中
翌日午前は法隆寺に行つて、午後は法起寺に行つた。これで今回官命の役目は一段落となるのである。法起寺は住職は不在で、年とつた方の所化も一寸出たとの事で、十五六になるのつそりした小僧が炭をふう/\吹いて灰だらけにした火鉢を持つて来て、ぬるい茶を汲んで来て主ぶりをする。取調の事は極めて簡単で直ちに結了する。塔の修覆が出来てからまだ見ぬので庭に出て見る。腰衣をつけた小僧サンもあとからついて来る。白い庭の上に余の影も小僧サンの影もくつきりと映る。うらゝかな春の日だ。三重の塔は法隆寺の塔を見た目には物足らぬが其でも蟇股や撥形の争はれぬ推古式のところが面白い。余はふと此塔に登つて見度くなつた。
「小僧サン、塔に登りたいものですが……」
「塔にお登りやすの、きたのうおまつせ」
といひながら無造作に承諾してもう鍵を取りに行く。頭に手をやつて見たり、腰に手をやつて見たり自分の影法師を面白さうに見ながら悠々として庫裡の方に行つた。
直下に立つて仰ぐと三重の塔でも中々高い。三重目の欄干のところに雀が群がつて飛んで居る。立札を読むと特別保護建造物で一年余を費して修理したとある。別に立札に内務省の下賜金が二万何千円とある。此地はもと聖徳太子の御学問処で、推古天皇の御創立になつた官寺で、昔はたいしたものであつたのだらうが、今は当時の建物として此塔許り残つてゐて他は見すぼらしい堂宇許りだ。とても法隆寺などには比べものにはならん。
小僧サンが悠然として鍵を持て来て、いきなり塔の扉に突ツ込む。ゴトンと音がして大きな扉ががた/\と開く。冷たい風が塔の中から吹く。安置されて居る仏体は手や足の無くなつてゐる古仏でこれも推古時代の彫刻かと思はれる。小僧サンはもう梯子を登つて居る。
此梯子は高さ一間半許りの幅のせまい勾配の急な梯子で一歩踏む度に少しゆらぐ。余は元来臆病な方だが今更止めるわけに行かぬので小僧サンのあとについて登る。戸をがら/\と開ける音がする。埃りが落ちて来るので閉口しながら仰向いて見ると、天井に二尺角程の小さい穴があいて居る。小僧サンは今其穴に体半分を突込んで足を二本宙にぶら下げて居る。おや/\と思つて見て居るうちに体操のやうな事をしてヒヨイと上に飛び上る。余は恐る/\登つて其穴の処に達し漸く頭を突込んで上を見上げると驚いた。余は塔の中の構造も普通の家と同じに一階二階と其々天井のやうなものが出来てゐることゝ思つてゐたに、天井は一階のところに在る許りで、見上げると此上はもう頂上まで筒抜けで、中央の大きな柱が天にまで達するかと思ふやうに高い。小僧サンはもう第二の短い梯子を登つて右から左にかゝつてゐる木を軽業のやうに両手をふつて渡つてゐる処だ。
余は穴に頭を突込んだまゝ、
「小僧サンもうよしませう」
といふ。小僧サンは不平さうに、
「折角こゝまで来たんやよつて上りなはれ」
と横木の上に立つたまゝ下を見下して居る。何だか此際小僧サンに無限の権威があるやうに思はれて仕方なしに上ることにする。小僧サンは今体操をするやうなことをして此の穴を上がつたが、其が已に余に取つて大困難だ。頭の上に斜に横たはつてゐる木に手をかけて見る。木が大きくて手のさきがかゝる許りだ。指のさきに懸命の力を籠めて左りの手を其木にかけ、右の腕でべたりと天井の上を圧さへると埃りだらけで紋付羽織がだいなしになる。漸く天井裏に登る。
其から第二の梯子は無造作に登れたが、小僧サンが手をふつて渡つてゐた横木の上に来て途方に暮れる。何かつかまへるものが無いと足がふるへて顛倒しさうだ。頭の処に併行した大きな木がある。両手をぐつと上げて此木を握る。足の方も見ねばならず手の方も見ねばならず、上目を使つたり下目を使つたり一分きざみに渡つて居ると忽ちゴーといふ地鳴りのやうな音がする。何事かと思つて立どまつて見ると一陣の風が塔に吹き当る音であつた。ゆれはしないかと中央の大きな柱を見ると大船の帆柱よりも大きいのが寂然として立つて居る。漸く意を安んじて横木を渡つてしまふと、サア行き詰りになつてしまつてどうしてよいのかわからぬ。梯子もなく、別に連絡して居る他の木もない。俄に恐ろしくなつて来てもう空目を使つて小僧サンを見る勇気もない。
「小僧サン、これからどうしたらいゝんです」
小僧サンの声は思はぬ方から聞こえる。
「其上の木にまたいで上りなはれ」
と極めて易々たる事のやうにいふ。其がさう易々たる事なら何も小僧サンを呼びはしないのだが、これはいよ/\窮地に陥つた事だと泣き度くなる。仕方なしに両方の手で上の木に抱きつくやうにしてやつと這ひ上る。羽織の袖が何かにかゝつたらしいのを一生懸命で振り切る。一息ついて上を見上げると上はまだなか/\遠い。下を見下ろすと下ももうなか/\遠い。もう下りるのも上るのも同じく命がけだと覚悟を極めて未練なく登ることにする。
小僧サンは立どまつてはふりかへり、ふりかへつては歴階して上つて居る。余もまけぬ気になつて登る。
「こゝの欄干のところにしまひよか、露盤のところに出なはるか」
と小僧サンが上の方から呼ぶ。露盤の処から九輪の処に首を突出す事が出来るといふ事は曾て聞いた事もあつた。小僧サンは其処までも行く気と見える。其処まで行くうちには余はもう手足の力を失つて途中から転落するに極つてる。
「欄干のところで結構です」
「さうだつか。露盤のとこに出ると畝火の方がよく見えまんがなア」
畝火は宿屋の二階からでも見えぬことは無い。こちらは其どころでは無いのだ。小僧サンはどうするかと気が気でなく見て居ると、やつと露盤の方は断念したと見えて、欄干の方に出る小さい窓を開けて居る。
小僧サンは其窓を大仏殿の柱くゞりといつたやうな風に這うて出る。余も漸く其窓に達して、今度こそすべり落ちたら百年目と度胸を据ゑて這うて出る。窓の外は三重目の小さい回廊で欄干を握つて立つと、ニチヤ/\と手につくものがある。見ると雀の糞だ。其辺真白になつて居る。さつき雀の飛んで居つたのが此処だなと思ふ。小僧サンに並んで欄干を掴まへて下を見下ろす。
自分の足下には二重目の屋根が出て居る。此処に立つて下を見下ろすのは想像してゐた程に恐ろしく無い。小僧サンに跟て回廊伝ひに東の方に廻つて見る。宿屋の二階で見た菜の花畑はすぐ此塔の下までも続いて居る。梨子の棚もとび/\にある。麗かな春の日が一面に其上に当つて居る。今我等の登つてゐる塔の影は塔に近い一反ばかりの菜の花の上に落ちて居る。
「又来くさつたな。又二人で泣いてるな」
と小僧サンは独り言をいふ。見ると其塔の影の中に一人の僧と一人の娘とが倚り添ふやうにして立話しをして居る。女は僧の肩に凭れて泣いて居る。二人の半身は菜の花にかくれて居る。
「あの坊さん君知つてるのですか」
「あれなあ、私の兄弟子の了然や。学問も出来るし、和尚サンにもよく仕へるし、おとなしい男やけれど、思ひきりがわるい男でナー。あのお道といふ女の方がよつぽど男まさりだつせ。あのお道はナア、親にも孝行で、機もよう織つて、気立もしつかりした女でナア、何でも了然が岡寺に居つた時分にナア、下市とか上市とかで茶屋酒を飲んだ事のある時分惚れ合つてナア、それから了然はこちらに移る、お道はうちへ帰るしゝてナア、今でもあんなことして泣いたり笑つたりしてますのや。ハヽヽヽ」
と小僧サンは無頓着に笑ふ。お道は今朝から宿に居なかつたが今こゝでお道を見やうとは意外であつた。殊に其情夫が坊主であらうとは意外であつた。我等は塔の上からだまつて見下ろして居る。
何か二人は話してゐるらしいが言葉はすこしも聞こえぬ。二人は塔の上に人があつて見下ろして居やうとは気がつくわけも無く、了然はお道をひきよせるやうにして坊主頭を動かして話して居る。菜の花を摘み取つて髪に挿みながら聞いてゐたお道は急に頭を振つて包みに顔を推しあてゝ泣く。
「了然は馬鹿やナア。あの阿呆面見んかいナ。お道はいつやら途中で私に遇ひましてナー、こんなこというてました。了然はんがえらい坊んさんにならはるのには自分が退くのが一番やといふ事は知てるけど、こちらからは思ひ切ることは出来ん。了然はんの方から棄てなはるのは勝手や。こちらは焦がれ死にゝ死ぬまでも片思ひに思うて思ひ抜いて見せる。と斯んなこというてました。私お道好きや。私が了然やつたら坊主やめてしもてお道の亭主になつてやるのに。了然は思ひきりのわるい男や。ハヽヽヽヽ」
と小僧サンは重たい口で洒落たことをいふ。塔の影が見るうちに移る。お道はいつの間にか塔の影の外に在つて菜の花の蒸すやうな中に春の日を正面に受けて居る。涙にぬれて居る顔が菜種の花の露よりも光つて美くしい。我等が塔を下りやうと彼の大仏の穴くゞりを再びもとへくゞり始めた時分には了然も纔に半身に塔の影を止めて、半身にはお道の浴びて居る春光を同じく共に浴びてゐた。了然といふ坊主も美くしい坊主であつた。