四
帰りは私達は、畠村から汽船で、尾張の知多半島へと向つた。
私達に取つては、その汽船の甲板の上から見た渥美半島がなつかしかつた。衣ヶ浦から見ると、越戸の大山が最も高く、伊良湖はその脈から切れて、全く海中の一孤島のやうになつて見えてゐた。
『矢張、昔は島だつたんだね。此処から見れば、よくわかるね』
『本当だ……』
こんな風に私達は指し合つた。
知多半島の師崎と渥美半島の伊良湖岬とは、相対して、衣ヶ浦の門戸を成してゐるやうな形になつてゐるけれども、こゝらあたりから見ると、それはかなりに離れて、丸で関係がないものか何ぞのやうに見えた。汽船は次第に、佐久島、篠島の方へと進んで行つた。
佐久島は地が赤ちやけてゐて、やゝ殺風景であつたけれども、篠島は海水浴場があつたりするだけに、何処か瀟洒な好い感じがした。それに、ここには、後村上天皇の遺址が残つてゐた。それは天皇がまだ義良親王であらせられた頃、宗良親王や、北畠親房や、結城宗広などと、兵を東国に募るために、伊勢の神社港から出帆した。ところが途中颶風に逢つて、舟は皆四散した。この時、義良親王の舟は、この篠島に漂着したのであつた。親王は此処に何のくらゐ滞在して居られたかそれは歴史にも詳しく書いてないが、兎に角、その跡が今でもこの島に残つてゐるのがなつかしかつた。しかし私達はそこに寄つて行く暇はなかつた。私はその日は知多の亀崎まで行かねばならなかつた。
汽船は午後の一時頃になつて、漸く知多半島の一角師崎に着いた。こゝに来ると、伊良湖は余程形を変へて見えた。成ほど衣ヶ浦の門戸を成してゐるといふやうに見えた。しかし此処では、とても渥美半島に見たやうな山の高さと、境の静けさと、人情の質朴さと、海の雄大さとを見ることは出来なかつた。知多半島の突出してゐる伊勢湾には波がなかつた。
私達はそれから終日、半島の東側について航行した。私達は唯、低い丘陵の連つてゐるのを見た。また、その丘陵の常に頂まで綺麗に耕されてあるのを見た。汽船の埠頭にとまる毎に、乗つたり降りたりする人達にも、全く都会馴れた口のきゝ方をするものが多いのを私達は見た。
知多半島には、源義朝の長田忠致に殺された跡が残つてゐる。それに、西海岸にある大野の海水浴場は、名古屋の人達の常に行つて遊ぶところで、たしか今では電車が通つてゐる筈である。しかし、私はまだそつちへは行つて見たことはなかつた。私達は武豊、半田などを通つて、夕暮近く亀崎に来て泊つた。此処に来ると、気分は今までとは全く違つて了つた。『そんなことあらすかい』などと若い女中は言つて、その時分の私達を驚かした。
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