Chapter 1 of 6

『徒然草』の作者を正宗君はよく持ち出すが、何処かそこに似たところがある。共通したところがある。島崎君がよく芭蕉翁を持ち出すのと比べて見て、そこに非常に興味があると思ふ。

芭蕉と兼好とは、全く種類の違つた人間で、兼好が進歩して芭蕉になるといふわけではない。兼好は何処まで行つても、ああした観察と皮肉と絶望とを持つて生きて行つたに相違ないし、芭蕉はまた芭蕉でいかに談林派の空気の中に生きてゐても、矢張あゝした真面目なところのあつた人に相違ない。さう見て来ると、人間の質と言ふものは不思議なものだ。何処まで行つても変らないものだといふ気がした。

正宗君が聡明であるといふことは、文壇での通り言葉であるが、私はそれには異存はない。しかし、世間から聡明だと言はれることは好いことであるか、わるいことであるか、それはわからない。私の考では、聡明な人はよくその聡明に捉へられるものである。人が愚かに見えたり、物の将来がはつきりとわかつたり、事件の表裏がすぐそれときめられたりするといふことは、非常に好いことではあるが、また羨しいことでもあるが、一面さういふ風なのが聡明に捉へられたといふことになるのである。つまり自分の智慧にあまりに信頼した形になるのである。自分ではさういふ気でなしに、ひとり手にさうなつて行くのである。賢人は賢に破れ、智者は智に亡びるといふことがあるが、さういふ形が何処からとなく出来て来るのである。

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