Chapter 1 of 14

その一

美佐子は今朝からときどき夫に「どうなさる? やっぱりいらっしゃる?」ときいてみるのだが、夫は例の孰方つかずなあいまいな返辞をするばかりだし、彼女自身もそれならどうと云う心持もきまらないので、ついぐずぐずと昼過ぎになってしまった。一時ごろに彼女は先へ風呂に這入って、どっちになってもいいように身支度だけはしておいてから、まだ寝ころんで新聞を読んでいる夫のそばへ「さあ」と云うように据わってみたけれど、それでも夫は何とも云い出さないのである。

「とにかくお風呂へお這入りにならない?」

「うむ、………」

座布団を二枚腹の下へ敷いて畳の上に頬杖をついていた要は、着飾った妻の化粧の匂いが身近にただようのを感じると、それを避けるような風にかすかに顔をうしろへ引きながら、彼女の姿を、と云うよりも衣裳の好みを、成るべく視線を合わせないようにして眺めた。彼は妻がどんな着物を選択したか、その工合で自分の気持も定まるだろうと思ったのだが、生憎なことにはこの頃妻の持ち物や衣類などに注意したことがないのだから、―――ずいぶん衣裳道楽の方で、月々何のかのと拵えるらしいのだけれども、いつも相談に与ったこともなければ、何を買ったか気をつけたこともないのだから、―――今日の装いも、ただ花やかな、或る一人の当世風の奥様と云う感じより外には何とも判断の下しようもなかった。

「お前は、しかし、どうする気なんだ」

「あたしは孰方でも、………あなたがいらっしゃれば行きますし、………でなければ須磨へ行ってもいいんです」

「須磨の方にも約束があるのかね?」

「いいえ、別に。………彼方は明日だっていいんですから」

美佐子はいつの間にかマニキュールの道具を出して、膝の上でセッセと爪を磨きながら、首は真っすぐに、夫の顔からわざと一二尺上の方の空間に眼を据えていた。

出かけるとか出かけないとか、なかなか話がつかないのは今日に限ったことではないのだが、そう云う時に夫も妻も進んで決定しようとはせず、相手の心の動きようで自分の心をきめようと云う受け身な態度を守るので、ちょうど夫婦が両方から水盤の縁をささえて、平らな水が自然と孰方かへ傾くのを待っているようなものであった。そんなふうにしてとうとう何もきまらない内に日が暮れてしまうこともあり、或る時間が来ると急に夫婦の心持がぴったり合うこともあるのだけれど、要には今日は予覚があって、結局二人で出かけるようになるだろうことは分っていた。が、分っていながら矢張受動的に、或る偶然がそうしてくれるのを待っていると云うのは、あながち彼が横着なせいばかりではなかった。第一に彼は妻と二人きりで外を歩く場合の、―――此処から道頓堀までのほんの一時間ばかりではあるが、お互の気づまりな道中が思いやられた。それに、「須磨へ行くのは明日でもいい」と妻はそう云っているものの、多分約束がしてあるのであろうし、そうでないまでも、彼女に取っては面白くもない人形芝居を見せられるより、阿曽の所へ行った方がいいにきまっていることを察してやらないのも気が済まなかった。

ゆうべ京都の妻の父から、「明日都合がよかったら夫婦で弁天座へ来るように」と云う電話があったとき、一往妻に相談すべきであったのだが、折あしく彼女が留守だったので、「大概ならばお伺いいたします」と、要はうっかり答えてしまった。それと云うのが、「僕は長いこと文楽の人形を見たことがありませんので、今度おいでになる時には是非誘っていただきたい」と、いつぞや老人の機嫌を取るために心にもないおあいそを云ったのを、老人の方ではよく覚えていてわざわざ知らしてくれたのであるから、彼としては断りにくい場合でもあったし、それに人形芝居はとにかく、あの老人に附き合ってゆっくり話をするような機会が、ひょっとしたらもうこれっきり来ないであろうとも思えたからだった。鹿ヶ谷の方に隠居所を作って茶人じみた生活をしている六十近い年寄りとは、もちろん趣味が合う訳もなし、何かにつけてうるさく通を振りまかれるのにはいつも閉口するのだけれど、若い時に散々遊んだ人だけあって何処か洒落な、からっとしたところのあるのが、もうその人とも親子の縁が切れるかと思えばさすがになつかしく、少し皮肉な云い方をすれば、妻よりもむしろこの老人に名残りが惜しまれて、せめて夫婦でいる間に一ぺんぐらいは親孝行をしておいてもと、柄にないことを考えたのだが、しかし独断で承知したのは手落ちと云えば手落ちである。いつもの彼なら妻の都合と云うことに気が廻らない筈はないのである。ゆうべも勿論それを思いはしたけれども、実は夕方、「ちょっと神戸まで買い物に」といって彼女が出かけて行ったのを、恐らく阿曽に会いに行ったものと推していた。ちょうど老人から電話がかかった時分には、妻と阿曽とが腕を組み合って須磨の海岸をぶらついている影絵が彼の脳裡に描かれていたので、「今夜会っているのなら明日は差支えないであろう」と、ふとそう思った訳なのであった。妻は従来かくし立てをしたことはなかったから、ゆうべは事実買い物に行ったのかも知れない。それをそうでなく取ったのは彼の邪推であったかも知れない。彼女はうそをつくことは嫌いであるし、又うそをつく必要はないにきまっているのだから。が、夫に取って決して愉快でない筈のことをそうハッキリと云うまでもないから、「神戸へ買い物に行く」という言葉の裏に「阿曽に会いに行く」と云う意味が含まれていたものと解釈したのは、彼の立ち場からは自然であって、悪く感ぐった訳ではなかった。妻の方でも要が邪推や意地悪をしたのでないことは分っているに違いなかった。或は彼女は、ゆうべも会うことは会っているのだが、今日も会いたいのであるかも知れない。最初は十日置き、一週間置きぐらいだったのが、近頃は大分頻繁になって、二日も三日もつづけて会うことが珍しくないのであるから。

「あなたはどうなの、御覧になりたいの?」

要は妻が這入ったあとの風呂へ漬かって、湯上りの肌へバスローブを引っかけながら十分ばかりで戻って来たが、美佐子はその時もぼんやり空を見張ったまま機械的に爪をこすっていた。彼女は縁側に立ちながら手鏡で髪をさばいている夫の方へは眼をやらずに、三角に切られた左の拇指の爪の、ぴかぴか光る尖瑞を間近く鼻先へ寄せながら云った。

「僕もあんまり見たくはないんだが、見たいッて云っちまったんでね。………」

「いつ?」

「いつだったか、そう云ったことがあるんだよ。ひどく熱心に人形芝居を讃美するもんだから、つい老人を喜ばすつもりで合い槌を打ってしまったんだ」

「ふふ」

と彼女は、あかの他人に対するようなあいそ笑いを笑った。

「そんなことを仰っしゃるから悪いんじゃないの。いつもお父さんに附き合ったことなんかない癖に」

「まあとにかく、ちょっとだけでも行った方がいいんだけれどな」

「文楽座って一体どこなの?」

「文楽座じゃあないんだよ。文楽座は焼けちまったんで、道頓堀の弁天座という小屋なんだそうだ」

「それじゃどうせ据わるんでしょう? 敵わないわ、あたし、―――あとで膝が痛くなっちまうわ」

「そりゃあ茶人の行くところだから仕方がないやね。―――お前のお父さんも先にはあんなじゃあなかったし、活動写真が好きだった時代もあったんだが、だんだん年を取るに連れて趣味が皮肉になって行くんだね。この間或る所で聞いたんだが、若い時分に女遊びをした人間ほど、老人になるときまって骨董好きになる。書画だの茶器だのをいじくるのはつまり性慾の変形だと云うんだ」

「でもお父さんは性慾の方もまだ変形していないんじゃないの。今日だってお久が附いているでしょう」

「ああ云う女を好くというのがやっぱりいくらか骨董趣味だよ。あれはまるで人形のような女だからな」

「行けばきっとアテられてよ」

「仕方がない、それも親孝行だと思って、一時間か二時間アテられに行くさ」

ふと要は、妻が何となく出渋るのは外に理由があるんじゃないのかな、とその時感じたが、

「では今日は和服になさる?」

と、彼女は立って、箪笥の抽出しから、たとうに包まった幾組かの夫の衣類を取り出すのであった。

着物にかけては要も妻に負けない程の贅沢屋で、この羽織にはこの着物にこの帯と云う風に幾通りとなく揃えてあって、それが細かい物にまでも、―――時計とか、鎖とか、羽織の紐とか、シガーケースとか、財布とか、そんな物にまでおよんでいた。それを一々呑み込んでいて、「あれ」と云えば直ぐその一と組を揃えることの出来るものは美佐子より外にないのであるから、この頃のように夫を置いて一人で外へ出がちの彼女は、出かける時に夫のために衣類を揃えて行くことが多かった。要に取って現在の妻が実際妻らしい役目をし、彼女でなければならない必要を覚えるのは、ただこの場合だけであるので、そう云う時にいつでも彼は変にちぐはぐな思いをした。殊に今日のように、うしろから襦袢を着せてくれたり、襟を直してくれたりされると、自分たち夫婦と云うものの随分不思議な矛盾した関係が、はっきり感ぜられるのであった。誰がこう云う場面を見たら、自分たちを夫婦でないと思うであろう。現に家にいる小間使にしても下女にしても、夢にも疑ってはいないであろう。彼自身ですら、こうして下着や足袋の面倒までも見て貰っている自分を顧みれば、これでどうして夫婦でないのかと云うような気がする。何も閨房の語らいばかりが夫婦を成り立たせているのではない。一夜妻ならば要は過去に多くの女を知っている。が、こういう細かい身の周りの世話や心づくしの間にこそ夫婦らしさが存するのではないか。これが夫婦の本来の姿ではないのか。そうしてみれば、彼は彼女に不足を感ずる何ものもないのである。………

両手を腰の上へ廻してつづれの帯を結びながら、彼はしゃがんでいる妻の襟足を見た。妻の膝の上には彼が好んで着るところの黒八丈の無双の羽織がひろがっていた。妻はその羽織へ刀の下げ緒の模様に染めた平打ちの紐を着けようとして、毛ピンの脚を乳へ通しているのである。彼女の白いてのひらは、それが握っている細い毛ピンを一とすじの黒さにくっきりと際立たせていた。研き立ての光沢のいい爪が、指頭と指頭のカチ合う毎に尖った先をキキと甲斐絹のように鳴らした。長い間の習慣で夫の気持を鋭く反射する彼女は、自分も同じ感傷に惹き込まれるのを恐れるかのように殊更隙間なく身を動かして、妻たるもののなすべき仕事をさっさと手際よく、事務的に運んでいるのであるが、それだけに要は、彼女と視線を合わせることなく余所ながら名残りを惜しむ心で偸み視ることが出来るのであった。立っている彼には襟足の奥の背すじが見えた。肌襦袢の蔭に包まれている豊かな肩のふくらみが見えた。畳の上を膝でずっている裾さばきのの下から、東京好みの、木型のような堅い白足袋をぴちりと篏めた足頸が一寸ばかり見えた。そう云う風にちらと眼に触れる肉体のところどころは、三十に近い歳のわりには若くもあり水々しくもあり、これが他人の妻であったら彼とても美しいと感ずるであろう。今でも彼はこの肉体を嘗て夜な夜なそうしたように抱きしめてやりたい親切はある。ただ悲しいのは、彼に取ってはそれが殆ど結婚の最初から性慾的に何等の魅力もないことだった。そうして今の水々しさも若々しさも、実は彼女に数年の間後家と同じ生活をさせた必然の結果であることを思うと、哀れと云うよりは不思議な寒気を覚えるのであった。

「ほんとうに今日は―――」

そう云いながら美佐子は立って、羽織を着せるために夫の背中の方へ廻った。

「―――いいお天気じゃありませんか。芝居なんぞには勿体ないくらいだわ」

要は二三度彼女の指が項のあたりをかすめたのを感じたが、その肌触りにはまるで理髪師の指のような職業的な冷めたさしかなかった。

「お前、電話をかけて置かなくってもいいのかね?」

と、彼は妻の言葉の裏を尋ねた。

「ええ、………」

「かけてお置きよ、でないと僕も気が済まないから、………」

「それにも及ばないんだけれど、………」

「しかし、………待っていると悪いじゃないか」

「そうね、―――」

彼女はちょっとためらってから云った。

「―――何時頃に帰れますかしら?」

「今から行けば、仮りに一と幕だけとしても五時か六時にはなるだろうな」

「それからじゃあんまり遅いでしょうか?」

「そんなことは差支えないが、何しろ今日はお父さんの都合でどうなるか分りゃしないぜ。一緒に晩飯を附き合えとでも云われたら断る訳にも行かないし、………ま、明日にした方が間違いがないよ」

そう云っている時、小間使いのお小夜が襖を開けた。

「あのう、須磨から奥様にお電話でございます」

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