31 でも、 さびしくなるといつも あのヒコリーの風を 感じているふりをするんだ
〈ヒコリー・ウィンド〉
グラム・パースンズ(バーズ)
外も室内も静かになってたせいで、機械どもが吐き出すノイズが、このフロアを靄のようにつつんでいるのが、はっきりときこえるようになった。
コマンドを確認し、リターン・キーを叩き、プリンターに処理をわたす。すぐに点滅にもどったカーソルを、慶一は腹立たしげに見た。
デスクの両端におかれた、レンガより小さいくらいのスピーカーでは、エディー・コクランが、フェイドアウト処理を忘れたように、パタリと終わった。
右下の引出しをあけ、ちょっと考えこむ。そこには五〇枚近いCDが放りこまれているが、どれも、さして新鮮味は感じない。これが片づいたら、買い出しにいかなくては。
「滝口さん。もう、ヴォリュームをあげても大丈夫ですよ」
パーティションの上から、半月まえにこのフロアにやってきた男が顔をのぞかせて、景気よくやりましょう、というように慶一を見た。もう、ここにはふたりしかいない。
「じゃ、おまえの知ってるのをかけてやる」
「ビートルズぐらいしか知りませんよ、オールディーズは」
ビートルズがオールディーズと呼ばれる時代は、慶一には居心地が悪い。
「ジョンは、BGMにはしないんだ」
「ジョンて、ジョン・レノンのことですか?」
いつも、こういうところでつまずく。なにも説明なしに「ジョン」といったら、レノンであるのは、慶一には自明のことだった。ジョン・カーペンターやジョン・ベルーシやエルトン・ジョンはおろか、たとえジョン・フォードでも、たんにジョンなどと呼ぶわけがない。
「コーヒーいりませんか?」
慶一はうなずいて、リトル・リチャードを引き抜いた。ちょっと休んでおこう。マルチタスク機能は、機械が手いっぱいになっている、という口実をうばったが、習慣の力には勝てない。
すぐにスピーカーから、ペニマン氏の叫び声が流れる。これがあれば、覚醒剤などいらない。
「滝口さんなんかは、ビートルズ世代っていうやつでしょう」
という声といっしょに、マグが突き出された。
相手にはまったく悪意がないのだし、そもそも、そんなことばに悪意がこめられることすら、想像できないだろう。慶一はじぶんをなだめて、マグを受けとった。
「世間で “ビートルズ世代” って呼んでるのは、一九五〇年代前半に生まれた連中のことだと思う。そういう意味では、おれはそのひとりだけど、そのことばは釈然としない」
「どうしてですか」
相手は、レインボウ・カラーのリンゴがついたマグをもって、ポカンとしている。
「そのいい方だと、みんな楽しく、ビートルズを聴いてたみたいじゃないか」
「ちがうんですか」
「ちがうな。全然、そんなことはなかった。おれが中学に入ったとき、学年の一二四人中、ビートルズ・ファンは十人もいなかった」
「まだ、それほどロックを聴く年じゃないでしょう」
ロックという呼称で、またつまずいたが、これだってたんなる時代の違いにすぎない。それでも、慶一にとっては、苦い記憶しかない呼び方であることに変わりはなかったが。
「でも、この時点で聴いていなければ、もう、遅いんだ。このクラブはふたつに分かれている。ジョニー&ザ・ムーンドグズのファンと、ポール&ザ・ビートルズのファンだ。ムーンドグズ・ファンクラブの入会資格は、一九六六年以前のジョンをリアルタイムで愛したことだ。それ以降、大人たちがビートルズを容認してからは、このクラブは新規入会を打ち切った。これは人種差別みたいなもので、たいした根拠はない。差別に耐えた人間の、腹いせの逆差別さ」
「よくわかりませんね。音楽じゃないですか。楽しいか、楽しくないかの問題でしょう」
慶一は、いつもの無力感にとらわれつつあった。あのときは大人のむきだしの敵意、いまは若い連中の無邪気と想像力の欠如。どうしろっていうんだ。
「そうじゃない時代があったんだ。大人たちのあいだでは、あれは音楽ではなく、騒音だった。そういう聴力障害の連中が、そうではないかもしれない、と最初に思ったのは、たぶん〈イエスタデイ〉のときだ。ポール&ザ・ビートルズ時代の夜明けさ」
「ビートルズ世代の意味は、どうなったんですか」
「まだ枕だ。ビートルズ世代っていわれる連中のなかには、〈イエスタデイ〉しか知らない奴だって、うようよいる。ジョンが殺されたときに、あの曲をかけるテレビ局が圧倒的多数だった国だぜ、わが日本国は。クレジットはなんであれ、あれは純粋にサー・ポールの曲で、ジョンはまったく関係ない。こんなことは、二引く一みたいに常識だ」
「ポール・マッカートニーって、貴族なんですか」
「いずれ、そうなる。まったくお似合いだぜ。おれにいわせれば、同世代の人間の大部分は、あのとき、大人たちとおなじ世界にいた。おれたちのほうは、ビートルズが地球をおおっているのを意識して生きていた。おたがい、宇宙がちがう。それを、ひとまとめに “ビートルズ世代” って呼んでるんだ。だいたい、そんな名前は “ストーンズ世代” の連中には迷惑だろうに」
「ビートルズって、ストーンズみたいなワルのイメージがないのに、へんですね」
まただ。後世の常識には勝てない。慶一は罠にはまった気分だった。
「かつては有害だと思われていたし、それは根拠のないことじゃなかった。だから、これは世界観のちがいで、ビートルズ排斥を叫んだ連中は、彼らなりに正しかった。おれが腹を立てているのは、そのことじゃない。ビートルズが、二〇世紀を代表する芸術家に祭りあげられてからは、だれもかれもが口をぬぐったことだ」
「尊敬されるようになったんだから、けっこうじゃないですか」
ちがう。もういちど背景を説明しなおそうと思ったとき、電話のベルが鳴った。
「ぼくが出ます」
慶一は背後の柱をふりかえる。時計は、朝へむかって二本の針を倒しはじめていた。
「少々お待ちください」
「おれか?」
これくらいの時間の電話というのは、そう頻繁にあるわけでもないが、とくにめずらしくもないので、慶一はべつにいぶかりもせず、スピーカー前面にあるヴォリュームをしぼった。
すぐにじぶんの電話のベルが鳴り、すこし上体を伸ばして、デスクのむこうはしで、紙きれの波に洗われている電話器を引き寄せる。
「お電話かわりました。滝口です」
「慶一、おれだ」
最近は、ファーストネイムで呼びかけて、オレだ、などという人間は、そうたくさんいるわけではない。
「なんだ、高志かさ。ひさしぶり。なんだよ、いまごろ」
「おまえ、ここ二、三日帰ってないだろ。留守番電話ぐらい買えよ」
「嫌いなんだよ。夜中に帰って、女房どのの声をきいてみろっていうの」
ホワイトノイズのような笑い声が返ってくる。
「自業自得じゃねえか。『結婚とは、離婚の主たる原因である』」
「なんだ、それは」
「グルーチョ・マルクスだ。それとも、グラウチョウ・マークスかな」
「どっちでもいいけどさ。奥方、元気でやってるか」
「知らん。女の時代だとかで、商売やらヴォランティアやらで、ときたまマニュキアを忘れるぐらいだ。山手の丘で育った女がこれだから、日本中の女が躁病になったのも無理はない」
「それは一大事だな。でも、すこしは浪費がとまるんじゃないか」
「おまえ、本気でそんなことをいってるのか。マニキュアをする時間はなくても、ドレスを買う時間や、アクセサリーを選ぶ時間はある。むこうは、どこへでもついてくるんだからな」
受話器のむこうで、なにか音楽が聴こえる。慶一はプレイヤーのストップボタンを押した。〈ノーホエア・マン〉だ。もう終わろうとしている。
「で、なんか用かよ?」
「悪い知らせだ。寮が壊される」
「えっ、そうなのかさ」
「ああ、ヘッケルもジャッケルもばっさりさ。更地にして、校舎を建てるんだとよ」
「ふーん……。で、いつ?」
「来年の二月だ。だいぶ以前から準備してたんだ。もう寮生は六年だけらしい」
「そうだったんだ……なんで、そんなことになったのやら」
「学校経営だって、経営だ。コストパフォーマンスの問題さ。寮は赤字の元凶だ。それに、いまどきのお子たちは、寮生活なんか歯牙にもかけない」
「まいったな。……そんなこと、考えてみたこともなかった。で、女子寮は?」
「とうのむかしに校舎に転用して、今回は影響なしだ。さすが、生命力がちがう」
「律儀な格好してるから、つぶしがきくんだろうな」
「ついては、だ。最後のパーティーを開く」
「寮でか?」
「ほかにどこでやるんだ。再来月の三、四の二日間、寮を借りきった。ちゃんと泊まれる」
「よく貸してくれたな」
「馬鹿いうな。オレたちは一期だぞ。あんな、熊の出そうな山奥のわけのわからん学校に入ってあげた、学校にとっての恩人じゃねえか。寮長だって、死ぬまえに、なんどもそういってたくらいなんだからな。一晩くらい、貸して当然だ」
「そりゃ、そうかもな」
「おまえ、こんどばかりは参加しろよ」
「ああ、そうしようかな」
寮長の通夜に顔を出したくらいで、慶一は同窓会にはいっていない。
「かな、なんて、煮えきらないこといってないで、イエスっていえよ」
「だって、わかんないんだよ、仕事がどうなるか」
「仕事なんて、ほかにいくらでもある。オレたちの寮はあれだけだ」
「ま、そうだけどもさ……。ほかに、どんな仕事があるっていうんだ」
「『ウェイターなんか、どうだ?』」
それとわかるように、高志は声のピッチをさげた。
「また、グルーチョかさ」
「ご冗談でしょ。リリアン・ヘルマンをちょっと変えたんだ。とにかく、こんどはこいよ」
「そうだな……じゃ、いくか」
「そうしろ。いま、ヤマと企画を練ってる。ワラもくるぞ」
「へえ。よく、くる気になったな」
ワラとは、もう十年以上会ってない。いや、とんでもない。十五年以上だ。最後に会ったのは、あいつが大学を卒業した夏のことだ。
「さっき、電話で話してたんだ。二人目のガキができたとよ。あいつのメッセージを伝える」
「へえ、ワラも高志をメッセンジャーボーイに使うようになったのか、エライもんだな」
「いいから、きけ。メモってあんだ。“Let’s make it for THE FUCKING LAST TIME” だと」
「まったくだ」
「――じつは、怒らないできいてほしいことがある」
「なんだ、いまのは全部ガセだったのか?」
「いや。でも、いわなかったことがある」
「これだ。カードをかくしておく手つきが古めかしくて、懐かしいね。で、なんだよ」
「令子が帰ってるんだ。いま、磯子のばあさんのうちにいる。パーティーには出るはずだ」
「へえ、令子ちゃん――いや、もう、ちゃんじゃないか。彼女、元気なのかさ」
「知らん。どうしておまえは、そういうふうに、他人が元気かどうかなんてことをきくんだ。だいたい、いつまでたっても、おれとあいつが兄妹だと思ってるのも、困ったもんだ。うちの親父とあいつのおふくろが別れたのは、黒船がきて、下田と神奈川が開港したころだぜ」
「そんなこといったって、無理だって……」
といいかけて、慶一は口をつぐんだ。
沈黙を縫って、受話器のむこうから〈ホワット・ゴーズ・オン〉のハーモニーが流れてくる。リンゴのリードも、ジョンとポールのハーモニーも、ひどくせつない。
「令子が出ても、おまえ、くるか?」
「いくよ。会いたい」
「水をさすつもりはないけど、おまえ、あいつの年をわかってるんだろうな」
「いくつんなった?」
「馬鹿いってんじゃない。オレたちのひとつ下じゃねえか。勝手に年とるのをやめられるかよ」
「じゃあ、六か七か……」
慶一は、令子の誕生日を知らないことに気づき、愕然とした。
「じゃあも、なにも、七だ。もう、ババアだよ。覚悟しておけ」
受話器のむこうで、ジョンが懇願する声が聴こえた。
「『ラバー・ソウル』か……」
「おまえ、最近、これを聴いたことあるか?」
「いや、ホコリかぶってる」
「聴かねえほうがいいぞ。生きてるのが、いやになってくる」
「うん。さっき、〈ホワット・ゴーズ・オン〉のジョンのハーモニーが聴こえたら、なんか、あの時代にむかって、ぶっ飛ばされたような気がした」
「聴くんだったら、CDを買え。ありゃ、完全にセンティメントが欠如してるからな。あの赤盤のほうは眠らせておけ」
「ああ、そうするよ。どっちにしろ、もうカビが生えて、聴けたもんじゃないだろう」
「さてと。邪魔して悪かったな」
「いいえー、ウェイターになれば、すむことです。案外、面白いかもしれない」
「とにかく、近いうちに招待状がいくはずだ。あ、それからな――」
「なんだよ」
「令子もおまえに会いたがってる」
慶一は、なにかいおうとしたが、ことばにならなかった。
「でも、磯子にはいくなよ。きみたちの感動的な再会は、おれがセッティングしてやる。ふた月ぐらい、待てるだろ。三七歳一カ月と三七歳三カ月には、たいしたちがいはない。どっちもババアだ」
「ああ、いかないよ。どっちにしろ、道を知らない」
「交番できくとか、タバコ屋できくとか、おまえだって、それくらいはできるだろうが」
「おれ、浅井って苗字しか知らないぜ」
「そういえば、そうだな。ま、どっちにしろ、つまんねえ苗字だ」
「つまんないことでも、ナゾとなると、興味がわくけどさ」
「なら、楽しみは最後までとっておけ」
「ひとつだけ教えてくれないか。なんていうか、エーと、彼女、子どもは何人――」
「まだ、シングルだ。子どもはいない」
「まさか。彼女みたいな人がどうして……」
「理由は知らない。おれたちには関係ない。令子の事情だ。いっておくけど、あいつにきいたりするなよ。こっぴどいロウブロウを喰らう。アホなことに、おれはきいちまったんだ」
「へえ。むかしの仇をとられたんじゃないの。まあ、いいや。その件は約束する」
「邪魔したな。来月の末にでも、また電話する。じゃあ、仕事しな」
しばらくは仕事にもどろうと努力したが、すぐに投げだして、帰り仕度をはじめた。ささやかな弁解の道具として、プリンターから吐き出された紙束をもち、上着のポケットにディスクをほうりこんだ。
慶一にはわかっていた。うちに帰ったら、仕事なんかしない。古いシングルをほうりこんだ段ボール箱をひっぱりだして、スクラッチノイズだらけのロックンロールを、朝まで聴きつづけるだろう。