも不思議だ。どうしてもこちらは失はねばなるまいと思つたのですがねえ。とにかく水晶體が――目の中の黄色い部分ですね――そいつが脱落してゐないのは確かです。――最初はそれが壞れてゐるに相違ないと見たのでしたが。――どうも不思議。ま、もう少しじつと經過を見ないと。――ほう。傷は大抵癒つ着いて了つた。さあ、明日あたりはこちらの目が開けられますかな。」と、診察を了へて院長は出た。冷吉は甘く調べを遁れたやうにほつとした。
それから例の椅子にかけてゐる間、ちよい/\盜むやうに右の目を開けて見た。女はまだ來てゐないやうである。いつでもしまひ際に人が少くなつた機を見て下りて來るのであらうか。それだから昨日まで、やつぱりこの病院にゐるといふ事を知らなかつたのかもしれない。冷吉は、女が今こゝにゐないといふ事は、自分に取つて都合がいゝやうにも思はれた。けれども、どんな女だか顏が見たいやうな氣がして、人が這入つて來る度に、さうではあるまいかと胸を轟かせては目を開けて見た。
と、母が向うに人の通り路を避けて立つて、こちらを見守つてゐた。
冷吉は診察がすむと、歸つて蒲團の中に這入つて、じつと寢ようとしたけれど、もや/\と昨夜の事が考へ返されて寢られない。となりで女はどうしてるだらうかと想像して見る。鳥は今日は鳴かない。もうあちらの窓へかけてあるのだらうか。
冷吉はそれから昨夜バルコニーへ出てからの女の言葉を一々考へ拾つた。一語も漏らさずみんな記憶してゐる。はじめて診察室で隣り合つてかけた時に自分に言つた言葉も、院長に言つたのも、みんな覺えてゐる。冷吉は順序立てゝはじめから一々繰り返して見た。さうして甘いやうな心持に少し疲れて來ると、やがてうと/\となつた。
ふと、はつきり目さめた意識に返ると、看護婦が來て母と話してゐた。冷吉はそれには耳を置かずして、自分の考へるべき事を追うてゐようとしたが、その内に隣といふ言葉が耳に這入つたので、二人の言つてゐる事に注意を欹てずにはゐられなかつた。
「それにあちらの方が疊も新らしうございますし、こちらの方角も見渡せますでございますから、直ぐにお移りなさいましよ。」
「さうですね。だけどまた御厄介をかけますから。」
「いゝえ、そんな事は何でもございませんわ。」
と、こんな事を言つてゐる。
看護婦が行つてから冷吉は母に聞いた。
「お母さん。部屋を換るの?」
「何、どうでもいゝよ。同じだもの。」
「どこへ移るの? 移れば。」
「何ね、となりが空いたがどうかつて、看護婦さんが言つてくれたんだけれどね。」
「となりが? いつ?」
「まあ、何です、愕いたやうに。」
「いつ空いたのだらう。」
「ふゝゝ急に小さな聲をするわ。つい今だろ。」
「それでは私が寢てゐた間にでせうか?」
「どうだか。」と、母は何の譯も知らないのだから、どうでもいゝ事だと言つたやうに言ふのである。
冷吉はそれきりで默つて了つた。なぜそんなに欺くやうに急に出て行つて了つたのだらうと、出し拔れでもしたやうな、あつけない心持を禁する事が出來ない。どうした譯なのだらう。昨夜あれだけ話したのに、そんなにもう翌る日になれば行つて了ふといふ容子は一つもなかつた。何だか狐につまゝれたやうな氣がする。たつた一日飼つてゐたばかりの鳥が、いつの間にか遁げて了つたやうなものである。
冷吉は、徒にその空籠を覗いて悔しいやうに、物惜しい、落ちつかぬ心持にいら/\した。それではもう來ないのだらうか。拙らない。何だか拙らない。
冷吉は物を失くしでもしたやうに、くるりと起きて蒲團の上に坐つた。
「どうかしたの?」と母が聞く。
「なぜ?」
「何か食べたいのかい? 退屈なのだろ。」
「そんな事ぢやないんた。」と冷吉は口の内で言つて、夢の跡を探るやうに、昨夜の二人の事を考へた。
午後、看護婦が、手紙が來たと言つて持つて來た時に、冷吉は、
「ね、村井さん。」と聞き出した。
「となりの人はもう今日歸るといふ事は前から極めてゐたの?」
「どうでございましたか。私は一向存じませんでしたけど、何だか急でしたわね。」
「そして婆やさんももうゐないの?」
「えゝ。患者の方が先に朝早く出てお出でなすつて、婆やさんは跡を片附けるので午まへまでごそ/″\してゐましたが、」
「さうして鳥は?」
「ふゝゝ何だらうそんなに一々お前。」と母は言つた。
「鳥はどうでございますか。婆やさんが持つて歸りましたでせう。」
「駄目だな。」
「あなたは鳥がお好きですか?」
「だつてあんな鳥は拙らないつてこの間はさう言つたくせに。」と母がはたから言つた。冷吉はそれきり默つてゐた。何故、あの鳥が赤い鳥で、それを女はこゝを出る時に籠から放して行つて了はなかつたのだらうと思ふ。
冷吉はやがて失くしたものを探しでもするやうにバルコニーに出た。
「お前さん、危いよ、そんなところへ出て。」と、母は内から言つた。
冷吉は昨夜のはじめからを考へ返しつゝ彳んだ。さうして、あれはやつぱり自分の考の中の事ではなかつたらうかと疑つた。
外は日向のもく/\あたゝかい日であつたけれど、じつと、あの鳥のやうに遁げた女を考へて立つ冷吉には、何だか、かうした日向は、物悲しい心持を慂るやうに着物に浸みた。どこかに赤い鳥が、自分のかうした、置いて行かれたやうな心を憫むためにちゝ/\と鳴くのが、この日向に吸はれて自分に傳はつて來るのではないかと思はれる。
なぜ女は、これがはじめて會つた夜で、さうしてあすは芥子の花の落ちるやうにはかなく去つて了ふ夜だとは告げなかつたのだらう。行つて了つてどんな心に何を思つてゐるのだらう。冷吉は生れて女の息に觸れたのは昨夜がはじめてゞある。かういふ戀しい心を教へたあの女は、自分の得たはじめての女である。自分は暗い目に面ざしも知らなければ名も知らない。かうして不意に別れるのが約束とすれば、なぜ名前だけでも聞いて置かなかつたらうと思ふともどかしい。この心持は、マグダーレンの女を尋ねて日毎に町を彷徨ふ男のそれではあるまいか。
會ひたい。もう一度會ひたい。これぎりで最早二度と物をいふ事が出來ないのなら、何といふ、女は冷やかなものなのだらう。自分にこの戀しさを注いで置いて、それを心にはかけないのだらうか。女は自分よりも年上である。女に取つては自分はたゞあゝした一夜のために、氣まぐれに選ばれた一人なのではあるまいか。
けれども女の言つた事はいまでも耳に聞くやうである。その何してゐて話した言葉の今耳に浮く心持は、必ずもう一度會ふ、もう一度會ふ日が來ると、この女がどこかにゐて心に言つてゐるやうに感じられる。會はなければならない。どうしても會はなければならない。小雨のふる町の或窓に、赤い鳥の籠を取り入れる姿を見出すやうに、いつか再び會ふ日が來るのでなければならぬ。
「冷さん。」と母が呼ぶ。冷吉はどうしてもその日が來るのだと、もう定つてゐる事のやうに獨で考へつゝ、
「何です?」と母に返事をした。さうしてそれまで女はどこかで赤い鳥を飼つてゐるのだと考へたかつた。
冷吉はそれからは毎日、どこかで赤い鳥を飼つてゐてほしいその女の事を、話のやうに消えたその女の事ばかりを考へ續けた。さうして、何かその女に關して或事が見出されるやうな期待を持つて、戀しい晝と夜とに漬つてゐたけれど、十日もたつても、去つた女はそれぎり再び歸つては來なかつた。
その内に、もう疾くに片方の目は開けてゐられるやうになつた。兩方の目を掩はれてゐる間は、早く片方が開いたらどんなにさつぱりするだらうと、せか/\待たれたけれど、開いて見ればやつぱり一つでは人の目を借りてゐるやうで落付かない。物足りないのは同じである。
冷吉は、あれきり人がゐないで空いてゐる隣の部屋の日向の中に、何かといへば行つて這入つてゐたくなつた。獨であの女の事を考へ返す時には、やつぱりいつまでも二つの目を掩はれて、暗い日夜にゐる方が似合はしいやうな氣がした。暗い目で考へる方が、あゝした前後もない一と夜をいつまでも思ひ返すのにふさはしい。
女はどこにどうして何を考へてゐるであらう。どんな女でどうした人だとも知らずに、たゞ暗い中の影のやうに逢つた女。さうして翌る日にはもう去つてゐない。いつまでもどんな女だつたかを知る期もなく去つたのである。たとへもう一度どこかで會ふにしても、自分はいつまでも、それをその女と知り別けるすべもない。戀といふには餘りにあつけない。このやうなのを自分のした戀だといふには餘りに夢のやうである。やつぱりマグダーレンの女のやうに、自分の讀んだ物の中の話だと思ひたい。さうして女は赤い鳥を飼つてゐたのだといふ事にしたい。去つてもどこかでやつぱり赤い鳥を飼つてゐるのだといふことに。
一日/\とたつにつれて、實際冷吉には、すべてあの事がもう昔讀んだ話の中の事のやうになつて了つた。冷吉は窓から椅子を入れる女の影を、夕方鳥を逃がすために窓に近づくグレツチエンを見ると同じじに心に畫いた。目に見ぬ女故、どのやうに畫くとも差しつかへはなかつた。
冷吉はさうして活字の上で記憶してゐるやうに、女から聞き得たすべての言葉を考へ返しつゝ、下の病室の窓の根の、大きな椿の花のぽた/\と落ちてゐるのを拾つて上つては、バルコニーに出て、女のゐた部屋の窓のふちに並べた。窓は硝子が閉つて内から黒いカーテンが懸つてゐるのだから、並べた花は向うの黒い中にもあるやうに硝子に寫つた。自分の、片目を繃帶した、眉毛から瞼へかけて傷のついた、睫の長い痩せた顏もその上に寫つた。さうして、餘つた花をバルコニーの手擦りの下に固めて、あの女のことを考へつゝ、甘いやうな、もの悲しいやうな日向に向けてゐる脊中を、黄色い蝶々がふはり/\と飛んだ。
最早少しは外へ出歩いてもいゝのだつたけれど、知らぬ小汚い町筋へは出て見たくもない。このバルコニーがあれば澤山である。向うの家並の後からは、遠く青い麥の畠が續いてもや/\と陽炎ふ中に、菜の花が黄色く煙つてゐる。四月といへば晝も夜も、女を考へ入るのに似合つてゐた。
それは入院してから二十二日目の午後であつた。どうせ長い目なのだから、いつまでゐても區切がないゆゑ、母は、汽車へ乘る事を許されさへすれば、一日も早く家へ歸つて、あちらでゆつくり療治がしたいと院長に聞き/\して、この日出る事を許された。けれどもまだ危んで汽車は一と息に乘り通してはいけないといふ條件での上であつた。
もう荷物はすつかり下へおろされて車が來るのを待つてゐた。大木さんも看護婦も時計をくれた百姓も戸口に下り立つてゐた。冷吉は何だか、かうした段になると、こんなに急いでこの病院を去つて了ふのが惜しくもあつた。
冷吉はもう一度引き返して隣の部屋の中に這入つて、そこから窓を開けてバルコニーに立つた。手擦りの取れかゝつたバルコニーには、五六日前に母とこのあたりの夜店で買つて來たナスタシヤムの朱黄色の花が、まだ一つ、鉢に散り殘つてゐた。