Chapter 1 of 9

昨年の八月中頃、ヒューゲッセン大使負傷事件を契機として我が国に対する英帝国の態度が、そろそろ敵意を帯びた奇怪なものに映り出していた頃であったと記憶している。何かの用件である日の夕方、ヴァローダ商会という印度商館へ訪ねて行ったことがある。電車通りに面した事務所には、相変らず所狭いまでに各種の器具機械類が並べられて、三人ばかりの日本商人が注文欲しげな顔で売り込みに控えていた。そして番頭のジョージ・依田という二世の少年や、そのほか私が顔も見知らぬ印度人たちが主人公のカパディア氏の周りに、立ったり腰かけたりして店はいつものように混雑を極めていたが、

「HALLO! HALLO!」とその中を分けて、カパディア氏は懐かしそうに私の手を握った。自分の机の側に椅子を勧めながらそこらにいる印度人たちに、「MR・タチバナ! K・三田谷商店の支配人で有名な作家!」と紹介してくれた。有名な作家とは驚いたが、外国人の中には得て自分の友達をこういう風に高く祭り上げて、暗に日本における自分の交際を誇示したがる人々がある。どうせ相手は日本語のわからぬ印度人だし私だって生れた時から実話書きになるつもりで世の中へ出て来たわけではないから、たまに一度ぐらいは有名な作家面もしてみたくなるヨ。ともかくそのまま、高名雷のごとき顔をして腰を落ち付けたと思ってくれ。どうぞよろしくと小腰を屈めて名刺をくれる黒チャンたちは、いずれもシャシカント、マヘンダーラ、ワサント、ナナヴァティなぞという印度人特有の妙な名前をした連中ばかりであったが、今何をお書きになっていますかとか、どういう物語に興味がおありですかなぞと、知らぬが仏ですっかり大作家扱いをして聞くから私も悪い気はせず、頤を撫でながら感極まっていた。そのうちにジャヴェリという大変なものを読んだ代物があらわれて、

「MR・谷崎の春琴抄を英訳で読みました。主題がそう優れているとは思いませんでしたが、人物の性格は大変面白く感じられました。タニジャーキという作家はどのくらいの地位の人でしょうか?」と聞くから、

「有名でしたが彼はもう過去の人です。今はあまり書きません」と軽くコナシてしまって、今はもっぱらMR・タチバナの時代であるというような顔をしてくれた。ジャヴェリはもちろん詳しく日本の様子なぞ知っているわけではないから、ほんとかと思ったのであろう。それですっかり堪能して、もっとMR・タチバナの文学上の意見を聞かまほしやというような顔をしたが、これらの話の間カパディア氏は不自由な片語の日本語で日本の商人たちと値段の交渉をしながら、

「しばらく顔を見せなかったが病気でもしていたのか? 一度逢いにこちらから訪ねて行こうかと思っていたところだ」というようなことを言って、今すぐ用事も終るからゆっくりして行って欲しいとお世辞を並べた。が、私はさっきからナナヴァティやシャシカントらの輩と話はしながらも、眼だけはすこぶる変った人の上に注いでいたのであった。それはジョージ・依田がタイプライターを叩いているすぐ後方に掛けて、表通りへ眼をやったり、耳を傾けるともなくこちらの方へ靨の泛んだ顔を向けている、年頃十八、九ぐらいの可愛らしい少年の姿であった。この少年だけは珍しく頭布を巻いて、凄い光を放った飾りの宝石をそこに着けていた。日本で買ったらおそらく百円以上もするかと思われるくらいの、贅沢なよく身に合った純白の麻の背広を着て、斜めに筋の走った真紅のネクタイを結んでいた。キリリとした可愛らしいその姿よりも、私はこの少年の容貌の秀麗さに思わず見惚れてしまったのである。なんという気高そうな愛くるしい少年の顔か。印度人なぞにこれほどの優れた美少年があろうとは、まったく私にとっては生れて初めての驚きであった。絵から抜け出してきた西洋の王子そっくりの顔であった。女にもして見まほしいくらいパッチリと見開いた黒曜石のような瞳、そこには近眼鏡を掛けていた。キリッと通ったアーリヤ人種特有の高い鼻、丸顔で、皮膚の色だけはまったく周囲の黒い人たちとは違っていた。もちろん白人ではない。印度人には違いないのだが、非常に薄く鳶色を刷いて、その上へ仄白く蒼みを掛けたとでも形容したら言い表わせるのだろうか。

MR・タニジャーキを蹴飛ばしたり、ワサント、マヘンダーラたちを相手にしながらも、貪るように私は少年の麗しさに見惚れ切っていた。眺めれば眺めるほど、ほとほと感に堪えざるを得なかった。この美しさに較ぶれば、ただ白いばかりで肌膚の粗い生毛の生えた西洋の女の皮膚なぞというものは、味も素っ気もない瀬戸物の破片みたいな気持がした。初めて私には、真実の美しさというものは白人よりもむしろ磨きの掛かった優生の東洋人に存することを感じたのであった。少年は微笑んだ顔を時々私の方へ見せているだけで、また窓から往来を眺めているが、卓絶した気品はあたりを払わんばかりであった。

「MR・カパディア、素晴らしい子供がいますね。誰です、あの子供は!」と私は唸らんばかりの勢いでカ氏の肘を突いた。一瞬ハッとしたように当惑の色がカ氏の面を走ったが、

「私の兄弟です。今度日本へ来ました」

「兄弟?」と驚いて、私はカ氏を見たが、粗製の真っ黒な顔で笑っているカ氏の様子ですぐ冗談とわかった。もっとも様子で見せなくてもこの黒く焦げついたカ氏とあの子供とが兄弟であるとは、まず盲目でもない限り誰も信じるものもないであろう。

「今度印度から来られました、私共の恩人のお子さんです」と、すぐカ氏は真面目な顔に帰って紹介した。そしてよほど鄭重に取り扱っているのだろう、うやうやしく立ち上ってカ氏の母国語のカッチ語で何かその子供に話し掛けた。やがて子供は鷹揚に頷いて、立ち上ると、

「初めてお眼にかかります。MR・タチバナ!」とにこやかに目礼した。

「お名前は?」と聞いてみたら「シュータン!」と言った。あどけなく唇をややつぼめ加減に発音したのが、なんとも言えず可愛らしく見えた。しかし私にはその発音はサルタンと聞えた。

「サルタン?」

「NO! シュータン!」ともう一度子供は唇をつぼめた。それでも私が解せぬ風でいると、静かに立ち上って来て側へ席を占めたが、今私がカパディア氏と話をしながら弄んでいた鉛筆を執って Sheutan と綴ってみせた。ひとしきり私との間にいつ日本へ来たかとか、日本は気に入ったかというようなごくありふれた初対面の外国人との会話を交えたが、もちろんこんな質問に対する返事なぞは聞いている私の方でも興味なぞは感じてもいなかった。そんな返事はすべての外国人いずれも判で押したように「大変美しい」とか、「イエス! 驚くほど!」とかいう紋切り型のものであった。ただ不思議に感じたのは、この少年がさっき立ち上って来る時にも並いる印度人ことごとくが椅子から立って、慇懃な挙動で通路をあけてやったが、部屋が混雑しているからそうするのかと思っていたら今またこうやって私が少年と無遠慮にしゃべっている間印度人たちは、いかにもハラハラしたように私の方を眺めていることであった。どれほど世話になった恩人の子かは知らぬが、下らぬ心配をするものだと、可笑しく思ったが、初めて見る少年の頭布に私はすこぶる興味が湧いたからどういう風にそれを巻くのか見せて欲しいと言った。少年は気さくにすぐ頭へ手をやって幾つかの宝石を鏤めたピンを抜いて、頭布を解きに掛かった。見守っていた印度人たちはまた急いで駆け寄って手を貸そうとしたら、少年から母国語で注意されて恐縮したように凝乎と眺めていた。

「同じような形はしていますけれど、これは頭布とは言いません。頭布と言って非常に身分の高い人が使うものなのです」と傍からカ氏が口を出した。今も言ったとおり何を小さくなってやがる、この印度人ども! といった気持であったから私はカ氏の言葉など、大して気にも留めていなかった。頭布が解かれると左から右分けにした房々と恰好のいい頭髪があらわれて、少年は解いた頭布を私に示してからまた巻きに掛かった。が、巻くのにその手数の掛かることは! ものの五、六分間も掛かったであろうか。さすがに私も心ないことをさせてしまったと、気の毒なくらいであった。実は今まで私は、頭布なぞというものは、布を巻いた形をしている一種の帽子とばかり思っていたが、恰好を取りながら実際に頭へ巻いてゆく手数の掛かるのには呆れてしまった。そしてその呆れたのよりも頭布の綺麗なのにはなお一層呆れてしまい、頭布の綺麗さよりもそこに鏤められて巻いた上に挿される幾つかの宝石の大粒な美しさには、さらに眼を廻してしまった。机の上に置かれた金脚のついた宝石の一つを弄りながら、

「これは何という宝石? 金剛石ですか?」

と聞いてみたら、

「ほんの硝子みたいな詰まらないものです」

と少年はにこにこしながら、凝乎と私の顔を観察するように見守っていた。やがてその宝石を私から受け取ってから頭布に挿すのかと思っていたら、黙って手を延ばして私のネクタイへ挿してくれた。少し草臥れ加減の私の二円五十銭のネクタイは、たとえ硝子でも燦然たる光のせいで、たちまち五円ぐらいの値打に競り上ってしまった。

「どう思う、MR・カパディア! これで私のネクタイは、英国製の十五円ぐらいの品物に見えるか?」

と聞いてみたら、

「OH、イエス! イエス! 十五円どころか! 私の国の太子殿下のように見える」とカ氏は面喰らって、周りの人たちと眼を見合せて笑った。少年は面白そうに片頬に靨を泛べながら、何か母国語で言っていた。涼しい声であった。私のことを言っているに違いないと察したが、おそろしく母音の多いその言葉はもちろん私なぞには一言半句もわかりようはずもなかった。私はただ半面を見せて少年らしく笑い声を立てているその華奢な横顔を、女のような美しさ――しかもその女も、優れた彫刻家が一鑿一鑿に丹誠籠めて琢磨した、名彫刻の美しさだと思いながら眺めていたのであった。大体その日私は用件でも早く済んだら久しぶりで銀座へ出て、映画でも見て飯でも食おうかと思っていたのだったが、この黒い印度の大群を引き具して行くだけの金も勇気も持ち合せてはいないにしても、せめてこの少年だけならば見るからに可愛い子供であったし……。カ氏との用事も思いのほか早く済んでしまったので、何ということなしに私は吻とした気持を感じて少年の面に目を移した。

「もう、東京が一人歩きできますか?」と聞いてみたら、少年は困ったように肩をつぼめて、不可能な様子を示した。それなら帰りにどうせ私はここを通るから、連れて帰ってあげるが一緒に面白い所へ行ってみませんかと私は誘ってみた。周りの印度人たちは妙に不安そうな顔をして、私と少年との問答を打ち見守っていたが、

「どこへ」と、微笑みながら少年が聞いた。

「わずか五十銭ばかりの金で、頭の憂さをすっかり吹き払って、アルコオルなしで楽しむことのできる所へ!」

「どこにそんな面白い所があります?」

「当ててごらん!」と私は笑った。

「映画」

「そう穿じくらないで、ついて行くのならさあ行こう! その代り私はあとで美味しいものをあなたにご馳走してあげる」

「有難う」と少年は上眼遣いにまじまじと考えていたが、「オーライ! 連れてって下さい!」と気さくに立ち上った。がまたもや驚いたことには、私と少年とが外へ出ようとした時には、カ氏も他の印度人たちもぞろぞろと随いて来て出口に佇立しながら、右手で胸を抑えた直立不動の姿勢で第一公式の礼をした。吃驚して一瞬私は嘲弄されたような気になって眼を瞠ったが、恩人の子供だといったカ氏の言葉を思い出して、いくら恩人の子供にしたところでこうまで莫迦莫迦しい時代離れのした取扱いをする必要がなぜあるのだろうかと、この亡国連中の礼儀の仰山なのにはほとほと腹を抱える思いがした。そしてそう思いながら、今後を追って来た一人に何か言い付けている少年の後ろ姿を眺めていると、こんな美しい子供が住んでいる印度という国について、何の興味をも持っていなかった私自身の心をそこに振り返るような気持がして、凝乎と佇んでいたのであった。

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