その三 練兵場の犬
スグカエレ――これが大きく俺の眼に迫った。番頭から渡された電報を、玄関をあがったすぐのところで開いて、ふーんと俺は唸っていた。
その俺を番頭はしげしげと見つめている。いやな眼つきだ。
「何か用かい」
「いえ」
と番頭は言ったが、俺にいやな眼をそそいでいるのは番頭だけじゃなかった。其れ者上りと思われる、それもこの植民地のユキダルマ(枕芸者)上りと思われるここのおかみが帳場から、坐ったまま背のびして、白粉やけした顔におびえた表情を浮べて俺を見つめている。その背後には、飯たき婆みたいなのまでが首だけ出して、それこそこわいもの見たさのような眼つきである。
電報を見たな?――それだけにしては異様すぎる。ほかに何かあったな。家中の者がまるで総出で俺に怪訝の視線の一斉射撃をあびせかけている。
波子ひとり姿が見えない。どうかしたかな。血みどろの猫が俺の脳裡に浮ぶ。
波子はどこへ行った? 聞こうとして俺はしかし咳払いをして、俺のいまあがった玄関に、眼を走らせた。俺の部屋に、ある種の来客がこっそり待っていて、それが宿の者を震えあがらせているのかもしれぬ。だが、それらしい靴は見あたらない。下駄箱に隠したのか。
「誰か、お客が……」
俺をとらえに来ているのではないか。
「いいえ、別に……」
と番頭はもみ手をした。
被害妄想か。俺は二階の部屋へ行くため、とんとんと階段をのぼった。
スグカエレ? この宿を俺は慷堂には知らせてないのに、どうしてここを知って電報を打ってきたのだろう。京城へ乗りこむことすら慷堂には言ってなかったのだ。俺が離京したあと、北槻中尉から聞いたのだろうか。そうとしか思えぬが、そうすると、慷堂のよこしたこのスグカエレには北槻中尉の意見もふくまれているわけか。
スグカエレ――そう言われても、俺としてはこのままのめのめと帰れはしない。何か内地で新たな計画が企てられて、みんなでやる仕事が俺をまねいているようだが……。
猫が死ぬときは、ひとりで死ぬのだ――俺は、ふと、そんなことを考えた。死にに行く猫に、帰れと言っても帰らない。飼われていた家から離れて、猫はひとりで死にに行く。スグカエレと言っても、猫は家へ戻って、家で死のうとはしない。
ひとりで寂しく――いや、ひとりで満足して、猫は死ぬのだ。人間だって、死ぬときはひとりで死ぬのだ。
後年、俺は肺病になって、寝こんだとき、こんな詩を――詩だかなんだか分らないが、自分にあててこんなものを書いた。これは京城の猫を思い出しながら、京城で死にぞこなった自分への嘲りをこめて書いたのである。
わたしを愛してくれた者たちよ さようなら
わたしが愛した者たちとも別れて
わたしは森へ死にに行く
森のけものの約束を守って
わたしはひとりで死ぬであろう
森のけものの血が おお その時
わたしのなかでよみがえるだろう
人間にならされる前の野獣として
ならした人間どもにベロを出して
ならされた屈辱をベロで舐めおとして
莞爾としてわたしは死ぬであろう
俺は猫のように足音を忍ばせて部屋に近づいた。やはり誰かいるかもしれぬと警戒したが、その部屋に、ほかならぬ波子を見出したとき、俺は思わず、
「生きてたのか!」
波子は猫のように眼をきらりとさせて、自分の唇に急いで指をたてた。大きな声を出すなとそれで知らせて、
「なんのこと?」
と低い声で言った。
「昼間の猫はどうしたろう」
と俺は言った。波子の上気したような顔は汗で光っていた。唇が接吻のあとみたいに濡れていて、いやに煽情的だ。女郎屋へあがりそこねた俺は今ごろになって、かっと燃えてきて、波子に挑みかかって行きたくなった。すると波子が、
「お客さんはやっぱり、ただのネズミじゃないわね」
と言やがった。若い女がまるで年増みたいな不敵な言葉を吐いた。
「なんだと」
つかみかかろうとして俺は、俺の部屋にはいりこんでこんなことを言う波子に、玄関でのあの異様感をふたたびよみがえらすと同時に、部屋のなかにも、こいつは変だぞと俺に感じさせるものがあるのに気づいた。一見して、ガサ(家宅捜索)のあとと分るようにひどく取り散らかっているというのではないが、ものの位置が変っているあたり、ぴんとくるものがあった。
「誰か来やがったな」
波子につかみかかろうとした手を、俺は俺の顔に当てた。顔を撫でおろすと、ぬるぬるとした粘液が――汗というより、まるでウナギのヌルみたいな気味の悪い液体が、俺の指にべっとりと来る。その指の間から俺は、波子が黙ってうなずくのを見た。
「来たか」
「ええ」
声をひそめて、
「でも、大丈夫……」
「なにが大丈夫……」
しまった! と俺は唇を噛んでいた。いままで、いっときも肌身離さずに持っていた大事なピストルを、俺は床の間の横の地袋のなかに隠しておいた。内地ならいざ知らず、ここで女郎買いへ行くのに、そんなものを持って行ってはまずいと思ったからだが、昨日も実は総督官邸の様子を探りに出かけたとき、不審尋問に万一ひっかかった場合を考えて、ピストルを地袋へ隠して行った。
まさか、そいつを持ってかれはしないだろうな。一刻も早くたしかめたかった。はやる心を、波子の手前、おさえていると、
「ないわよ」
と言って、波子のほうが、その地袋に顎を向けて、
「あけてごらんなさい」
「なんだって……」
ころがるように飛んで行って、その小さな袋戸棚をあけて、
「ない!」
尻餅をついたのは、われながら醜態だった。
「そりゃ、ないわよ」
面白がるみたいに波子は言った。薄ら笑いを浮べている波子を見ると、俺はかっとなった。
「なにすんのよ」
俺は波子に飛びかかって、その頸を両手でしめあげている自分に気づいた。そんな自分に俺は恐怖を覚えたが、当の波子の顔には恐怖はない。思わず手をゆるめた俺の耳に、このとき波子はこう言うではないか。
「あたしがちゃんと隠しといたから大丈夫」
「どこへ隠したんだ」
俺の手は波子の二の腕をつかんでいた。
「あぶないとこだったわ」
俺に腕をつかませたまま、波子は半開きの地袋に眼をやって、
「昨日、この部屋の掃除をしてたら、そこに変なものがあるんで、何かしらと?」
「あけて見たのか」
もちろん、ピストルを裸でおいたわけではない。
「びっくりしちゃった」
波子は眼をギラギラ光らせて、
「だから、昼間、何かあたしに頼むことないかって聞いたでしょう」
俺の膝に手をやって、ゆすぶるようにして、
「頼まれたらそのとき、ちゃんと前もってあたしが預かってあげたのに……。預かってあげようと思って聞いたのに、お客さんたら、何も頼むことないと言うから、あたしはそのまま放っておこうと思ったの。でも、憲兵が来たとき……」
「なに、憲兵が来たのか」
俺は波子と膝をくっつけあっていた。
「そうよ。こういう男がいるだろう、部屋はどこかって。お帳場でそう言ってるの。そのとき、あたし、何も頼まれもしないのに、よけいなことをするみたいだったけど、あれを持ってかれたら大変だろうと思って、憲兵が部屋に行かない前に、さっとここへ駈けあがって、見つからないうちにあれを持ち出しといたの」
「そうか。そいつは、すまなかったな」
俺はこくんとお辞儀をして、
「ありがとう」
と礼を言った。そしてピストルを返してくれと手を出すと、
「また、来るわよ。来たことを黙ってろと、みんな、家の人たち口どめされたの。早く東京へ帰ったほうがいいわ」
すぐにも発てるように、波子は俺にかわって、身回り品をトランクに片づけたと言う。
「そいじゃ、あれは、トランクのなかに……」
「いいえ。あんたが持ってちゃ、あぶないわ」
波子は、はだけたえりもとをあわせて、
「あたし、東京へ行きたいの。一緒に連れてって……」
「お尋ね者の俺と一緒に、東京へ……?」
「お客さんはなみのお尋ね者じゃないわね」
「大泥棒か」
「泥棒なんかじゃない」
俺はなぜか、ふーっと溜息をついた。小娘のくせに度胸がある。感歎の溜息だと俺が自分に言いきかせると、
「あれは、あたしが持ってたほうが安全だわ」
と波子は言った。言い切った。
俺はこのとき、血まみれのあの猫に俺自身を感じた。俺自身があの瀕死の猫にほかならないのだ。
「よし、連れてってやる」
俺はそしてこう言い直した。
「一緒に行こう」
ここでむざむざつかまるのは無念だった。だが、駅にだって憲兵が張りこんでるだろうから、はたして京城から脱出できるだろうか。
「あたしが、うまい工合に汽車に乗せてあげるわ。ひとつさきの駅まで行けば、きっと、誰にも見つからない……」
――若夫婦の偽装で、まんまと俺たちは東京へ帰ることができた。
本郷の下宿はおそらく憲兵が張りこんでいるにちがいないから、そこへ戻るのはあぶない。それに波子も一緒だったから、別の上等なコハイ(旅館)にはいった。そしてすぐ俺がひとりで慷堂を訪れると、
「この馬鹿者!」
と頭からやられた。ひとりの尾垣を殺したところでなんになる。慷堂から俺はどやしつけられた。北槻中尉にもその軽率を重々たしなめておいたと慷堂は言った。
帰京命令はしかし、それだけのためではなかった。不発に終った三月事件には、民間側から小川秋明とその一派が参加したのだが、今度はその小川派と仲のよくない南一光も加わって、だから斎田慷堂も参画して、新たな計画が立てられていた。そのために慷堂は俺を呼びかえしたのでもあった。これが世に言う十月事件である。
「砂馬も近く帰ってくる」
大分苦労したようだと慷堂は言ったが、その顔は妙に暗かった。
その夜、俺は慷堂の家を出ると、その足で吉原へ赴いた。若紫に会いに行ったのだが、すでにもうやめたという。俺のピストルを見て、きもを潰したのか。
「畳屋にひかされたのかい」
その問いに、やり手婆あは、さあどうでしょうと言葉を濁した。
「誰か呼んでくれ」
「はいはい。いい子を出しますから、可愛がってやって下さいな」
俺はここで、若紫がいないからと言って、このまま帰ったのでは男がすたる、そういう意地で、別のおいらんを呼んだのではなく、宿屋で俺の帰りを待っている波子と、東京での初めての夜をすごすことを避けたい気持だったのだ。
今夜あたりが一番いけないと俺は思った。いけないと言うのは――波子と俺は、夫婦気どりの旅をずっとつづけてきたが、二人の間は綺麗だった。自分でも不思議なくらい、俺は波子に全然手を出さなかった。出す気になれなかったというのとはちがって、ジダマ(素人娘)には手を出すまいというところがあった。波子のほうも、その夫婦偽装は、上京したい一念からで、色恋みたいなものではないと俺には見られたからだ。手を出さないことが、俺を窮地から救ってくれた波子へのせめてもの恩返しだと俺は考えたのだ。――
若いおいらんが俺のあいかたとして現われた。胴長で、やけに顔が大きな女だった。大きな顔を真白にぬたくって、そのためいやが上に顔が大きく見えた。それが猫撫で声で、
「ねえさんにかわって、あたしをひいきにしてちょうだい」
と言う。俺のほうではこの女の顔に見覚えがないが、女は俺が若紫のお馴染さんだったことを知っている。俺の傍にすり寄って、
「うれしいわ」
「なにがうれしい」
「だって兄さんを、あたし、前から好きだったの。でも、ねえさんがいたんで逢えなかったの」
なに言ってやがると俺は、見えすいたおべんちゃらにむかむかして、
「暑いから、傍に寄るなよ」
「薄情ね」
「暑いから暑いと言うんだ」
「あーら、こわい顔……」
「こわいのは、これからだ」
俺は女の股倉に無造作に手を突っこんだ。
「いや! 乱暴ね」
「素人みたいなことを言うない」
「憎らしい。わざと、そんな乱暴な……」
「乱暴は俺の地だ」
「初会だというのに、ねえ、兄さん、そんな手荒な真似しないで。気分が出ないわ」
「俺には気分なんかどうでもいいんだ。俺がほしいのは、おめえの○○○○だけだ」
みっともないから伏字にしたが、俺はできるだけ下司な自分にしたかったのである。下司な振舞いだけではあきたらず、言葉も下司に、もっともっとあさましいことを口走りながら、
「なんだ、パイパンか、おめえは」
「ごめんなさい」
なんておとなしく出られて、よけい、いらだった。俺は株屋やなんかじゃないから、白板だからって、縁起をかつぎはしない。むしろ、
「パイパンとは面白え」
娼妓のくせにしおらしく無毛を恥じてその大きな顔を赤く染めた女を、俺はやにわにすっ倒して、長じゅばんを手荒くめくると、女は素速くうつぶせになって、前を隠した。そのため頭隠して尻隠さずみたいに、むき出しになった女の尻を、俺はぴしゃりと手でたたいて、
「話にゃ聞いてたけど、実地にお眼にかかるのは初めてだ。おい、見せろ」
いやア、いやアと女はもがいて、
「見せ物じゃないわよ」
「なに言ってやがる。見られるのがいやなら、○○○○も、ことわったらどうだ」
人殺しを決意した俺が、その決意を俺の心から消し去るには、なにか、こう残忍なことが必要だったのだろうか。
「見せたくねえんなら、手で見てやる。たけえドテだな」
パイパンのせいか妙に汗ばんだ「茶碗」のドテを手でおさえつけて、エンコ(指)を乱暴にもぐらせると、
「いけすかない。大事な商売道具が、けがしたら、どうすんの」
と女もさすがに気色ばんだ。その言い方がおかしく、俺はふき出しそうになったが、
「いちいち文句をつけやがる。俺が買った女を、俺がどうしようと勝手だい」
あくたいをつくことで俺は、生理的と言ってもいい快感を覚えていた。
「ひとをなぶりものにする気なの」
「ヨリガマシか。言うことをきかねえからだよ」
「こんないけすかないお客、はじめてだ」
「俺もこんなおいらんは、はじめてだ」
嗜虐の楽しみが男にはあるとすると、女には被虐のそれがあるのか。俺に組みしかれたあとでも、いけすかないと言いつづけていたそのおいらんが、
「まーだ? フチが疲れる」
なんて、ぬかしているうちに、急に真剣になってきて、やがて商売のブンヤ(よがり泣き)とはちがうネをあげたのには俺もたまげた。まるで俺が人殺しでもしているみたいな、すごい悲鳴だった。
そのあと、照れたのか、くやしかったのか、
「いけすかない」
と女は言った。
「アラ、エッサッサ、紙おくれときやがら」
凱歌のように俺は浅草の安来節を女の腹の上で歌った。浅草の小屋ではそのころ、この「エッサッサ」の個所で客がある種の言葉(と俺も照れて伏せておくが)を合唱したものである。
翌日、俺は波子をひとり残しておいた旅館へ、昼近くに帰った。波子の姿が見えなかった。早速、東京見物にでも出て行ったのかと思ったら、そうじゃなかった。置手紙がしてあって、それには――住み込みの家がきまったら、知らせますと、思ったより上手な字で書いてあった。
「へーえ、そうかい」
俺は心に痛みを覚えたから、かえって冷ややかにせせら笑って、
「気の強い女だ」
よけいなことは何も書いてない。それだけに、たった一枚の紙が変に重く俺の手に感じられた。
「勝手にしな」
俺はピストルを早いとこ北槻中尉に返そうと、旅館を出た。俺のあとをつけ回しているにちがいない憲兵に、そいつを取られたら、うるさいと思ったからだが、このまま、むざむざ中尉に返すのもなんとなく業腹だった。
強い光線が、がっと照りつける。俺は自分の頭にピストルの弾丸をぶちこんでやりたいような気もした。たかが一晩の女郎買いなんかで、そうやすやすと俺の気が静まるものではない。
電車で六本木へ行った。そこで乗り換えると次の停留所が連隊前である。
北槻中尉のいる連隊のすぐ前に停留所があるのだが、ほんの一丁場だから、六本木で電車を降りた俺はそのまま歩いて行った。
前に俺はピストルを早くよこせと、その連隊の将校寄宿舎に中尉を訪ねたことがある。独身の将校のためのその寄宿舎は、営門をはいって左手へ降りた窪地にあった。ひら家の陰気な建物だが、錦旗革命を夢みている青年将校たちがそこで虹のような気焔をあげていたものだ。
俺はその寄宿舎へ行こうと、衛兵に面会を申しこんだ。すると北槻中尉は練兵場だという返事だった。昼日中、将校が寄宿舎にいるわけはない。それを知らない俺でもないのに、暑さでぼうとなっていたのか。
うかつな自分に舌打ちをして、俺は営門を出て、練兵場へ向けて、てくてくと遠回りの道を歩いて行った。腹が減ったので、パン屋を見かけた俺は中途でパンを買った。
炎天を歩いているせいか、俺の頭のなかはカッカと燃えていた。燃えている頭のなかは、しかし、からっぽの感じだった。俺のうかつは、このせいなのかもしれない。アナーキストは無思想だとボルの奴らから軽蔑的に言われたものだが、その無思想を今はっきりと俺は自分のうちに感じた。
練兵場に来て、俺は木かげに腰をおろして、汗をぬぐった。射撃練習の音が聞えてくる。北槻中尉はどこにいるか分らない。
パンの紙袋がごそごそと邪魔だった。ここで食っちまおうか。ボサボサしたジャムパンを俺は食いはじめた。そこへ一匹の黒犬が、どこからともなく現われて、パンを食っている俺を、遠くからじっとみつめた。
「おめえも腹が減ってるのか。モサコケ(空腹)か」
おいらんにはむごい扱いをした俺も、犬にはやさしかった。きたない痩せこけたのら犬である。俺に尻を向けて、いつでも逃げ出せる態勢で、首だけこっちに向けている。横目で俺を見ている。その恰好が滑稽で、いじらしく、
「よし、お前にもやろう」
パンをちぎって投げてやると、犬は石でもぶっつけられたみたいに尻尾をまいて、あわてて逃げた。
馬鹿な奴だ。だが、その馬鹿な奴は、いったんは逃げ出したものの、のそのそと戻って来て、地面に鼻をくっつけてパンを探しにかかった。
「そんなとこじゃない。こっちだよ」
俺が言うと、犬はびくっと逃げかける。俺はよけいな注意はやめた。
探し当てたパンを犬は口にくわえた。アグアグとやったと思うと、ほとんどひとのみにした。
「どうだ、うまかったか」
このときの俺には微塵も殺意などはなかったのである。
犬は疑わしげな眼をして、俺を見ていた。パンをくれた俺に感謝する眼ではなく、なんでパンをよこすのかと猜疑にみちた眼なのである。俺は俺の好意を犬に知らせてやりたいと、ふたたびパンを投げ与えた。
犬はぎょっとして逃げかけたが、そんな恰好をしただけで今度は逃げ去ることはしなかった。パンもすぐ見つけて、あっという間に食ってのけた。
俺は新たにパンを、ふわっと空中に放りあげるようにして犬に与えた。犬はそれを口で受けた。
「うまいぞ」
ほめてやったが、犬はおどおどと俺を見ていた。またもや俺はパンを放りあげた。前より手前に落ちるようにした。警戒心の強い犬は、俺に近づくのを恐れて、口で受けることをしなかった。
「なんて臆病な奴だ」
俺はパンを投げつづけた。投げる距離を徐々に縮めて、犬を俺の傍にひきよせて見ようと試みた。
それは成功した。ごく近くまで犬が来るようになった。それでも俺に心を許さない様子がありありと見える。それがぐっと俺のカンにさわった。
「不愉快な奴だ」
突然、俺の頭に殺意が閃いた。
「このオオチョボ(犬)をぶっ殺してやれ」
俺はピストルを取り出した。犬はおったまげて飛びのいた。俺の殺意が犬にぴーんと来たのか。
「おい、これ、やるぞ」
俺はパンをついそこに投げた。
おどかしちゃ、いやですよ、そう言っているような卑屈な頭のさげ方で、犬はパンに近づいた。俺はピストルを腰に当て、左手にパンを持って、
「ほれ……」
手を差しのべて犬をおびき寄せた。犬は初めて尻尾を振って、俺の手に口を向けて来た。今になって尻尾を振ってやがる。ちょっと俺はためらった。
だが、俺の指はすでに曳きがねをひいていた。心臓をねらって――いや、俺は犬の心臓がどこにあるのか知らないが、前足のうしろあたりが、げっそりと凹んだ腹とちがって、命中率がいいと見たのだ。
見事に命中したらしく、ぎゃっというすごい叫びとともに、犬の奴は地上からぴょんと飛びあがった。と思うと、ばたりと地面に落ちて、横に倒れたまま、四つの足で土を掻いた。
「ざまあ見ろ」
何がざまあ見ろだか分らないが、俺はすっくと立って、犬の傍に行った。蹴ろうとすると、犬が頭をもたげて、ガブリと俺の足に噛みつこうとした。
「なにを……」
歯をむいた口のなかに俺は弾丸を打ちこんだ。
ヒクヒクと身体を痙攣させて、哀れな犬は(俺はその犬を哀れと見たわけではない。逆に俺は猛烈な憎しみを感じていた)半開きの口から血へどを吐いた。
ピストルの音に、たちまち人がこっちに駈けて来るのが見える。
「あばよ」
と言って俺はその場を退散した。一目散にずらかった。
――尾垣大将を暗殺するかわりに俺は、のら犬を殺していたのである。