Chapter 1 of 19

(一)

町立病院の庭の内、牛蒡、蕁草、野麻などの簇り茂つてる邊に、小やかなる別室の一棟がある。屋根のブリキ板は錆びて、烟突は半破れ、玄關の階段は紛堊が剥がれて、朽ちて、雜草さへのび/\と。正面は本院に向ひ、後方は茫廣とした野良に臨んで、釘を立てた鼠色の塀が取繞されてゐる。此の尖端を上に向けてゐる釘と、塀、さては又此の別室、こは露西亞に於て、たゞ病院と、監獄とにのみ見る、儚き、哀な、寂しい建物。

蕁草に掩はれたる細道を行けば直ぐ別室の入口の戸で、戸を開けば玄關である。壁際や、暖爐の周邊には病院のさま/″\の雜具、古寐臺、汚れた病院服、ぼろ/\の股引下、青い縞の洗浚しのシヤツ、破れた古靴と云つたやうな物が、ごたくさと、山のやうに積み重ねられて、惡臭を放つてゐる。

此の積上げられたる雜具の上に、毎でも烟管を噛へて寐辷つてゐるのは、年を取つた兵隊上りの、色の褪めた徽章の附いてる軍服を始終着てゐるニキタと云ふ小使。眼に掩ひ被さつてる眉は山羊のやうで、赤い鼻の佛頂面、脊は高くはないが瘠せて節塊立つて、何處にか恁う一癖ありさうな男。彼は極めて頑で、何よりも秩序と云ふことを大切に思つてゐて、自分の職務を遣り終せるには、何でも其鐵拳を以て、相手の顏だらうが、頭だらうが、胸だらうが、手當放題に毆打らなければならぬものと信じてゐる、所謂思慮の廻はらぬ人間。

玄關の先は此の別室全體を占めてゐる廣い間、是が六號室である。淺黄色のペンキ塗の壁は汚れて、天井は燻つてゐる。冬に暖爐が烟つて炭氣に罩められたものと見える。窓は内側から見惡く鐵格子を嵌められ、床は白ちやけて、そゝくれ立つてゐる。漬けた玉菜や、ランプの燻や、南京蟲や、アンモニヤの臭が混じて、入つた初めの一分時は、動物園にでも行つたかのやうな感覺を惹起すので。

室内には螺旋で床に止められた寐臺が數脚。其上には青い病院服を着て、昔風に頭巾を被つてゐる患者等が坐つたり、寐たりして、是は皆瘋癲患者なのである。患者の數は五人、其中にて一人丈は身分のある者であるが他は皆卑しい身分の者計り。戸口から第一の者は、瘠せて脊の高い、栗色に光る鬚の、眼を始終泣腫らしてゐる發狂の中風患者、頭を支へて凝と坐つて、一つ所を瞶めながら、晝夜も別かず泣き悲んで、頭を振り太息を洩し、時には苦笑をしたりして。周邊の話には稀に立入るのみで、質問をされたら决して返答を爲たことの無い、食ふ物も、飮む物も、與へらるゝまゝに、時々苦しさうな咳をする。其頬の紅色や、瘠方で察するに彼にはもう肺病の初期が萠ざしてゐるのであらう。

其に續いては小體な、元氣な、※鬚の尖つた、髮の黒いネグル人のやうに縮れた、些しも落着かぬ老人。彼は晝には室内を窓から窓に往來し、或はトルコ風に寐臺に趺を坐いて、山雀のやうに止め度もなく囀り、小聲で歌ひ、ヒヽヽと頓興に笑ひ出したり爲てゐるが、夜に祈祷をする時でも、猶且元氣で、子供のやうに愉快さうにぴん/\してゐる。拳で胸を打つて祈るかと思へば、直に指で戸の穴を穿つたりしてゐる。是は猶太人のモイセイカと云ふ者で、二十年計り前、自分が所有の帽子製造場が燒けた時に、發狂したのであつた。

六號室の中で此のモイセイカ計りは、庭にでも町にでも自由に外出のを許されてゐた。其れは彼が古くから病院にゐる爲か、町で子供等や、犬に圍まれてゐても、决して他に何等の害をも加へぬと云ふ事を町の人に知られてゐる爲か、左に右、彼は町の名物男として、一人此の特權を得てゐたのである。彼は町を廻るに病院服の儘、妙な頭巾を被り、上靴を穿いてる時もあり、或は跣足でヅボン下も穿かずに歩いてゐる時もある。而して人の門や、店前に立つては一錢づつを請ふ。或家ではクワスを飮ませ、或所ではパンを食はして呉れる。で、彼は毎も滿腹で、金持になつて、六號室に歸つて來る。が、其の携へ歸る所の物は、玄關でニキタに皆奪はれて了ふ。兵隊上りの小使のニキタは亂暴にも、隱を一々轉覆へして、悉皆取返へして了ふので有つた。

又モイセイカは同室の者にも至つて親切で、水を持つて來て遣り、寐る時には布團を掛けて遣りして、町から一錢づつ貰つて來て遣るとか、各に新しい帽子を縫つて遣るとかと云ふ。左の方の中風患者には始終匙でもつて食事をさせる。彼が恁くするのは、別段同情からでもなく、と云つて、或る情誼からするのでもなく、唯右の隣にゐるグロモフと云ふ人に習つて、自然其眞似をするので有つた。

イワン、デミトリチ、グロモフは三十三歳で、彼は此室での身分の可いもの、元來は裁判所の警吏、又縣廳の書記をも務めたので。彼は人が自分を窘逐すると云ふ事を苦にしてゐる瘋癲患者、常に寐臺の上に丸くなつて寐てゐたり、或は運動の爲かのやうに、室を隅から隅へと歩いて見たり、坐つてゐる事は殆ど稀で、始終興奮して、燥氣して、曖※なある待つことで氣が張つてゐる樣子。玄關の方で微な音でもするか、庭で聲でも聞こえるかすると、直ぐに頭を持上げて耳を欹てる。誰か自分の所に來たのでは無いか、自分を尋ねてゐるのでは無いかと思つて、顏には謂ふべからざる不安の色が顯はれる。さなきだに彼の憔悴した顏は不幸なる内心の煩悶と、長日月の恐怖とにて、苛責まれ※いた心を、鏡に寫したやうに現はしてゐるのに。其廣い骨張つた顏の動きは、如何にも變で病的で有つて。然し心の苦痛にて彼の顏に印せられた緻密な徴候は、一見して智慧ありさうな、教育ありさうな風に思はしめた。而して其眼には暖な健全な輝がある、彼はニキタを除くの外は、誰に對しても親切で、同情が有つて、謙遜であつた。同室で誰かゞ釦鈕を落したとか匙を落したとか云ふ場合には、彼が先づ寐臺から起上つて、取つて遣る。毎朝起ると同室の者等にお早うと云ひ、晩には又お休息なさいと挨拶もする。

彼の發狂者らしい所は、始終氣の張つた樣子と、變な眼付とをするの外に、時折、晩になると、着てゐる病院服の前を神經的に掻合はせると思ふと、齒の根も合はぬまでに全身を顫はし、隅から隅へと急いで歩み初める、丁度激しい熱病にでも俄に襲はれたやう。と、施て立留つて室内の人々をして昂然として今にも何か重大な事を云はんとするやうな身構へをする。が、又直に自分の云ふ事を聽く者は無い、其の云ふ事が解るものは無いとでも考へ直したかのやうに燥立つて、頭を振りながら又歩き出す。然るに言はうと云ふ望は、終に消えず忽にして總の考を壓去つて、此度は思ふ存分、熱切に、夢中の有樣で、言が迸り出る。言ふ所は勿論、秩序なく、寐言のやうで、周章て見たり、途切れて見たり、何だか意味の解らぬことを言ふのであるが、何處かに又善良なる性質が微に聞える、其言の中か、聲の中かに、而して彼の瘋癲者たる所も、彼の人格も亦見える。其意味の繋がらぬ、辻妻の合はぬ話は、所詮筆にする事は出來ぬのであるが、彼の云ふ所を撮んで云へば、人間の卑劣なること、壓制に依りて正義の蹂躙されてゐること、後世地上に來るべき善美なる生活のこと、自分をして一分毎にも壓制者の殘忍、愚鈍を憤らしむる所の、窓の鐵格子のことなどである。云はゞ彼は昔も今も全く歌ひ盡されぬ歌を、不順序に、不調和に組立るのである。

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