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佐助痛くはなかったかと春琴が云ったいいえ痛いことはござりませなんだお師匠様の大難に比べましたらこれしきのことが何でござりましょうあの晩曲者が忍び入り辛き目をおさせ申したのを知らずに睡っておりましたのは返す返すも私の不調法毎夜お次の間に寝させて戴くのはこう云う時の用心でござりますのにこのような大事を惹き起しお師匠様を苦しめて自分が無事でおりましては何としても心が済まず罰が当ってくれたらよいと存じましてなにとぞわたくしにも災難をお授け下さりませこうしていては申訳の道が立ちませぬと御霊様に祈願をかけ朝夕拝んでおりました効があって有難や望みが叶い今朝起きましたらこの通り両眼が潰れておりました定めし神様も私の志を憐れみ願いを聞き届けて下すったのでござりましょうお師匠様お師匠様私にはお師匠様のお変りなされたお姿は見えませぬ今も見えておりますのは三十年来眼の底に沁みついたあのなつかしいお顔ばかりでござりますなにとぞ今まで通りお心置きのうお側に使って下さりませ俄盲目の悲しさには立ち居も儘ならずご用を勤めますのにもたどたどしゅうござりましょうがせめて御身の周りのお世話だけは人手を借りとうござりませぬと、春琴の顔のありかと思われる仄白い円光の射して来る方へ盲いた眼を向けるとよくも決心してくれました嬉しゅう思うぞえ、私は誰の恨みを受けてこのような目に遭うたのか知れぬがほんとうの心を打ち明けるなら今の姿を外の人には見られてもお前にだけは見られとうないそれをようこそ察してくれました。あ、あり難うござりますそのお言葉を伺いました嬉しさは両眼を失うたぐらいには換えられませぬお師匠様や私を悲嘆に暮れさせ不仕合わせな目に遭わせようとした奴はどこの何者か存じませぬがお師匠様のお顔を変えて私を困らしてやると云うなら私はそれを見ないばかりでござります私さえ目しいになりましたらお師匠様のご災難は無かったのも同然、せっかくの悪企みも水の泡になり定めし其奴は案に相違していることでござりましょうほんに私は不仕合わせどころかこの上もなく仕合わせでござります卑怯な奴の裏を掻き鼻をあかしてやったかと思えば胸がすくようでござります佐助もう何も云やんなと盲人の師弟相擁して泣いた
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禍を転じて福と化した二人のその後の生活の模様を最もよく知っている生存者は鴫沢てる女あるのみである照女は本年七十一歳春琴の家に内弟子として住み込んだのは明治七年十二歳の時であった。てる女は佐助に糸竹の道を習う傍二人の盲人の間を斡旋して手曳きとも付かぬ一種の連絡係りを勤めたけだし一人は俄盲目一人は幼少からの盲目とは云え箸の上げ下しにも自分の手を使わず贅沢に馴れて来た婦人の事故是非ともそう云う役目を勤める第三者の介在が必要でありなるべく気の置けない少女を雇うことにしていたがてる女が採用されてからは実体なところが気に入られ大いに二人の信任を得てそのまま長く奉公をし、春琴の死後は佐助に仕えて彼が検校の位を得た明治二十三年まで側に置いてもらったと云う。てる女が明治七年に始めて春琴の家へ来た時春琴は既に四十六歳遭難の後九年の歳月を経もう相当の老婦人であった顔は仔細があって人には見せないまた見てはならぬと聞かされていたが、紋羽二重の被布を着て厚い座布団の上に据わり浅黄鼠の縮緬の頭巾で鼻の一部が見える程度に首を包み頭巾の端が眼瞼の上へまで垂れ下るようにし頬や口なども隠れるようにしてあった。佐助は眼を突いた時が四十一歳初老に及んでの失明はどんなにか不自由だったであろうがそれでいながら痒い処へ手が届くように春琴を労わり少しでも不便な思いをさせまいと努める様は端の見る目もいじらしかった春琴もまた余人の世話では気に入らず私の身の周りの事は眼明きでは勤まらない長年の習慣故佐助が一番よく知っていると云い衣裳の着附けも入浴も按摩も上厠もいまだに彼を煩わした。さればてる女の役目と云うのは春琴よりもむしろ佐助の身辺の用を足すことが主で直接春琴の体に触れたことはめったになかった食事の世話だけは彼女が居ないとどうにもならなかったけれどもその外はただ入用な品物を持ち運び間接に佐助の奉公を助けた例えば入浴の時などは湯殿の戸口までは二人に附いて行きそこで引き返って手が鳴ってから迎えに行くともう春琴は湯から上って浴衣を着頭巾を被っているその間の用事は佐助が一人で勤めるのであった盲人の体を盲人が洗ってやるのはどんな風にするものかかつて春琴が指頭をもって老梅の幹を撫でたごとくにしたのであろうが手数の掛かることは論外であったろう万事がそんな調子だからとてもややこしくて見ていられない、よくまああれでやって行けると思えたが当人たちはそう云う面倒を享楽しているもののごとく云わず語らず細やかな愛情が交されていた。按ずるに視覚を失った相愛の男女が触覚の世界を楽しむ程度は到底われ等の想像を許さぬものがあろうさすれば佐助が献身的に春琴に仕え春琴がまた怡々としてその奉仕を求め互に倦むことを知らなかったのも訝しむに足りない。しかも佐助は春琴の相手をする余暇を割いて多くの子女を教えていた当時春琴は一室に垂れ籠めてのみ暮らすようになり佐助に琴台と云う号を与えて門弟の稽古を全部引き継がせ、音曲指南の看板にも鵙屋春琴の名の傍へ小さく温井琴台の名を掲げていたが佐助の忠義と温順とはつとに近隣の同情を集め春琴時代よりかえって門下が賑わっていた滑稽な事は佐助が弟子に教えている間春琴は独り奥の間にいて鶯の啼く音などに聞き惚れていたが、時々佐助の手を借りなければ用の足りない場合が起ると稽古の最中でも佐助々々と呼ぶすると佐助は何を措いても直ぐ奥の間へ立って行ったそんな訳だから常に春琴の座右を案じて出教授には行かず宅で弟子を取るばかりであった。ここに一言すべきことはその頃道修町の春琴の本家鵙屋の店は次第に家運が傾きかけ、月々の仕送りも途絶えがちになっていたのであるもしそう云う事情がなければ何を好んで佐助は音曲を教えようぞ忙しい合間を見つつ春琴の許へ飛んで行った片羽鳥は稽古をつけながらも気が気でなかったであろうし春琴もまた同じ思いになやんだであろう
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師匠の仕事を譲り受けて痩腕ながら一家の生計を支えて行った佐助はなぜ正式に彼女と結婚しなかったのか春琴の自尊心が今もそれを拒んだのであろうかてる女が佐助自身の口から聞いた話に春琴の方は大分気が折れて来たのであったが佐助はそう云う春琴を見るのが悲しかった、哀れな女気の毒な女としての春琴を考えることが出来なかったと云う畢竟めしいの佐助は現実に眼を閉じ永劫不変の観念境へ飛躍したのである彼の視野には過去の記憶の世界だけがあるもし春琴が災禍のため性格を変えてしまったとしたらそう云う人間はもう春琴ではない彼はどこまでも過去の驕慢な春琴を考えるそうでなければ今も彼が見ているところの美貌の春琴が破壊されるされば結婚を欲しなかった理由は春琴よりも佐助の方にあったと思われる。佐助は現実の春琴をもって観念の春琴を喚び起す媒介としたのであるから対等の関係になることを避けて主従の礼儀を守ったのみならず前よりも一層己れを卑下し奉公の誠を尽して少しでも早く春琴が不幸を忘れ去り昔の自信を取り戻すように努め、今も昔のごとく薄給に甘んじ下男同様の粗衣粗食を受け収入の全額を挙げて春琴の用に供したその他経済を切り詰めるため奉公人の数を減らし色々の点で節約したけれども彼女の慰安には何一つ遺漏のないようにした故に盲目になってからの彼の労苦は以前に倍加した。てる女の言によれば当時門弟達は佐助の身なりが余りみすぼらしいのを気の毒がり今少し辺幅を整えるように諷する者があったけれども耳にもかけなかったそして今もなお門弟達が彼を「お師匠さん」と呼ぶことを禁じ「佐助さん」と呼べと云いこれには皆が閉口してなるべく呼ばずに済まそうと心がけたがてる女だけは役目の都合上そう云う訳に行かず常に春琴を「お師匠様」と呼び佐助を「佐助さん」と呼び習わした。春琴の死後佐助がてる女を唯一の話相手とし折に触れては亡き師匠の思い出に耽ったのもそんな関係があるからである後年彼は検校となり今は誰にも憚からずお師匠様と呼ばれ琴台先生と云われる身になったがてる女からは佐助さんと呼ばれるのを喜び敬称を用いるのを許さなかったかつててる女に語って云うのに、誰しも眼が潰れることは不仕合わせだと思うであろうが自分は盲目になってからそう云う感情を味わったことがないむしろ反対にこの世が極楽浄土にでもなったように思われお師匠様とただ二人生きながら蓮の台の上に住んでいるような心地がした、それと云うのが眼が潰れると眼あきの時に見えなかったいろいろのものが見えてくるお師匠様のお顔なぞもその美しさが沁々と見えてきたのは目しいになってからであるその外手足の柔かさ肌のつやつやしさお声の綺麗さもほんとうによく分るようになり眼あきの時分にこんなにまでと感じなかったのがどうしてだろうかと不思議に思われた取り分け自分はお師匠様の三味線の妙音を、失明の後に始めて味到したいつもお師匠様は斯道の天才であられると口では云っていたもののようやくその真価が分り自分の技倆の未熟さに比べて余りにも懸隔があり過ぎるのに驚き今までそれを悟らなかったのは何と云うもったいないことかと自分の愚かさが省みられたされば自分は神様から眼あきにしてやると云われてもお断りしたであろうお師匠様も自分も盲目なればこそ眼あきの知らない幸福を味えたのだと。佐助の語るところは彼の主観の説明を出でずどこまで客観と一致するかは疑問だけれども余事はとにかく春琴の技芸は彼女の遭難を一転機として顕著な進境を示したのではあるまいか。いかに春琴が音曲の才能に恵まれていても人生の苦味酸味を嘗めて来なければ芸道の真諦に悟入することはむずかしい彼女は従来甘やかされて来た他人に求むるところは酷で自分は苦労も屈辱も知らなかった誰も彼女の高慢の鼻を折る者がなかったしかるに天は痛烈な試練を降して生死の巌頭に彷徨せしめ増上慢を打ち砕いた。思うに彼女の容貌を襲った災禍はいろいろの意味で良薬となり恋愛においても芸術においてもかつて夢想だもしなかった三昧境のあることを教えたであろうてる女はしばしば春琴が無聊の時を消すために独りで絃を弄んでいるのを聞いたまたその傍に佐助が恍惚として項を垂れ一心に耳を傾けている光景を見たそして多くの弟子共は奥の間から洩れる精妙な撥の音を訝しみあの三味線には仕掛けがしてあるのではないかなどと呟いたと云う。この時代に春琴は弾絃の技巧のみならず作曲の方面にも思いを凝らし夜中密かにあれかこれかと爪弾きで音を綴っていたてる女が覚えているのに「春鶯囀」と「六の花」の二曲があり先日聞かしてもらったが独創性に富み作曲家としての天分を窺知するに足りる
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春琴は明治十九年六月上旬より病気になったが病む数日前佐助と二人中前栽に降り愛玩の雲雀の籠を開けて空へ放った照女が見ていると盲人の師弟手を取り合って空を仰ぎ遥かに遠く雲雀の声が落ちて来るのを聞いていた雲雀はしきりに啼きながら高く高く雲間へ這入りいつまでたっても降りて来ない余り長いので二人共気を揉み一時間以上も待ってみたがついに籠に戻らなかった。春琴はこの時から怏々として楽しまず間もなく脚気に罹り秋になってから重態に陥り十月十四日心臓麻痺で長逝した。雲雀の外に第三世の天鼓を飼っていたのが春琴の死後も生きていたが佐助は長く悲しみを忘れず天鼓の啼く音を聞くごとに泣き暇があれば仏前に香を薫じてある時は琴をある時は三絃を取り春鶯囀を弾いた。それ緡蛮たる黄鳥は丘隅に止るとと云う文句で始まっているこの曲はけだし春琴の代表作で彼女が心魂を傾け尽したものであろう詞は短いが非常に複雑な手事が附いている春琴は天鼓の啼く音を聞きながらこの曲の構想を得たのである手事の旋律は鶯の凍れる涙今やとくらんと云う深山の雪の※けそめる春の始めから、水嵩の増した渓流のせせらぎ松籟の響き東風の訪れ野山の霞梅の薫り花の雲さまざまな景色へ人を誘い、谷から谷へ枝から枝へ飛び移って啼く鳥の心を隠約の裡に語っている生前彼女がこれを奏でると天鼓も嬉々として咽喉を鳴らし声を絞り絃の音色と技を競った。天鼓はこの曲を聞いて生れ故郷の渓谷を想い広々とした天地の陽光を慕ったのであろうが佐助は春鶯囀を弾きつつどこへ魂を馳せたであろう触覚の世界を媒介として観念の春琴を視詰めることに慣らされた彼は聴覚によってその欠陥を充たしたのであろうか。人は記憶を失わぬ限り故人を夢に見ることが出来るが生きている相手を夢でのみ見ていた佐助のような場合にはいつ死別れたともはっきりした時は指せないかも知れない。ちなみに云う春琴と佐助との間には前記の外に二男一女があり女児は分娩後に死し男児は二人共赤子の時に河内の農家へ貰われたが春琴の死後も遺れ形見には未練がないらしく取り戻そうともしなかったし子供も盲人の実父の許へ帰るのを嫌った。かくて佐助は晩年に及び嗣子も妻妾もなく門弟達に看護されつつ明治四十年十月十四日光誉春琴恵照禅定尼の祥月命日に八十三歳と云う高齢で死んだ察する所二十一年も孤独で生きていた間に在りし日の春琴とは全く違った春琴を作り上げいよいよ鮮かにその姿を見ていたであろう佐助が自ら眼を突いた話を天竜寺の峩山和尚が聞いて、転瞬の間に内外を断じ醜を美に回した禅機を賞し達人の所為に庶幾しと云ったと云うが読者諸賢は首肯せらるるや否や