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Chapter 4 of 12

第四回 落魄

その夜、――なんだか妙に疲れて腑抜けみたいになって、私は大森の家へ帰るのが億劫になり、アパートに泊ることにした。まだ十二時前だったが、蒲団を頭からスッポリかぶって、だが頭が冴えて、ねつかれないでいると、やがてミシリミシリと階段を軋ませて三階へ誰か上ってくる音がし、その音が私の部屋の前でとまると、

「やあ、いるいる」

部屋に電気をつけたままだったし、スリッパが廊下に出ているので、それらが私の在室を告げるわけだ。(電気は、――暗くするとどこからともなく現われて来て私に噛みつく無法な虫の襲撃を防ぐためだったが、一度そいつらに腹一杯私の血を食わせてやってからは、それにもう寒くなったせいか、その頃はあまり出てこなくなっていた。)

誰かなと私が蒲団から亀のように首を出すと、部屋の外で、

「倉橋君。――勉強ですか」

ひどく嗄れた、そのため無理に発音するみたいな、早口に一句一句投げつけるその声で、朝野光男とわかった。

「やあ、朝野君。どうぞ」

朝野は扉を開けて、

「おや、もう寝てるんですか。この頃は泊っているんですか」

そして私の返事を待たず、

「――せんの頃は、夜来ても、いつも留守だった。で、もうこの頃は、来るのを諦めていたんだが」朝野は酒の入った光った顔を、あたかも猟師が獲物をつかまえた時のような満足と喜びで一層光らせていた。「昼間はおられるんでしょうが、勉強の邪魔をしてはと遠慮してましてな」

私は浅草に住んでいる朝野を、私の方からついぞ訪ねたことがないのに、ふと慚愧の情を覚えさせられ、言い訳めいたことを言おうとすると、朝野は私に口を開かせまいとしているごとくに、

「倉橋君の浅草生活も、いよいよこう泊り込みで、本格的になってきたですな」

と言った。なんと挨拶していいか、うまい言葉が見つからず、私は曖昧な微笑を浮べながら、寝間着の上に着た着物の前を合わせていた。すると、朝野が、

「――あまり感心しませんな」

と言った。これは一層挨拶に窮する言葉だった。

「仕事の方はどうですか」立てつづけに言う。

機銃にタタタと打ち込まれる感じで、

「――駄目ですね」

と私は言って、へたばるみたいに蒲団の上に坐り込んだ。

駄目ですねと言ったことで私は、――朝野の出現で中断されたが、それまで寝ながら頭のなかで堂々めぐりをさせていた想念を、ここでまた蘇らした。

それは一口で言うと、――何か逞しい強い小説を書きたいということであった。だが、その願いのすぐあとから、それを追いかけて、私にはそう思ってもしょせん書けないのではないかという反省が来る。それを堂々めぐりさせていたのである。

私の頭には、フランスの作家のモンテルランの言葉が刻みつけられて離れない。「――文学上の仕事には、必ず劣敗者のみっともない泣き言がつきものだから厭になる。スポーツには泣き言がない。相手より五十センチ少なく跳んだ者も決してあとで文句なんかつけに来ない」モンテルランはこう言っている。私は、それを読んだ時、私の小説といったら、特に「劣敗者のみっともない泣き言」そのものが多いのだから、――それに、私自身もはや、そんなのでない小説、読者の精神を爽快にし健康にし高貴にし大胆にするような小説、できたら生活への強い意欲、逞しい精神力といったものを湧き立たせるような小説、――逞しい強い小説というのはそういう意味だが、そうしたまっとうな小説を書きたい気持にようやくなっていたところだから、何か激しい鞭を感じた。私の小説の多くは、五十センチ多く跳んだ者に、あとからウジウジとメソメソと文句をつけて行くような小説だ。私は爽快に逞しく五十メートルも跳ぶような小説を書きたいと思った。

こうした願いは、事変と共に私のうちに起きたものであった。外から要求されたものというより、私としては、うちにおのずと起きた一種生理的な欲求のようなものであった。だが、私にはそうした小説がどうも書けなかった。いたずらに欲求が衝き上げてくるだけで、それを小説に具体化することができない。そこで、その欲求は充たされないで、私のうちに鬱積し、私は一種のヒステリーみたいになっていた。

私は戦場へ行ったら、そのヒステリーみたいなのから救われるかもしれないと思った。だが、私には、同胞が生命を賭して戦っているところへ、戦いに加われない丙種の私が行くことは、いかにも「見物」に行くみたいな感じで、どうにも気がひける想いだった。戦場は私をそのような眼で見ないにしても、こっちで、申し訳ない想いだった。見物人ということを自他ともにあきらかにしつつ、――いわば生命安全の見物人と書いた紙をおでこに貼り付けて歩くみたいなことは、生命をささげて戦っている兵隊さんに済まない感じだった。――ある時、私はつとに現地へ二度も赴いた先輩の評論家に、お前、現地へ行かないのかと問われ、私は「――行きたいことは行きたいのだが」と言って、そうした気持を話した。すると、評論家は、

「君は……」と私をねめつけ「おめえは駄目だ。――だからおめえは駄目なんだ」と卓を叩いて言った。評論家は、駄目だという理由を説明してくれなかったが、私は私のそうした気持は下らないということを悟り得た。現地へ行けば、そんな個人的な下らない気持は吹っ飛び、吹っ飛ぶとともに、行かないと得られない貴重なものを得られるに違いないと思った。戦場へ行くということは、そんなケチな感情など問題にならない、もっと大きい高い立場に立つものだと思った。だが、そう思っても、私のそうした気持はやはり心から払い去られないで残った。

そして、――そのくせに、私は浅草をうろついて、一見すべての人に対して申し訳ないような、ぐうたらな生活を送っていた。私が浅草のアパートに部屋を借りた理由は、前に述べた。だが、盛り場はいろいろとあるのに、なぜ特に浅草を選んだかということについては述べなかった。私はそれまで、盛り場としては銀座を愛していたが、とみに銀座や銀座的なもの、私のうちにおける銀座的なものに嫌悪を覚え、同時に、浅草は民衆の盛り場というぼんやりした(いい加減な)概念に惹かれて、私は浅草へ来たのだ。私はそこで、民衆の群のなかに自分を置きたいと思った。(これも、いい加減な概念的なものだった。)――民衆の持っている素朴さ、率直さ、強靭さ等々で自分の神経を揉んで、ヒステリーを直したいと思った。だが……。

いや、こんな調子でしゃべらせておいたら、それこそ果てしのないおしゃべりを、私はこの辺で打ち切らねばならぬ。

――私は朝野に、仕事がうまく行かないと言った。すると、朝野はわが意を得たりといった顔で、

「浅草の空気は僕らにはいかんです」

僕らというのに特に力を入れて、断乎として、何か噛み付くみたいに言った。

「浅草は人間をぐうたらにさせて、いかんです。――浅草では、ふうッとしていても、生きて行かれますからね。こいつが、いかん」私の浅草生活が本格的になることは感心できないと朝野が言った意味がわかった。「――僕がいい例ですよ。全くもって、いい例だ。浅草に毒された、浅草の空気にすっかり台なしにされたいい見本ですわ」

朝野は煙草のやにで黒くなった汚い歯をむき出して笑った。――朝野は以前いい小説を書いていたが、この数年何も発表しなくなった。(いや、その都度ちがう変名で雑文を書いて、それで生活していた。それも最低生活費を稼ぐだけで、それ以上何も書こうとしなかった。)そうしたことを朝野は、(私には真偽のほどはわからないが)浅草に移り住んで、浅草のなかに沈没したせいにした。そうして、朝野は人間を無気力にさせる浅草を呪いながら、浅草から離れようとしなかった。

「僕はこの間、『サーニン』を読んだら、――ユーリイという副主人公がいますね。サーニンと対照的な弱い男、――そのユーリイの言葉にこういうのがあった。『僕の友人は……』とユーリイが言うんですな。『僕の生活は教訓的だと言う。つまり、人間はこんな風の生き方をしてはならないという意味で……』と、こう言うんだが、この僕もまさしく教訓的な存在ですよ。浅草がどんなに人間を腐らすかという……」

私は朝野がみずから敗残者みたいに言うのが聞きづらく、何か話題を変えようとあせった。(私が彼のところを訪ねて行く気がしないのは、彼を訪れることは、そうした敗残的な言葉を聞くために行くようなものだったからである。)

「そうそう――」

と、私は膝を叩いた。

「朝野君は但馬というの、知らないですか。浅草で脚本なんか書いていたという……」知るわけはあるまいと思いながら、――それで話題を転ずる便宜として言ったのだ。ところが、

「但馬が浅草に現われおったのですか。――会ったんですか」

と朝野が眼を光らせた。

「いや、会ったわけではないんですが」

「そうだ、但馬はユーリイだ」

と、朝野がさえぎった。「――左翼崩れというのも、そっくりだ」

「左翼崩れ?」

「そうなんですよ。――僕は左翼が嫌いだから、その方のことをよく知らないんだが、但馬は左翼の芝居の方をやっていたらしい。――その時分、但馬はまだ学生で。しまいに、但馬は学校をやめて、芝居から政治運動の方にもいったらしいんですね。そいで左翼が駄目になると但馬は浅草へ転げ込んで来たんですわ。但馬としては、新しい生活を見出そうというつもりだったんでしょうな」

朝野はバットの口を噛んで、

「一体、左翼崩れ、――そうだ、この頃はもうこんな言葉は流行らんですな。すたったですな。転向者というんですかな。そんな連中には、どういうものか、妙に生活力の強い奴が多いですな。僕は左翼嫌いだから、そういう連中が、どうも虫が好かないが。ところが但馬は、――奴さん、左翼崩れの癖して、これがてんで駄目なんだ。まるで生活力がない。ないんじゃなくて、失くしたんですね、浅草で。浅草へ来て、新しい生活力を湧き立たせるつもりだったらしいが、どっこい、逆に腑抜けにされちまって、とうとう身体まで台なしにしちまった。但馬が、このやっぱり浅草の空気に台なしにされたインテリの一人ですよ」

私は美佐子によって植えつけられた但馬に対する興味をいよいよ煽られた。朝野はひとりで言葉をつづけた。

「その点、僕は同病相憐れむという奴で、但馬に親愛の情を感じているんだが、ただちょっと――但馬は妙な奴でね」

と朝野は、闇に人影を探る時のような眼つきをして、

「但馬は、てめえ自身はまるで駄目なくせに、自分の周囲の、浅草の連中には、妙にその連中の生活力を湧き立たせる、――力というか、作用というか、影響というか、そんな微妙な、奇妙なもんを持ってやがって……。(朝野の声には、自分の言葉で、どういう感情かわからないが、激しい感情を波立たせられているのが感じられた。)こいつが実に妙なんですわ。――奴は意識して、そうやっているわけではないらしい。自分は駄目だが、周囲の奴は、しっかりさせよう、そんな肚でやってるんじゃない。たとえばネ、ここに悪事を企んでいる奴がいるとしまさア。浅草の踊り子で、仕事にあぶれて、遊んでいる奴なんかを、うまく口車に乗せて、どこか遠くの飛んでもないところへ売ろうとかなんとか、そんなことをしようとかかっている男がいるとする。そいつが、まあ、本当の悪党じゃなくて、迷っているんですな。どうしよう、やッたろか、いや、待て、といった工合に。そんな時、但馬に会うと、そうなんだ、但馬の顔だけ見ればいい。但馬がなんにも言わなくても、――但馬に会うと、たちまち、やッたれといった気持になる。但馬は、そういう奴なんですよ。こいつは実際の話ですわ。その小悪党から、その時のことを僕が聞いたんだから。――但馬というのは、そんなような妙な人間なんですよ。自身は正義派なんです。といっても、言葉の上だけの正義派。だから、そんなことになるんだろうが、とにかく、正義派の但馬が、その小悪党に、女を売っ飛ばせと言ったりするわけはない。だのに、但馬に会うと、売っ飛ばせと気持がきまる。――こんな話を聞くと、但馬が意識して、周囲に働きかけるわけではないことがわかるんだが、――但馬のそうした妙な作用は、もちろん悪事の煽動だけじゃない。そんなのは、けしからん生活力を湧き立たせることだが、いい意味での生活力も湧き立たせる。腐ってる役者なんかを奮起させたり、この頃上ったりのうるさ方がまともな根性を持って、おでん屋を開くようになったり、――但馬というのは、これはもしかすると、何か異様なものを持った、普通の人間とちがう、凄い奴かもしれないですな」

一気に言ったが、思いなしか、最後の言葉を言った時のその嗄れた声は、恐怖に似た畏敬と憎悪に似た反撥との奇怪な混合を示しつつ、震えていた。だが、すぐ朝野は悪夢でも払うように首を振って、

「いや、違う」

と大きな声で言って、自分ながらその大声に驚いた顔をしかめたが、――つづいてそのこわばったしかめ面を、そうして直そうとでもするように、

「倉橋君。パイ一やらんですか」

突然そう言うと、眉を開いた。

「やりますかな」

「――倉橋君。僕は金を持ってないんだが、ありますか」

「ええ、少しぐらいなら」

私は朝野の言葉をまるで自分の方で言ったみたいに恥かしい想いをした。そして朝野は、彼がまるで私のような顔をしていた。

私はすぐさま立ち上ろうとした。すると朝野は抑えるように、

「その但馬ですがな、――」

と言った。

「但馬がどうというわけじゃないのかもしれんですよ。というのは、インテリは但馬だけで、周囲の浅草の連中は但馬と人間がちがう。そこで、その連中は但馬に一目置いている。尊敬している。但馬の言うことに耳を傾ける。その辺のところから、但馬がどういうわけでもないのに、但馬の作用という奴が生れてくるのかもしれないんでさ。(自分に納得させるように、朝野はうなずいて)そうだ。それに違いない。――但馬はいつもこう言っているんですよ。逞しく生きよう、とね。これが奴のオハコなんですわ。ちょっと気障な科白だが。逞しく生きよう。そう言う自分が、からきし逞しくなんかないんだから、こいつは全く喜劇だが、――(と、どす黒い唇を毒々しく歪め)まあ、お題目みたようなもんですな。このお題目を、但馬の周囲の連中は、なんかというと但馬から聞かされて、頭に滲みこませている。だから但馬の顔を見ると、すぐそいつが頭に浮ぶといった工合に違いない――例の小悪党なんかも、そうなんだな、きっと。但馬の顔を見たら、逞しく生きよう。これがピンと来た。それで但馬に会っただけで、但馬がなんにも言わなくても、やッたれと気持がきまった。そういうのに違いない。但馬の、逞しく生きようというお題目は、そんな悪心を振いたたせることじゃないんだろうけど、小悪党は、インテリの但馬が言う、逞しく生きようというのがどういうことか、わからない。なんでもいいから、やッたれ、どしどし、やれ、そういう意味と、小悪党的にとっている。それで但馬を見て、悪心を振い立たせた。そういうんでしょうな。――そうなんだ。大したことはない。ちっとも驚くことはないんだ」

朝野は自分から但馬の異様な影像を私の前に描き出して見せながら、それを自分で打ち壊した。打ち壊している最中は、朝野の得意の、自分で自分を侮蔑する、その歓喜のようなもので眼を光らせ、全身に壮烈な力を漲らせている感じだったが、打ち壊してしまうと、急にガタッと身体が小さく萎びたみたいで、何か佗しそうな切なそうな面持である。

そしてボソボソとつぶやくようにして、こうつけ足した。ちょうどこわした彫像のかけらを集めるような調子で――。

「しかし但馬には、へんに人を惹きつけるところがあることはあるですな。――みんな今でも、しょっちゅう但馬のうわさをして、但馬に会いたがっているですわ。――但馬は今は浅草にいないが、みんなの心には但馬が依然として存在している。そんな感じですな」そう言って、唇が火傷しそうなくらいにまで吸い尽した煙草を、さらに、首をのばしてパッパッと唇を鳴らして吸うと、熱そうにして灰皿に捨て、

「さあ、出ましょうか」

そして立ち上りながら、ふと気づいた風で、

「倉橋君は、但馬をどうして知っているんですか」(朝野はいささか奇型的な感じがするくらい、脚が短かった。恐ろしく胴長で、――誇張して言えば、立っても、坐ってた時と高さがあまりかわりないくらいだった。)

「その人の細君というのと、田島町のお好み焼屋で知り合いになって……」

「惚太郎、――じゃないですか」

と朝野が遮った。「惚太郎というお好み焼屋でしょう」

「惚太郎」で私はまだ朝野に会ったことがない。

「朝野君は、あすこへ……」

「この頃は行かんですが……」

私たちは部屋を出た。急な階段を朝野は先に降りながら、

「あのお好み焼屋は、これがまた但馬の、――作品と言いますかな。あれは、ご亭主の惚太郎が出征したあとで細君が開いた、――家でやり出したんですがね。但馬が細君に勧めてやらしたんですよ」

私たちは階段を降りて、薄暗い、茶色っぽい電気の光の漂った台所に立った。アパートの人たちの共同炊事場である。その隅に、台所口のような(事実それに違いないが)アパートというものの玄関らしくない、アパートの玄関があった。――アパートの一階の、表通りに面したところは、建具屋、鰹節屋といった、いずれも店で、二階三階がアパートになっていて、アパートの玄関は、裏の路地にあった。そこで、私たちは、二階借りのものが遠慮しながら台所から外へ出るみたいな恰好で、汚い下駄の散乱した三和土に降り立った。――玄関の脇に便所があり、便所は何か似つかわしくない感じで水洗便所だったが、折からジャーという水道の水が奔流する音がすさまじく聞えた。

「どこへ行きましょう」

外へ出ると私が言った。月が路地の上にかかっていた。その夜にかぎって遠くへ飛び去ったみたいに、ひどく離れて小さく見えた。

「泡盛いこうじゃないですか」

「金は二三円ありますが。そうだ。お好み焼屋へ行きましょうか」

「いや、いや」

と朝野が首を振った。「下手な酒より泡盛の方がうまい」

アパートの付近に、十二時までに入ってしまえば、少々遅くなろうと追っ払われない泡盛屋があった。(これは、朝野の言葉である。)

そこへ行くまで、朝野は、どうしたのか、――アパートでは独りで、熱にうかされた人のようにまくし立てていた朝野だのに、いや、そのせいでか、不機嫌な風に黙りこくって、私の先をトットと行った。その上った肩は、そういう肩つきなのか、それともわざと肩を怒らしているのか、――肉がてんで無くて骨がゴツゴツなのを、色がわりしたヘラヘラの二重回しの外にありありと出していた。朝野は、その落魄の感じをいたましく漂わした肩を、さよう、その落魄感を大事に骨の上に載せていて、落してはならないとしてでもいるように微動だにさせず、まるで幽霊のようにすうッと身体を前に進ませていたが、幽霊と違うのは、摩り切れて草履のような下駄から発せられるところの、シャッシャッという一種快適なリズミカルな音であった。その音、そしてその歩き方を、朝野は楽しんで、――いとおしんでいるような風であった。

――泡盛屋はスタンドの前に五六人並ぶといっぱいになる狭い店で、肥った婆さんがひとりでやっていた。娘を映画俳優に嫁がせていて、この婿は今はまるで不遇だが、もとはちょっと売り出しかけたことがあり、そんな関係からか、高田稔などから贈られた、でも今はすっかり色の褪せた暖簾がかかっていた。店の客も公園の小屋の関係のものが多かった。そこは、生粋の琉球の泡盛を売っていて、出港税納付済――那覇税務所という紙のついた瓶が、いくつも入口に転がっていた。浅草の連中は、インチキな酒類を平気で楽しんで飲むが、それは騙されて飲むのではなく、インチキと承知の上のことで、だから泡盛のほんもの、うそなどということの舌での鑑定にかけては、商売人はだしである。朝野がその一人であった。朝野は、婆さんと「来たぞ」「おや、騒々しいのが来た」といった口をきき合うなじみであった。婆さんは、それが商売上手の口なのだろうが、まるで客扱いなどしないぞんざいな口をきいた。

泡盛が入ると、朝野の舌が再び動き出した。「惚太郎」の話を始めた。

「惚太郎のおやじ、――奴さんは、あれでなかなか大した芸人なんですぜ、今じゃお好み焼屋のおやじでくすぶっているですがね」

「戦争の怪我で舞台に出られないとか……」

「いや、それがね、それがなんですわ。出られないというのは、まんざらウソでもないらしいが。――保定でやられたんだってね。奴さん、工兵で、――話を聞いたでしょう。聞かない? 聞いてごらんなさい。そりゃ面白いから。実に勇敢だったらしい。いい話を、そりゃフンダンに聞かせてくれますよ。もっとも、巧く持ちかけないと、――奴さんの機嫌のいい時をねらって、話をひき出すようにしないと、変った男だから、自分ではなかなかしゃべろうとしないですな。――腿ンところなんですね。それで帰されたんだが、――病院にずっといて、癒ったから家へ帰ったんだろうが。見たところなんでもないようで、やはりまだ舞台に立つと、――ながく立っていると、痛んでくるとか痺れてくるとか。で、まだ当分出られないと言っているが、本人の気持じゃ、もう漫才の舞台に出たくない、舞台はいやだ、そんな気持じゃないのかしら。といって、お好み焼屋のおやじで満足しているわけじゃないし……」

朝野は分厚いコップを口に当てた。

「芸人がいやになったんですかね」

私も、重たいコップを持ち上げ、コップの縁が、唇を当てるとへんに滑らかなのに気味の悪い想いをしながら、透明な強烈な液体を一口ふくむと、急いで水を飲んだ。

「そうじゃないんですよ」

と言って、朝野は、伸びた爪に黒いものをいっぱい溜めた、そしてこれも垢じみて汚い手の甲でベロベロと唇を拭って(――何か泡盛屋の酔いどれらしい、きたならしい感じだった。)

「奴さんは立派な芸人ですからね。下らない素人の芸人が跋扈している現在の舞台がいやなんですよ。素人の漫才が偉そうにしているのにムカついているんですな。――いや、奴さんの気持はわかる」

朝野はギョロリと私の顔を睨んで、――(この素人作家め! と、それは言っているようだった。)

「あの人は(と、何か語調を改め)漫才なんかやる人じゃないんで、――いつかも僕にこう言ってた。高座に一人で出て、大勢のお客さんを相手にして負けないのが、これが芸人で、二人出てやる漫才屋なんか芸人じゃない。こう言って、――漫才屋になった自分はもう芸人でなくなったと笑ってたが、もとは寄席に出ていたんですね。それが、例の、もう随分前の話だが、寄席の没落で、仕方なく漫才屋に転向、――転落というのかな。森家惚団治のところへ入って、森家惚太郎ということになったんだが、この惚団治がやはり寄席の没落で漫才屋に転向したんで、もとは落語家でさな。――惚太郎君は(朝野はいろいろと言い方を変えた。)大体は清元の人で、――お母さんは延寿さんのところの名取だったそうですがね。三味線は子供の時から習わされて、年季を入れているんですね。お父さんというのは、相当に大きな請負師だったそうで、だから、もとは何かかたぎの商売でもやっていたんでしょうが、それがどうして芸人になったのか。そこンところは知らないが、芸が身を助ける不仕合わせ、――といったところでしょうな。おい、おばさん、注いでくれ」

朝野はコップをたちまち空にしていた。婆さんが注ぐのを、じッと見ながら、

「――お好み焼屋へは、いろんな芸人がくるでしょう。いろんなといっても、あんな汚いところだから大した奴はこない。おやじの嫌いな下らない素人漫才のような奴ばかりで、そんな素人漫才屋が、あすこでトグロを巻いて、やれ、今晩は大したお座敷で、いくら儲けたの、やれ、身体がいくつあっても足りないのなどと、オダをあげたりするんで、おやじは一層おもしろくないんですな」

それで、細君がひとりで忙しがっているのに、外に出て歩いてばかりいると朝野は言った。

私はこの物語で、「風流お好み焼――惚太郎」は紹介しながら、その本人の惚太郎をこれまで一遍も出してない。出して置いた方が、――朝野のこのような話を紹介する前にやはり惚太郎を紹介して置いた方が、好都合であったと思われる。だが、それは、私の不注意で、私が出さなかったのではなく、惚太郎が出てこないのだ。私が「惚太郎」を紹介する場面の時は、いつも惚太郎は家にいなかったのである。細君に聞くと、戦友のところへ遊びに行くらしいのだ。「よっぽど懐しいものと見えますね。――戦友の方も、家へいらっしゃるんですよ」

ところで、私は、素人漫才屋が「惚太郎」でオダをあげるという朝野の言葉で、亀家ぽんたんのことを頭に浮べた。

――ぽんたんは、つい先頃まで、ドサ回りの役者だった。まだ二十前の若者で、全然下回りの役者だったが、それが、ぽんたんの言葉で言えば「兄貴」の鶴家あんぽんと組んで、漫才師になった。なった当座は、あちこちで試験的に出されるので、すこぶる忙しく、そんな時分に、私は「惚太郎」でよく一緒になったが、全く意気軒昂たるものだった。一月何百円という収入まで聞かされ、(幾分法螺もあるだろうが)――私は、ドサ回りの役者のピーピー状態から、一躍そんな金が取れるようになったのだから、オダをあげたくなるのも無理からぬことと思い、また、漫才全盛の現在とはいえ、いきなり舞台に立てば、それで勤まり稼げるとは、いやはや恐るべきことじゃと思った。――門外漢の私でさえ、恐るべきことだと感じたのだから、惚太郎はどんなに苦々しい想いだったろう。だが私はその時分、惚太郎の心のうちを知らなかった。

――そして、これは余談にわたるが、やがて鶴家あんぽん、亀家ぽんたんのコンビは、公園の「漫才常設館」のE館に入ることができた。素人ながら、うまかったのだろう。あるいは素人の「新鮮さ」が客に受けたのかもしれない。かくて彼らとしては晴れの舞台の浅草の小屋に出られることになったのはいいが、駆け出しというところで、月給は六十円。六十円というのは、二人一組に対してのもので、だから一人は三十円。

ところで、鶴家あんぽんは、これは、ぽんたんのような役者出身でなく、前身は全く舞台に関係のない、九州の某駅の助役であった。それが芸者に熱中し、やがて各方面不義理だらけにして落籍せて一緒になると共に勤め先はクビという、そうしたことの定石を踏んで、二人で東京へ出て来たのだった。そうした元鉄道官吏が、どういう経路を辿って漫才屋になったか、それは今省略するとして、――元芸者のその細君も同時に漫才屋になった。すなわちもとは夫婦でやっていたが、亀家ぽんたんと組んで、躍進を期し、立体漫才というのを(――といっても、別にそう新機軸があるわけではない。ただそういう看板だけで、内容は普通の漫才とちがわない。)始めると、細君は別に他のと組んだ。そしてその細君が別口で稼いでくるから、あんぽんの稼ぎが三十円でも、どうにかやって行けるわけだが、――独り者のぽんたんの方は、そういう別口のがないので、たとえ独り者の間借生活でかかりがかからないとはいえ三十円ではやって行けないのであった。そこで「兄貴」に、――場末の小屋に出て稼ごう、稼がなくちゃ顎が干上ると言うのだが、あんぽんは、――格が下るから駄目だ、ここが辛抱のしどころだと言って、承知しない。

――という話を、私は「惚太郎」の細君から聞いた。

「ぽんたさんは、先頃あんなに元気だったのに、可哀そうに元気がなくなっちゃってねえ。――漫才は一人では稼げませんからねえ」

ぽんたんは意気軒昂の頃は、

「――なんか、おもしろいネタありませんか。ひとつ教えて下さい。どうも、いいトリネタがなくて」

と私の顔を見ると、言ったものだが、近頃はとんと言わなくなった。黙って五仙の「やきそば」を、ながいことかかって食っていた。――

「小説なんかも、同じじゃないですかな」

と、朝野が台に肘をつき、その手に顎をやって、人を小馬鹿にするような恰好をしながら、言った。

「――芸の小説より、ネタでごまかして客を釣る素人小説の方が幅をきかせているんじゃないですか、僕は惚太郎と同じ心境ですな。ケッ! 胸糞が悪い!」

挑むような声だった。だが、すぐ顎の手を外し、首をガクッと落すと、急に弱々しい媚びるような声になって、

「いや、僕が小説を書かないのは、――書かないんじゃなくて、書けないんですよ。――僕は駄目ですよ。ああ、なんにも言わないで……。僕は駄目なんですよ」

――私は酩酊した。

酩酊すると、私の頭のなかで可憐な小柳雅子が乱舞しはじめた。私は小柳雅子の名を唇にのぼさずにいられなくなった。

「K劇場の小柳?」

と、朝野が言った。「K劇場なら僕の縄張りじゃ。縄張りを荒すとはけしからん」

冗談のようでもあり、本気のようでもあった。そうした朝野は酔っているようでもあり、酔ってないようでもあった。

「荒すも荒さないも、まだ一口だって口をきいたこともないんで……」

と、私は言った。私は自分の言葉で胸をつまらせ、おや、泣き上戸になったかなと思った。「――僕はただ彼女が舞台で踊っているのを客席の隅から見て、胸を躍らせているだけで……」

「これはまた……」

と朝野が遮った。「なんじゃね。それは」

そして嘲るような笑いを浮べて、

「じゃ、明日、一緒に楽屋へ行こう。倉橋君を小柳雅子に会わせよう。そして一緒に外へ出て、お茶でも飲もうじゃないですか」

「…………」

私は浅草のレヴィウの方に知り合いがないわけではなかったから、頼めば、そういう機会を持てたのだが、――頼み込むということが何かできないで、したがってそうした機会に今まで恵まれなかった。そして、恵まれる時が来た。――だが、私には何かためらわれた。

しかし朝野は独りできめて、

「明日アパートにいますな。夕方呼びに行きますわ」

朝野にキッパリときめられると、初めて、私は憧れの小柳雅子に会える喜びに、はっきりと直面することができた。喜びのためか、酒のためか、心臓がドキドキと鳴っていた。

「浅草のことなら、万事僕に……」

そう昂然と言って、(――私は昂然たる朝野を、ここで初めて見た。)朝野はポンと、はだけた痩せた胸を叩き、みずからよろめいた。

Chapter 4 of 12
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