二
こういう考え方に反して昔の本居宣長は神代の巻の話をそのまま文字通りに事実だと信じた。人間の浅智から見れば不合理であるが、神は人智を以て測るべからざるもの、神の代は人の代ではないから、天上に世界があっても、海底に宮殿があっても、神が島を生まれても、草や木がものをいっても、それは事実であったというのである。けれども、こういう考が今人の賛同し難きところであることはいうまでもない。そうして宣長は神代の巻の物語をそのままに事実と見、白石などはその裏面に事実があると見た違はあるが、何れも事実をそこに認めようとしたことは同じである。が、何故に不合理な、事実らしくない話を強いて合理的に解釈してそれを事実と見、あるいはそこに何らかの事実を索めなければならぬか。一体、人間は不合理なこと事実でないことを語らぬものであろうか。広い世界を見渡して、多くの民族、多くの国民に民間説話があり神話があることを知るものは何人も然りとはいうまい。然らば我々は如何様にそれを取扱うべきであろうか。
別にむずかしいことでもない。第一に、人の思想は文化の発達の程度によって決して一様でない。上代人の思想と今人の思想との間には大なる逕庭があって、それはあたかも今日の小児の心理と大人との間に差異があると同じことである。民間説話などはそういう上代の思想によって作られたものであるから、今日の思想から見れば不合理なことが多いが、しかし上代人の心理においてはそれが合理的と考えられていた。鳥や獣や草や木がものをいうというのは、今日の人に取っては極めて不合理であるが、上代人の心理には合理であったのである。けれどもそれは上代人の心理上の事実であって、実際上の事実ではない。上代でも草や木が物をいう事実はあり得ない。ただ上代人がそう思っていたということが事実である。だから我々はそういう話をきいて、そこに実際上の事実を求めずして、心理上の事実を看取すべきである。そうして如何なる心理においてそういう観念が生じたかを研究すべきである。然るにそれを考えずして草木のものをいうとあるのは民衆の騒擾することだというように解釈するのは、上代人の心理を知らないため、強いて今人の思想でそれを合理的に取り扱おうとするのであって、上代人の思想から生まれた物語を正当に理解する所以ではあるまい。
第二に、人の思想はその時代の風習、社会上の種々の状態によって作り出される。従ってそういう風習、そういう状態のなくなった後世において、上代の思想、またその思想から作り出された物語を見ると、不思議に思われ、不合理と考えられる。蛇が毎年処女をとりに来るという話がある。処女を犠牲として神に供えるという風習のなくなった時代または民族から見ると、この話は了解し難いが、それが行われていた社会の話として見れば別に不思議はない。だから我々は歴史の伝わっていない悠遠なる昔の風習や社会状態を研究し、それによって古い物語の精神を理解すべきである。我が神代の巻にも、その神代の巻が記述せられた時代には既になくなっている風俗が実際存在していた遠い昔に作られた話が伝わっていて、それが神代の巻に現われているということも有り得べき事情である。ところがそれを理解しないで蛇とは異民族のことだとか賊軍だとかいうのは、全然見当ちがいの観察ではあるまいか。
第三には、人智の発達した後において生じた詩的想像の産物が古い物語に少なくないことを注意しなければならぬ。神話というものには多かれ少かれこの分子が含まれている。天上の世界とか地下の国土とかの話は、その根柢に宗教思想なども潜在しているであろうが、それが物語になって現われるのはこの種の想像の力によるのである。事実としてはあり得べからざる、日常経験から見れば不合理な、空想世界がこうして造り出されることは、後世とても同様であって、普通にロオマンスというものにはすべてこの性質がある。それを一々事実と見て高天原という天上の世界は実は海外の某地方のことだなどと考えるのが無意味であることはいうまでもなかろう。蓬莱山が熊野だとかいうような考え方もこれと同様である。何人も浦島太郎の噺も竜宮を実際の土地とは考えまいが、それにもかかわらず、但馬守の行ったという常世国が南方支那だとか、神代の巻の海神の宮が琉球だとか博多地方だとか説くのは不思議である。