2
「あんな、いろんな家具などを買い込んでいる」と、それに何となく嫉妬を感じながら、心急き急きなおよく見ると、内は三間と思われて茶の間のも一つ奥が一枚襖を開いたところから、そちらは明るく見えている。そしてそこに寝床を敷いてあるのが半分ほど見えている。私は神経が凝結したようになってそちらを、なおじっと見ると、木賊色の木綿ではあるが、ふかふかと綿の入った敷蒲団を二、三枚も重ねて敷き、そのうえに襟のところに真白い布を当てた同じ色の厚い掛蒲団を二枚重ねて、それをまん中からはね返して、もう寝さえすればよいようにしてある。そちらの座敷が明るいので、よく見える。私はもう身体中の血が沸き返るようである。
「旦那が来ているのだろうか?」と、小頸を傾けてみた。
旦那らしい者があると思って見るさえ、何とも言えない不快な気持がするが、いかに欲目でそんなものはないと思おうとしても家の中の様子では、それがあることは確かである。はたして自分の他にまだそんな者があって、今その世話でこうなっているとすれば、どう、自分の身びいきという立場を離れて考えても不埒である。たとい売女にしても、容易にそんなことが出来るわけのものではない。しかしそれは彼女の自分の意思でそうなったものか? 本人の心底をよく訊いてみなければならぬが、二、三日前の夜ちょっと顔を覗けた時、すげなく硝子戸を閉めたことと言い、そののちこうして硝子戸を開かなくしたことなどを思い合わしても女には私のことにぷっつり気がなくなってしまったのではなかろうか? 何とかしてこちらの懊悩している胸の中を立ち割ったようにして見せたいものだ。母親の言った詐りごとを真に受けて、あの十二月の初め寒い日に、山科の在所という在所を、一日重い土産物などを両手にさげて探し廻ったこと、それから去年の暮のしかも二十九日に押し迫って、それも母親のいう通りを信じて、わざわざ汽車に乗って、南山城の山の中に入って行こうとしたこと、また京都中を探し歩いたこと、そんな心労を数え立てていう段になったら幾らいっても尽きない。……女は硝子戸一枚隔てたすぐ眼の前にいながら、この心の中を通ずる術もない。
私は子格子からやっと手を放して地におり立ちながら、「旦那が来ているので、ああして寝床までちゃんと用意してあるのだろうか。それとも自分の寝床かしらん?」
そんな者が来ているなら、ああして自分独り黙って絽刺しをさしているはずもない、すると、あれは、これから自分の寝る床であろうか。どうかして旦那が来ているところを突き留めたい。それが、どんな人間であっても自分はそれに遠慮して手を引くのではない。自分より以上深い関係の人間がほかにあろうとは思えない。……
そうして心の中は瞋恚の焔に燃えたり、また堪えがたい失望のどん底に沈んでしまったような心持になったりしながらもまたふと思い返してみると、女は長い間の苦界から今ようやく脱け出でて、ああして静かに落ち着こうとしているところである。それを無惨に突き崩そうとするのはみじめのようでもある。そうかと思うと、また自分という者を振り返ってみると、どうであろう。この真冬の夜半に寒風に身を曝して女の家の窓の下に佇みながら家へ入って行くこともならぬ。しかもこちらは彼女のために、長い間ほとんど自分のすべての欲求を犠牲にして出来る限りのことを仕尽して来ているのではないか。ああして温々とした寝床などをしているのに、自分はどうかといえば、これから宿に帰って冷たい夜具の中に入って寂しく寝なければならぬのである。すると、またどう考えても道理に合わない母子の勝手至極を憤らずにはいられない。
「よし。どうあっても、これはこのままには棄てておかないぞ」と思ったが、あまりに心が疲労しているので、その晩はそのまま悄然として宿に戻った。
二
でも、どうかして女だけにこちらの心を通じたい。乱暴なことをして、女の心が、もし、自分から離れていなかったとしたならば、そのためにかえって、自分を遠ざかってゆくようなことがあってはならぬと思い、胸はいろんな思いで一杯になりながらやっぱり思いきったことをし得ないでいたが、もうそうしているのにたまらなくなって、二、三日過ぎた晩同じように窓の下に立ってみたが、相変らず静寂としている。男が来ているかいないか分らないが、来ていれば、こうすれば聞くであろう。その女には、こんな者がついているぞと思わせようと思って、潜戸のところに寄って、臆せず、二つ三つ、
「今晩は!」と高い声をかけた。
すると、
「どなたはんどす?」といいながら、母親が硝子戸を開けて顔を出した。
「今晩は。私です」
「ああ、あんたはんどすか。あんたはんには、もう用はない」と、いって、そのままぴしゃりと硝子戸を閉めてしまった。
そうなると、もう、耐えにこらえぬいている憤怒がかっと込み上げて抑えることが出来ない。私は、わざと夜遅く近処合壁に聞えるように、潜戸をどんどん打ち叩いて、
「今晩は今晩は今晩は今晩は」とやけに呼んだ。
すると、家の中でも黙っているわけにゆかず母親はまた硝子戸を開けて顔を出して、少し先よりも低い声で、
「何か用どすか」という。
「何か用どすかもないもんだ。用があるから呼んでいるのです。話があるからここを開けて下さい」
「開けられまへん。ここは私の家と違います」
「ああ、もう、そんないつまでも白ばくれたことをいいなさんな。幾ら口から出まかせをいって、人を騙そうとしても、こちらが正直なもんだから、一応は騙されているが、騙されたと知っただけよけい腹が立つ。私を一体何と思っているんだ。お前さんたちに、いつまでもいいようにされている子供じゃないんだぞ。東京でもうさんざっぱら塩を嘗めて来ている私だ。今までここの女に焦れていればこそ馬鹿にされ放題馬鹿になっていたが、こう見えても丹波や丹後の山の中から出て来た人間とは人が違うんだ」私は、自分ながら少し下品だと思ったが真暗な夜のことではあり、人の往来もない、深く入り込んだ路次の中とて、母子に聴かすよりも、もし男でも来ていたら、それに聴かすつもりで、そんなことを癇高い調子でいい続けた。そしてもし、男が来合わせているならそこへ顔を出せばちょうどいいと思った。
すると、母親は、いつもに似ず私の剣幕が凄まじいのと、近処隣りへ気を兼ねるので、いつもの不貞腐れをいい得ないで、私をそっと宥めるように、
「まあ、あんたはんもそんな大きい声をせんとおいとくれやす。あんたはんも身分のある方やおへんか。あんたはんの心は私にもようわかってますよって、あの娘が病気が好うなったらまた会わせます」
「病気が好くなったら会わせますって、もう好くなっているじゃありませんか」私も少し声を低くした。「私が、どんなに、あなた方二人の身のことを長い間思って上げているか、――決して恩に被せるのではないが――そのことを少し思ってみたなら、たとい今までのような商売をしていた者でも、私にが吐かれるはずがない。……いや山科のお百姓の家に出養生をさしているの、いや南山城の親類が引き取ったのといって、みんな真赤なじゃありませんか。あなたはよく金神様を信心しているが、何を信心しているのです」私の言葉はだんだん優しい怨み言になって来た。
母親がそれについて何かいおうとするのを、押っ被せるようにして言い捲った。
「ええ、ようわかってますよって、今夜はもう遅うおすさかい、また出直して来ておくれやす。あんたはんの気の済むようにお話しますよって」
「ああ、そうですか。それじゃまた近いうちに来ますからこんど、また、もう話すことはないなどと言っては承知しませんよ」そういって、私は、おとなしく振り返って帰ろうとすると、母親は、そういった口の下から、すぐ、
「勝手にせい。今度来たら寄せつけへん」と、棄てぜりふを、私の背後に浴びせかけながら、ぴしゃりと硝子戸を閉めた。
私は、「そらまた、あのとおりの悪たれ婆だから始末にいけない」と心の中で慨歎しながら、後戻りをして、も一度戸を叩いて、近所へ恥かしい思いをさしてやろうかと思ったが、いつものとおり失望と悲憤との余り息切れがするまで精神が消耗しているので、そっと胸の動悸を抑えるようにしてそのまま路次を出て来た。
しかし、もう、そうなると、今までのように、女の気を測りかねて、差し控えてばかりいられなくなった。何とかして家の中へはいり込んでゆく方法はないものかとさまざまに心を砕きながら、好い機の来るのを待っていた。すると、いつもの通り夜九時ごろになって子窓の下に立って聞くと、めずらしい人が来ていると思われて男の話し声がする。はっと、私は胸を躍らしながら、じっと耳を澄ますと、来ているのは一人だけでないと思われて女の話し声も交っている。どんなことを話すかとなお聞いていると、
「ほんならもう帰りましょうか」と四、五十ばかりの女の声がして、
「ああ帰りましょう」と、それに応ずる男の声がする。その晩は家の中も明るい。それで急いでまたそっと格子に取りついて伸び上がって、ちらと家の内を窺うと、一番奥の、たしか六畳の座敷に、二、三人の客がちょうど今立ち上がって帰ろうとするところである。私は急いで格子を滑り下りて、すぐ左手の隣りの家ではまだ潜戸を閉めずにあったので、それを幸いと、そこの入口に身を忍ばせて上り框に腰を掛けながら、女の家から人の出てゆくのをやり過していると、
「えらい御馳走さんどした」と口々に礼をいって、何か彼か陽気な調子で話しながら、ぞろぞろ出て来た。こちらは堅くなって息を詰め、両方の家の中から幽かに洩れてくる灯の明りに、路次の敷石をからから踏み鳴らしながら帰ってゆく人影を見張っていると、闇がりでよく分らぬが、女はお茶屋のおかみらしく、中央に行くのが男で、背が高い。はてな、旦那ならばこうして一緒に帰ってゆくはずもなかろうと思っていると、一番後の女と並んで、何かひそひそと話しながらゆくのは母親である。私は、
「ああ、母親のやつめ、出てゆく。そこの路次の出口まで客を送り出すのであろう。きっと、すぐ帰ってくるので、潜戸を開けたままにしているかも知れぬ」
と、早速気がついて、それらが闇がりに路次の角を曲ったのを見済ましておいて、入口のところに来てみると、はたして潜戸を開け放しにしている。
私は、うまくしてやったりと心にうなずきながら、つっと内へ入りながら、中から潜戸を閉めておいて狭い通り庭をずっと奥へ進むと、茶の間と表の間との境になっている薄暗い中戸のところに、そこまで客を送り出したものと見えて女がひとりで立っている。
そして出し抜けに私がはいって来たのを見て、
「ああ!」と慴えたように中声を発して、そのままそこに立ち竦んだ。
私は、いい気味だというように強いて笑いながら、
「お園さん、一遍あんたに会いたいと思っていたのだ」と、つとめて優しくいいつつ、私はそのまま茶の間へ上がって、火鉢の手前にどっかと坐ってしまった。
女はそこらをかたづけていたらしかったが、もう、おずおずしながらしかたなく自分も上にあがって、向うの方に膝を突きながら、
「あんたはんが今ここへ来ておくれやしたんでは、私、どない言うてええかわかりまへん」と悄然としてふるえ声にいう。その眼は何ともいえない悲痛な色をして私を見ている。
私は、気味がいいやら、可愛いやらである。
そこへ、がらがらと表の潜戸の開く音がして、母親が戻って来た。
三
私は、入って来た時、よっぽど、あの潜戸の猿を落して、母親に閉め出しを食わしてやろうかと思ったが、それも、あんまり意地が悪いようで、それまでにはし得なかった。それというのも、そうまでになっても、私の心の内は、やっぱり何とかして、母子の心が、自分の方へ向いてくるように優しく仕向けたいからであった。
母親は通り庭から中の茶の間の前に入ってくると、思いがけなく、火鉢の向うに私が来て坐っているのを見ると、びっくりしてたちまち狂気のようになって怒り出した。
「あんたはん、何でここの家へ入っておいでやした。ここは私の家とちがいます」と、いいながら上り框をあがって、娘に向って、