Chapter 1 of 28

怪しき老婆

この物語は、昨年の秋の末、九州のごく西のはずれの大村という城下町の、その侍小路のふるい屋敷町におこったできごとです。

だいたいこのあたりは、そのむかし、おもだった藩士たちの屋敷跡で、むかしは裃に両刀をたばさんだ、登城すがたの侍たちの往来でにぎわっていたのでしょう。いずれも百年、二百年と年をへたむかしの屋敷ばかり……。が、いまはいたずらにおいしげったけやきやかしの老木に暗くかこまれて、だらだらとつまさきあがりの石の坂道も、あらかた朽ちさび、色あせた屋根のかわらも青苔におおわれて、昼でもキツネのなきそうにさびしいところでした。

おまけにきょうはこのさびしい屋敷町に、いっそうわびしくショボショボと、朝からしぐれがふりつづいて、暮れるに早い秋の日が、もうとっぷりと夕闇をただよわせておりました。

そして、この屋敷町の一角、坂道の木の間がくれに見える、お城の石垣と、あたりを圧してひときわいかめしい冠木門の家がありました。

この家のあるじは、よほどさざんかがすきとみえて、門から玄関、玄関からひろい築山、後庭へと、いちめんにさざんかの老樹がおいしげって、そろそろひらきそめた淡紅や白や深紅の花が、けむる秋しぐれのなかに目もあやにうつくしく、門にかけられた看板は、木のかおりもあたらしく久住医院とよまれました。

「おや、ほえてるのは、五郎丸のようだが……?」

と久住博士は、ふと夕餉の箸をおいて、ふつうではない犬のほえかたに耳をかたむけました。

そのころ、いいえ、そのまえから、この医院の飼犬の五郎丸が、くれかかった坂の下のほうの闇にむかって、しきりに喉のおくで、妙なうなりごえをたてていたのです。

犬のするどい嗅覚には、なにか人には見えない闇にうごめく異様なけはいが、それとわかるのでしょうか。いよいよちかづくそのけはいに、五郎丸のうなりは、ますます烈しくなってまいりました。

ウウ、ウウ、ウォーッ! ウウ、ウヮン! ウヮン! と、おどりあがったり、矢のように、門のほうめがけてかけだしたり、気もくるわんばかりに、はげしくほえたてていたのです。

なるほど! この犬がほえるのもどうり! 歩いてきたのか? けむりのようにしのびこんできたのか? とつぜん、白いすがたが、パッとこの暗い門のなかへ、うかびあがってきました。

と、この物語はこのへんからはじまってまいります。

それは、赤ン坊をせおって、この寒空に単衣ものをきた、ひとりの老婆のすがただったのです。しかもこの老婆は、いったい、足音もたてずに、どこからあらわれてきたのでしょう?

五郎丸がさっきから、坂の下をめがけてうなっていたところをみれば、もちろんあの長い坂を、のぼってきたにはちがいありませんが、あがるにもおりるにも、石ころだらけの坂道を、足音ひとつさせずに歩いてくるということは、けっしてできないはずなのです。

それを、この老婆は物音ひとつさせず、通り魔のごとくに、門のなかへはいりこんできたのですから、ふしぎというほかはありません。

しかも、老婆は、四方八方にけわしいまなざしをくばって、せなかの赤ン坊もわすれたように異様に底光りのする目で、にくにくしげに犬をにらみつけて、いまにも五郎丸におどりかからんばかりの、たけだけしいその形相は、これが人間の老婆かと、うたがわれんばかりです。

もうひとつふしぎなのは、この五郎丸という犬でした。これは小馬ほどもある土佐産の猛犬なのでしたが、ふだんから悧巧な性質で、むやみにほえるような犬ではなく、まして病人としてこの医院の門をくぐった人に、いままでただの一度もほえついたようなことはありません。

それが、この老婆だけは、狂気のごとくにほえたけっているのですから、何かこの老婆の正体が、ただならぬものに見えたのかもしれません。

ともかく犬は、ふだんとまったくかわって、牙をいからせ、歯をむきだして猛りくるい、いまにも老婆にかみつかんばかりです。老婆もまた、そのものすごい形相から察すれば、この猛犬におどりかかるかもわかりません。

が、そのとき、犬のほえかたがあまりにもすさまじいのにおどろいてか、玄関に灯がさして、平松という看護婦もでてくれば、かかえ車夫の吉蔵も、あきれかえったように勝手口からとびだしてきました。

とたんに、今までものすごかった老婆の形相が、ハッとしたようにおだやかな表情になって、

「しっ! しっ!」

と、おとなしく、傘で五郎丸を追いはらっているのです。

「まァ、どうしたんでしょうね? あんなにほえて! 吉蔵さん、早く、追ってあげて……」

「これ五郎丸! てめえ、いいかげんにしねえかい! ほえるんじゃ、ねえったら! ふだんめったにほえねえのに、今夜にかぎって、どうしたってんだ! これ! やめろったら!」

「だめよ、そんなことぐらいじゃ! 早く、つれていってしばってよ」

「これ! もうだまれったら、だまんねえか!」

それでも犬は、必死になって、おさえた吉蔵の手をふりもぎり、地面をけって、なおも、老婆に立ちむかおうとしているのです。そして、吉蔵にむりにひきずられ、毛をさかだてて、牙をならしている五郎丸のすがたは、もしこれが口がきけるものなら、

「あなたがたは、なにもしらないからわたしばかり叱っていますが、この婆アの正体をお知りになったら、それこそ、びっくり仰天してしまわれますよ」

と、無念がっていたのかもしれません。

ひきずられていく五郎丸を見ると、はじめて満足したように、老婆はニヤリとうすわらいをもらしましたが、やせおとろえて骨ばった顔、むきだした乱ぐい歯、それが玄関の灯影にうつってチラチラとゆれるものすごさは、まるで芝居の鬼面そっくり……。

ながめていた平松看護婦も、思わずゾッとして、背筋に氷のはしるような気持になりました。

それにしても、この老婆はなんとやつれているのでしょう。まるで骨と皮ばかり……。

あぶらっけもない白髪は、雨にうたれてしずくをたらし、ボロボロのやぶれ傘をにぎったまっさおな手! 死人が墓場からさまよいでてきたかと、うたがわれんばかりのすがたです。

おまけに晩秋の、こんなしぐれのふるうすら寒い日に、洗いざらしの単衣ものをきて、たびもはかずに、素足にピチャピチャと、すりへらした下駄をつっかけ、このからだのどこから、いったい、猛犬の五郎丸におどりかかろうとするような、あんな気力がわきでるものでしょうか?

「ちょっくらうかげえやすけんど……久住先生のお屋敷は、こちらさまでごぜえやしょうか?」

「ハァ、久住はこちらですけど……あなたは?」

「おらがは東戸松在から、めえったもんでごぜえやす。……先生さまおいでやしたら、ちょっくらこの赤ン坊さみていただきてえと、思えやんしてな夜分におうかげえして、もうしわけねえでごぜえやすけんど……」

思ったよりも、しっかりした口調で老婆はいいました。

「ご診察なら、内玄関のとなりに診察室の入口がありますから、そちらからおはいりになって、しばらくお待ちになってください。……先生は今お食事中ですから」

みてもらいたいという赤ン坊は、老婆の背中にスヤスヤとねむって、病人らしくもありませんでした。このおばあさんのほうが、よっぽど病人だわ! と思いながら、奥へいそぐ途中で看護婦の平松は、朋輩の笠井という看護婦と、廊下ですれちがいました。

「とてもおっかない病人がきたのよ。わたしゾッとしてしまったわ。すまないけれど、診察室の入口へぞうきんをもっていってくれない? あの泥足であがられちゃ、やりきれないから」

そうして、茶の間のほうへいそいでいきました。

「先生、患者さんでございますが……」

院長の久住博士は、あかるい電灯の下で、夫人の頼子といっしょに、夕餉の箸をとっていられました。

こんなさびしい片田舎にすんでいるお医者といえば、どんな白髪の老先生かと、みなさんはお考えになるかもしれませんが、博士はそんな年をとったかたではありません。まだ年も三十二、三、そうしていかにも学生あがりらしくキビキビとして、スポーツマンタイプの、そのくせどこかやさしそうな瞳がメガネの奥にまたたいていられます。

博士はついさいきんまで、東京大学医学部の、助教授までもつとめて、こんな田舎にうもれているような、ふつうありふれたお医者さんではけっしてないのです。

ただ、夫人の頼子が胸をわずらっていられるばっかりに、前途ある大学助教授の地位を、おしげもなくなげうって、転地療養かたがた、しばらく夫人の故郷近くのこの土地へきて、医院をひらいていられるかただったのです。

ですから美しい頼子も、一日もはやくじぶんの病気がよくなって、また東京へもどって、輝かしい学者としての道へ夫を専念させてあげたいと、そればっかりをねがっていました。

博士は、すこしはじぶんの勉強にもなるつもりで、ほんの数人の患者でもきてくれればけっこうだと、思っていられたのかもしれませんが、こんな田舎に、めずらしい名医がおいでになったといううわさが、人から人へつたわって、朝から晩まで患者がたえず、今では博士も、ろくろくからだのやすまるひまとてもないのです。

「これじゃあんまり繁昌しすぎて、ちとありがためいわくのようだね」

と、夫人をかえりみて、悲鳴をあげられたくらいでした。

いま看護婦から、このふしぎな患者のしらせをうけられて、このへんの貧しい百姓たちのうちでも、ことにみすぼらしい老婆で、このビショビショ雨のふる晩に、単衣もので赤ン坊をおぶってきたときいては、じぶんのつかれも忘れて、心から気のどくに感じられました。

「よし、すぐにいくよ。……だいぶうすら寒いようだから、部屋をあたためておくように……」

「まァ、かわいそうに、そんなにぬれてるの?」

と、夫人も美しい眉をひそめました。

しかし、博士や夫人のこんなやさしい心づかいも、それはまだこの老婆をひと目も見ていられないからで、その老婆というのは、はたして博士夫婦が、これほど憐みをかけるにふさわしい人間だったのでしょうか?

ただ、老婆の正体を、するどい嗅覚で見やぶったらしい五郎丸だけが、つながれながらも、あいかわらず猛りたっているらしく、また家人に警戒をうながすように、しきりに遠ぼえしているのが夜のしずけさをやぶって、ぶきみにきこえてきました。

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