Chapter 1 of 3

一夜すさまじく荒れた颱風の朝、Kはいつもよりも少し遅れて家を出た。雨はまだぽつぽつ落ちてゐたけれども、空にはところどころ青いのが見えて、強弩の末と言はぬばかりの風が割合に静かに大きな樹の梢の葉を吹いてゐた。しかし何処にも風雨の跡を留めないところはなかつた。家々の屋根の甍は剥がれ、垣は倒され、電車への路の新開町はすつかり洗はれて石が出てゐた。阪に添つたところには、切断された電線が長蛇のやうに塀から下に垂れ下つてゐた。

Kは大学を出て、ついこの夏今の社に出たばかりであつた。また細君を持つてゐなかつた。かれは母と二人で暮した。水入らずの親一人子一人の暮しを。学校を卒業して社に勤めるやうになつても、五六年つゞけて来たのと少しも変らない静かな暮しを。学校に通ふのを社に変へたばかりの暮しを。かれはいつものやうに小さな川をわたつたり、林に添つたりして、通りの向うにある郊外の小さな電車の停留場の方へと足を運んだ。

でも昨夜の風雨はさう大してひどい方ではなかつたらしく、通りへ出るところの角では、そこの主らしい男がその此方の小間物屋の爺と並んで立つて、『まア、このくらゐですんで結構でした。一時はもつとひどくなるかと思ひました……。もう大丈夫です……』などと言つて雲行の早い空を眺めてゐた。

それからは新開町が続いた。顔を白く塗つて耳かくしにしてゐる女給の二三人もあるカフエーだの、肥つた爺のゐる薬屋だの、八百屋だの、蕎麦屋だの、鮨屋だのが混雑と……。そしてそこををりをり自動車が通り、荷車が通り、タンクがけたゝましい音を立てゝ通つた。

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