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その人は痩せた顏を俯向かしながら腕組みをして然う云つた。みのるの出した短篇の原稿もこの人は「拜見しておく。」と云つて受取つた。
その人は女の書くものは枝葉が多くていけないと云つた。根を掘る事を知らないと云つた。それが女の作の缺點だと云つた。みのるは然うした言葉を繰り返しながら歸つて來た。さうして逢つてる間にその人の口から出た多くの學術的な言葉を一とつ/\何時までも噛んでゐた。
十四
「あの仕事にはちつとも權威がない。」
みのるは直きに斯う云ふことを感じ初めた。片手に握つてしまへば切れ端も現はれない樣な百圓札の十枚ばかりは直ぐに消えてしまつた。けれどもそんな小さな金ばかりの問題ではない筈であつた。
義男に強ひられて出來た仕事の結果は、思ひがけない幸福をこの家庭に注ぎ入れたけれども、そのみのるの仕事には少しも權威はなかつた。社會的の權威がなかつた。仕事の上の權威から云つたらまだ一面から誹笑を受けた演劇の方に、熱い血が通つた樣な印象があるとみのるは思つた。
みのるの心は又だん/\に後退りして行つた。義男がさも幸運の手に二人が胴上げでもされてる樣な喜びを見せつけてゐる事にも不足があつた。二人の頭上に突然に落ちたものは幸運ではなくつて、唯二人の縁をもう一度繋がせる爲めの運命の神のいたづらばかりであつた。二人の生活はもう直ぐに今までの通りをくり返さなければならないに定まつてゐた。
みのるははつきりと「何うかしなければならない。」と云ふ事を考へた。もう一度出直さなければならないと考へた。空間を衝く自分の力をもつと強くしなければならないと考へた。みのるの權威のない仕事は何所にも響きを打たなかつたけれども、その一端が風の吹きまわしで世間に形を表しかけたと云ふ事が、みのるの心を初めて激しく世間的に搖ぶつた功果のあつたのはほんとうであつた。
その後みのるは神經的に勉強を初めた。今まで兎もすると眠りかけさうになつたその目がはつきりと開いてきた。それと同時に義男といふものは自分の心からまるで遠くなつていつた。義男を相手にしない時が多くなつた。義男が何を云つても自分は自分で彼方を向いてる時が多くなつた。みのるを支配するものは義男ではなくなつた。みのるを支配するものは初めてみのる自身の力によつてきた。よく義男の憎んだみのるの高慢は、この頃になつて義男からは見えないところに隱されてしまつた。さうしてその隱された場所でみのるの高慢は一層強く働いてゐた。
「僕のお蔭と云つてもいゝんだ。僕が無理にも勸めなければ。」
かういふ義男の言葉を、みのるはこの頃になつて意地の惡るい微笑で受けるやうになつた。義男の鞭打つた女の仕事は義男の望む金といふものになつて報ゐられた。そこから受ける男の恩義はない筈だつた。又新しく自分は自分で途を開かねばならないといふみのるの新しい努力に就いては、男はもう何も與へるものを持つてゐなかつた。
少しづゝ義男の心に女の態度が染み込んでいつた。男を心から切り放して自分だけせつせとある段階を上つて行かうとする女の後姿を、義男は時々眺めた。あの弱い女がかうしてだん/\強くなつてゆく――その捩ぢ切つた樣に強くなつた一とつの動機は矢つ張り發表された例の仕事の結果だとしきや思はれなかつた。然うして自覺の強みを與へたものは矢つ張り自分だと思つた。
けれども義男は何も云はなかつた。みのるの爲た仕事は何うしてもみのるの仕事であつた。みのるの藝術は何うしてもみのるの藝術であつた。みのるは自分の力を自分で見付けて動きだしたのだ。義男はそれに口を挿むことは出來なかつた。義男は然う思つた時、この女から一と足一と足に取り殘されてゆくやうな不安な感じを味はつた。
ある時この二人の許へ訪ねて來た男があつた。これは義男と同郷の男で帝國大學の文科生であつた。この男の口からみのるは何日の自分の作を選した眞實のもう一人を知つた。それは簑村といふ新らしい作家であつた。新聞に發表されてゐた選者の一人は病氣であつた爲、その人の門下のやうになつてゐる簑村文學士が代選したのだといふ事がこの男を通じて分つた。この大學生は簑村文學士に私淑してゐる男であつた。
みのるはそれから間もなくこの大學生に連れられて簑村文學士をたづねた。その人の家は神樂坂の上にあつた。
其の家へ入つた時、みのるは上り口の薄暗い座敷の中で箪笥の前に向ふむきに立つてゐる男を見た。初めて來た客を奧へ通すまで其所に隱れて待つてゐる樣な容態があつた。その障子が開いてゐたのでみのるの方からすつかり見えた。
昔はどんなに美しかつたかと思はれるいゝ年輩の女に奧へ通されて待つてゐると、今向ふむきに立つてゐた人が入つて來た。それが簑村文學士だつた。言葉の調子も、身體も重さうな人であつた。
この文學士は作を選する時の苦心を話した。その原稿が文學士の手許にあつた時、夏の暴風雨と大水に出逢つてすつかり濡らして了ふところだつたのを、文學士の夫人が氣にかけて持ち出したといふ事だつた。その時崖くづれで家が破壞された爲この家へ移つたのださうであつた。
「あれを讀んだ初めはそんなに好いとも思ひませんでしたが中頃から面白いと思ひだした。けれどもね、百點をつけるといふ譯にはいかないと思つてゐると、家へ有野といふ男がくる。それに話をすると其れぢや折角の此方の主意が通らないといけないから百二十點もつけておけといふんでせう。有野は自分に責任がないからそんな無茶な事をいふけれども私にはまさか然うもゆかない。それで思ひ切つてあなたの點と他の人の點を二三十も違はしておいた。他の選者の點の盛りかたを見るとあなたは危ない方でしたね。」
文學士は、この女の機運は全く自分の手にあつたのだといふ樣な今更な顏をしてみのるを眺めた。さうしてその作の中からいゝと思つた所を拾ひ出して賞めた。
みのるにはこの文學士のどこか藝術趣味の多い言葉に醉はされながら聞いてゐた。さうしてこゝにも自分に運を與へたといふ樣な顏をする人が一人居ると思つた。
今噂した有野といふ文學士が丁度來合せた。その人は痩せた膝を窄める樣に小さく坐つて、片手で顏を擦りながら物を云ひ/\した。
「けれどもね。けれどもね。」といふ口癖があつた。その「ね」といふ響きと、だん/″\に顏の底から笑ひを染み出させて來る樣な表情とに、人を惹きつける可愛らしさがあつた。
みのるはこの中にゐて、久し振りに自分の感情が華やかに踊つてゐる樣な氣がした。簑村と有野は、各自に頭の中で考へてゐる事を、とんちんかんに口先で話し合つては、又自分の勝手な話題の方へ相手を引つ張つてゆかうとしてゐた。みのるはその兩人が一人合點の話を打突け合つてゐるのを聞いてゐると面白かつた。
その内に簑村の夫人が歸つて來た。昔の女形にあるやうな堅い感じの美しい人であつた。又其所へ若い露國人が來てこの夫人に踊りの稽古をして貰つたりした。
みのるは逆上きつた顏をして、夜おそくまで引き留められてゐた。さうして又大學生に連れられてこの家を出た。歸る時一所に出て來た有野文學士と、みのるは暗い路次の外れで挨拶して別れた。
家へ歸つた時義男は二階にゐた。其所に坐つたみのるを見た義男は、その逆上の殘つた眼の端にこの女が亂れた感情をほのめかしてゐる事に氣が付いた。義男はこの頃にない女に對する嫉妬を感じながらみのるが何と云つても默つて居た。
「私が入つて行つた時にね、簑村といふ人は上り端の座敷の隅に向ふを向いて立つてゐたの。それがすつかり私の方から見えてしまつたの。」
みのるはこればかりをくり返して一人で笑つてゐた。
その晩みのるは不思議な夢を見た。それは木乃伊の夢であつた。
男の木乃伊と女の木乃伊が、お精靈樣の茄子の馬の樣な格好をして、上と下とに重なり合つてゐた。その色が鼠色だつた。さうして木偶見たいな、眼ばかりの女の顏が上に向いてゐた。その唇がまざ/\と眞つ赤な色をしてゐた。それが大きな硝子箱の中に入つてゐるのを傍に立つてみのるが眺めてゐた夢であつた。自分はそれが何なのか知らなかつたのだが、誰だか木乃伊だと教へた樣な氣がした。
朝起きるとみのるはおもしろい夢だと思つた。自分が畫を描く人ならあの色をすつかり描き現して見るのだがと思つた。さうしてあれは木乃伊だといふ意識がはつきりと殘つてゐたのが不思議であつた。
「私はこんな夢を見た。」
みのるは義男の傍に行つて話をした。さうして「これは何かの暗示にちがひない。」と云ひながら、その形だけを描かうとして机の前へ行つた。
「夢の話は大嫌ひだ。」
然う云つた義男は寒い日向で痩せた犬の身體を櫛で掻いてゐた。